邂逅
――――ご主人様が出かけてからずいぶんと経つ。
いつもならばもう帰っていてもおかしくない時間帯だ。何か特別な用事があるとも言っていなかったのだから、何かあったのかもしれない。そんな一抹の不安を抱えながら、わたしはいつもの通り仕事に励んでいた。
仕事とは言っても、やることは少ない。特段何かを収穫する必要も無いし、せいぜい虫が着いていないか、何か異変はないかと1種類ずつ植物園の中を見て回るくらいだ。体を大きく動かすようなこともないわけで、疲れない分ちょっぴりお得というものだろう。
それに、ご主人様が居ない方が気が楽なのも確かだ。どれだけ気を配っても、何か一つはミスを見つけてわたしのことを叱ってくるから。水をやり忘れているだとか、虫に食われた葉をそのままにしているだとか、とにかく色々鋭いのだ。まだ12才なのだからちょっとくらいは大目に見て欲しいのにといつも思うのだが、ご主人様は怒ると怖いのでなかなか言い出せない。それに、ご主人様は私を養ってくれているのだからあまり無茶を言ってしまっては迷惑がかかるんじゃないか、なんて考えてしまうと余計に言えない。
そんなわけで、少なくともご主人様が帰ってくるまでは暇だ。暇なことなんて滅多にないのだけれど、それと同じくらいやることもない。ご主人様のものは触っちゃいけないし、わたしにできることと言えばやっぱり植物を見て回ることくらいなのだ。
ふと、見回りをしている際に違和感を覚えた。朝はなんともなかったはずなのに、植物園の端の方の植物が枯れていたのだ。朝にはなんともなかったはずなのに、急に枯れるだなんて変だ。水だってしっかりあげていたはずだし、虫がいたら見つけてるはず。何より朝はなんともなかったのだから明らかにおかしい。肥料を上げすぎた訳でもないだろうし、何故かは分からないけど今日怒られるとしたらここなんだろうな……なんて考えていたら、玄関についているベルが鳴った。
「ご主人様…じゃないよね」
きっと、そうなら遠慮なく入ってくるはずだ。ご主人様は私に対して帰ってきたことをわざわざ告げるほど優しくはない。そしたら別の人なのだろうけど…
「うむむむ、誰なんだろ」
とにかく確認しないことにはどうしようもないので、急いで応対しに行かなくてはならない。万が一ご主人様だったのなら大変だし、そうでなくともご主人様のお客様なことは変わらない。今はいないことを伝えて、それから…
そんなことを考えながら、玄関扉の前につく。こんなことは滅多にない。いつもならご主人様がすべて自分でやってしまうから。吸って、吐いて。息を整えてから、目いっぱいの愛想を浮かべてドアを開けた。
「はい、どちら様でしょうか!残念ながらいま、ご主人様は―」
「知っている。それと…君、名前を教えてもらってもいいか」
扉を開ければ、そこにはとびっきり無愛想な顔つきをした男の人がいた。身なりはそこそこ整っているものの、いつものご主人様の知り合いに比べたらずっと平凡だ。それに…
「名前…ですか?」
「ああ。嫌なら呼ばれたい名前でもいいが…とにかく、名前は?」
出会って急に名を名乗れだなんて、何かまずいことでもしてしまっただろうか?少し不安を覚えながら、聞かれたことには答えなくてはと口を開いた。
「名前は…ないです。ここにはご主人様とわたししかいませんし、名前というものは必要ないとご主人様が」
彼がその無愛想な顔をよりしかめたように感じて、その続きをいうのをやめた。もしかすると余計に機嫌を悪くさせてしまったのかもしれない。
しかし彼に謝ろうとすれば、それを止めるかのように手を前に出すと、
「…ならいい。それより、何か異変はないか?ここに来るまでに少し手間取ってしまった。奴がすでに接近しているのなら、早急に動いた方がいい。…そうだな、植物に異変は?」
「えっと、植物ですか?…確かに庭の端の方で何故か枯れてたのがありましたけど、それが何か…?」
彼は舌打ちをして、
「そうか。…ならば、すぐにでもここを離れるべきだ」
「えっ…」
それは至極当たり前のように言われた言葉だったが、わたしにはとても遠い言葉に聞こえた。「ここから離れる」だなんて、この家から出るだなんて。そんなこと、考えたこともなかった。
「どうして、ですか」
「危険だからだ。私は君を助けにきた。君が言うご主人様とやらにも了承は得ているし、ここを離れてもいいと彼も言っていた。君がここに残る理由はない。さぁ、早く行こう」
理解が追い付かない。彼がどうしてこんなことをしているかがわからない。わたしなんかを助けるために、わざわざここに?でも、そんなことしても意味なんてないのに。なのに。なぜだか心の中がとても暖かいような、安心するような、そんな気持ちになってしまうのはなぜだろうか。
後ろの方から何か音がする。植物園でなにか起きているのだろうか。大事な場所のはずなのに、どこか別の世界のことのように考えてしまう。
「…ああもう、行くぞ!」
彼は少し焦った様子で、わたしのことを持ち上げた。その大きな体は私の倍以上はあって、小さく軽いわたしの体はやすやすと持ち上げられてしまう。知らないうちに涙が出ていたのか、上に体が動くと雫が飛んだ。そのままなすがままにされていれば、彼はわたしを横にして体の前で抱えた。くるりと外へと向きなおれば、ものすごいスピードで彼は走り出した。
