第15話 Love connection 節制~Temperance~

仕事終わりに合わせて迎えに来てくれた瑠偉に連れられて、彼の勤務先であるコンサルティング会社の地下駐車場に車を置いた後、目抜き通りを西へ歩いた。


夕暮れ時になっても蒸し暑さは相変わらずで、ホームで電車を待っている間にも汗だくになると零したら、いつでも涼みにおいでと笑顔で返された。


瑠偉の住むタワーマンションから、静乃のオフィスビルまでは電車で2駅。


便利な事この上ないが、その生活に慣れてしまう方が怖い。


週末を彼の部屋で過ごした後、自宅のアパートに戻った瞬間の、あの夢から醒めるような気持ち。


シンデレラの気持ちがほんの少しだけ分かってしまって切なくなった。


ここが夢か現実か時々分からなくなるのだ。


夢ならもういっそずうっと眠り続けたい気もするし、すぐに目覚めて自分の現実を思い知りたい気もする。


ぼんやりと詮無い事を考えていたら、いつの間にか繋がれていた手を軽く引かれた途端、一気に身体に纏わりつく湿気が消し飛んだ。


舗装されたアスファルトの上を歩いていたはずの足元が、急に西洋を思わせる石畳に変わり、あれ?と思った瞬間に、すぐ目の前にくすんだ白壁の小さな家が見えた。


別世界に迷い込んだような錯覚に襲われて、無意識のうちに瑠偉の手をぎゅっと握りしめていた。


「看板は出してないけど、ここはね、茶房なんだよ。普通のお店だから大丈夫」


石造りの階段を数段降りて、すりガラスのはめ込まれた木製のドアを開けると、そこは瑠偉の説明通りこじんまりとした小さな店になっていた。





★★★★★★





「安心しました」


店長だと紹介された奏が、気易い笑みを浮かべてハーブティーを差し出して、テーブル席の向かいに腰を下ろした。


仕事の話があると言ってカウンター席に移動した瑠偉と、隣に並んで座るこの茶房のオーナーだという那岐をちらりと振り返って、声を落とす。


「ええ・・っと、それは、どういう・・?」


「ごめんなさい・・・お二人の馴れ初めを、少しだけ聞いていたもので」


「・・ああ・・・なるほど」


店に入って間もなく、カウンターの奥から駆け出して来た彼女が、探るような表情を見せていた理由がやっと分かった。


最初は、瑠偉に好意を寄せていて、自分に敵対心を抱いているのかと思ったが、自己紹介の時に聞こえて来た音色は、ただひたすらに静乃を気遣う音だったので不思議に思っていたのだ。


「もし、瑠偉さんがこのお店に連れて来た時に、お相手の女性が困っているようだったら、那岐に頼んでどうにかして貰おうと思ってたんですよ。やっぱり、無理強いは良くないと思うので」


何をどこまで詳細に聞いているのかは分からないが、瑠偉の仕事仲間らしいので、ある程度こちらの情報は筒抜けだと思った方が良さそうだ。


ここは社外で、静乃は張りぼての高嶺の花を演じる必要もない。


無理に肩肘張らずに済むのはむしろ有難かった。


「だから、幸せそうで、安心しました」


「幸せそう・・・」


「はい!瑠偉さんのあんな優しい声、初めて聴きましたよ。紳士的な方だとは思ってましたけど、彼女さんの前では一層柔らかい話し方されるんですね。あと、あなたの匂いも・・あ」


「匂い・・?あ、この香水お気に入りなんです。モンゲラン」


入社当初、聖琳女子のブランドを背負う自分を鼓舞するために一揃え用意したもののうちの一つが、香水だった。


学生時代、上流階級の一部のクラスメイト達がこぞって着ていたブランドの洋服を清水買いした勢いで購入したその香りは、唐橋静乃としての価値を確定させてくれた。


それ以来、一度も浮気をしたことが無い。


というか、自ら進んで社会人唐橋静乃の枠の外に手を伸ばした事が無かった。


そこに意味は無いと思っていたからだ。


羨望、好意、興味の音が聴こえてこない自分は無価値だと、そう信じていたからだ。


けれど、奏が微妙な表現になって視線を揺らす。


「ええっと・・・」


「はい」


「私、香水とかではなくて、その人の気持ちが・・・なんとなく匂いで分かっちゃうんです」


「え・・」


「気持ち悪かったらごめんなさい!そのせいで人付き合いを避けて生きて来たので、この店に来てから初めての普通の女性のお客様だったんで・・・つい、油断してしまって・・・その」