ふと、遠ざかっていく屋敷が見えた。そこには―悪夢がいた。
それは、おおよそ人とは違うものだとすぐに理解した。巨大な体躯は昔村で見た牛などよりはるかに大きく、屋敷よりかは小さいものの信じられないほどの大きさだ。緑色の細長い触手が球根に近い形をした本体のようなものから大量に出てきており、それがあの植物園の外壁を突き破って中を蹂躙している。植物の根っこのようにも見えるそれは、しかし遠目から見ても異常なほど脈動している。明らかにそれは、人知を超えた怪物だった。
わたしが見ているのを察してか、それとも体の震えが彼に伝わったからだろうか。彼が話し始める。
「あれはな、『完全飢餓』という化け物だ。栄養を求めてここに来たのだろうな。…安心しろ、対処法はある。私ならできる」
最後の言葉はわたしを安心させるように言ったのだろうか。少しだけ優しく、親戚のおじさんがそう話すように言った彼は、不意に止まってわたしを地面へと降ろした。
「君は少しだけここで待っていてくれ。私は、アレを始末してくる」
「…大丈夫、なのですか」
絞り出すような声しか出なかった。あんなに大きいのに、あんなに恐ろしいのに、それなのに彼はあの存在を全く恐れていないように感じた。「この人ならきっと大丈夫なのだろう」と思う気持ちとともに、「どうしてそんなに勇気があるのか」「なぜ怖くないのか」など半ば彼をも恐ろしく感じてしまった。
それでも彼はそこに立っていて、その後ろ姿はなぜか頼もしく感じた。
「ああ。すぐに戻ろう。危ないと感じたら逃げてくれ」
その言葉にこくんと頷けば、彼は怪物へと向き直り、懐から一つのナイフを取り出した。持ち手の部分が大きく、そこには何かダイヤルのような物が付いていた。彼はそれを回すと、小さく「
見えなくなった。いや、きっとすごいスピードで走り出したのだろうと後に残った風と砂煙からわかる。わたしを抱えて走っていた時よりもずっと、ずっと速く彼は走っていった。さっきでもあんなに速く感じたというのに、それ以上のスピードで
刹那、彼が飛び上がったと思えば怪物の体を駆け上り、触手の群れをかいくぐり、大きな球根じみた本体に近寄り、そして。
それが縦に切れた。きっと彼が何かしたのだろうけど、何が起きているかはさっぱりだった。それでも、それはとても綺麗なものに見えた。そのまま彼は開いた穴に身を躍らせて、姿が見えなくなる。しばらく経てば再び彼が出てきて、その時にはすべてが終わっていた。
彼が姿を見せれば、今まで必死に抵抗していたその怪物は動くことをやめた。まるで殺虫剤を撒かれた区画に誤って足を踏み入れた虫のように、体を震わせていた。少しの間そうしていたかと思えば、最後に大きく一度体を揺らしてそのまま地面へと巨体を投げ出すように崩れ落ちた。ここからでも、もう大丈夫なのだとわかった。
彼がわたしのところに戻ってくる頃には、すっかり辺りは静かになっていた。ナイフを拭って仕舞った後、彼は一つの球体のものを見せてくれた。
「これが、あの怪物だ。コア…といえばわかるか?これを取り出してしまえば、あの怪物は向こう数千年悪さができなくなる」
緑がかっており、どこかあの触手の面影が残るソレを彼はケースにしまい、再び話し出す。
「もう、これで大丈夫だ。…ところでだが、君には選択肢がある」
「…どういうことですか?」
「簡単な話だ。私に、ついてこないか?おそらく今の暮らしよりも君を満足させられるだろう。もっといろいろなことを体験させてあげられるだろう。なにより、」
と彼はそこで一度言葉を切り、少しの時間ののち
「…名前も、付けてあげられる」
と言った。その声はどこか悩んでいるような、それでいて苦しんでいるような感じがした。
「わたしは、」
…どうすればいいのだろうか?
今まで、屋敷の外のことなんてほとんど知らなかった。小さいころにいた村のことと、そこから買われてきたときに通った屋敷までの道のことしかわからない。そんなわたしが、ここから出て行って大丈夫なのだろうか?何か迷惑をかけてしまわないだろうか?
言葉に詰まっていれば、彼はまた話し出す。
「嫌なら、嫌といってもいい。あくまでこれは私の我儘でもあるからな。自分がどうしたいかを考えるんだ」
「どうしたいか?」
「ああ。君は、これからしたいことはあるか?」
したいこと。考えるまでもなく、口から言葉が零れた。あの化け物、『完全飢餓』に向かっていったあの背中を。あの時に見せた途轍もない身体能力を。あの綺麗な光景を。
「―あなたを、見ていたい」
男は一瞬、言葉に詰まったかのように口を噤んだ。少しの間黙っていたかと思えば、おもむろに手を差し伸べて。
「そうか。なら、一緒に来るといい。私のことは…そうだな、”教授”とでも呼べばいい。皆そう呼ぶからな」
その手を見て、なんだかとても嬉しくなってしまった。その大きな、温かい手を取って、
「―はい!」
と、なんだか泣きそうな声になりながらも答えた。
これは、私と教授との出会いの物語。そして、これは私の物語だ。ここから始まり、いまだ続く物語なのだ。
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