「・・・私の匂いって、幸せそうですか?それは・・・えっと、瑠偉さんも?」


「はい!それはもうとっても!お二人がお店に入って来て、挨拶をした瞬間からずうっと満たされた陽だまりみたいないい匂いがします。お付き合い順調なんですね。瑠偉さんは相当あなたにご執心のようでしたけど・・・愛情が循環してる感じがして、安心しました」


前のめりになって応えた奏に、少なからず親近感を抱いてしまったのは同じ気持ちになったからだ。


「私も、奏さんに会った時は・・・その、ちょっとだけ、瑠偉さんを挟んだライバル関係になるのかなって疑ってしまったんですけど・・・聞こえて来た音が全然違っていて・・・安心しました。ただただ、私の事を気にかけてくれてありがとう。私は匂いは分からないけれど、その人のの放った声で感情の音を拾ってしまう体質なんです。だから、大変な事もちょっとは分かります」


「・・・那岐が、この店にあなたを呼んでくれた理由が分かりました。このお店、ちょっと不思議な感じがするでしょう?彼の仕事柄、変な場所に作ったそうなんですけど、入り組んだ場所にあるので普通の人は辿り着けないんですって。那岐が、選別して許可を出した人しか入れないようにしているんです。防犯の意味も含めて。最初の挨拶で、静乃さんは登録が終わったはずなんで、これからはいつでもこのお店に来てもらえます。茶房に行きたい、とか、私に会いたいとか、思ってくだされば。摩訶不思議な話なんですけどね」


「・・・夢みたいなお話ですね」


「ですよね」


私も最初はそうでしたよ、と奏が笑う。


瑠偉が纏う独特の空気の一部は、確かにこの店のそれとよく似ていて、ここに連れて来られたという事は、彼の内側に踏み込んだという事なのだと理解した。


「でも・・・私、瑠偉さんに出会ってからずうっと長い夢を見ているような感覚なんで、信じられます。私、社会人長くしてるんですけど、友達一人もいないんです。良かったら、お友達になって貰えますか?」


異なる共感覚を持つ誰かと初めて出会えたのも、運命のように思えて来る。


ドキドキしながら視線を向けると、奏がぱあっと表情を明るくした。


「嬉しいです!ぜひ!」


完全に対等な場所で、初めて他人と向き合ったのだと思い知らされる。


ここには張りぼての高嶺の花は存在しない。


ただの、不器用な女の子が、二人、いるだけ。





★★★★★★





「いつまで笑ってるんですか?」


忍び笑いを続ける瑠偉を振り返って、静乃は眉を顰めた。


真後ろにあった筈の店は、石畳を十数歩歩いただけでもう見えなくなっていた。


不思議は不思議として受け止めて、一先ず二秒で隣に並んで来た長身をねめつける。


「嬉しいのと、悔しいのと、楽しいのが、久しぶりにごちゃ混ぜで。今日は妬いてくれなかったね」


「それは悔しいの?」


「当ててみて。僕の声はどんな音?」


優雅に微笑んだ彼が片眼を瞑るおまけ付きで投げ返して来た。


「だって瑠偉さんから聴こえる音がごちゃ混ぜなんですもん・・・でも、嬉しいのが一番大きいんですね。そりゃあ、最初は嫌な感じがしたけど、すぐに奥から那岐さんが出て来たから、そんな心配は無くなりました。あ・・・心配は、してないですけどね!?」


今更否定しても無駄だと分かってはいるものの、素直に嫉妬を認めるのも癪で言い訳を口にすれば、返事の代わりに抱き寄せたつむじにキスが落ちた。


正解だったようだ。


「もっと僕に興味を持ってもっと僕を独り占めしてよ」


「私の数倍多忙な人が何を言ってるん・・あ、ぶないから」


頬にキスを落とされて、さすがに外だしと慌てて距離を取れば、当然のように指を絡め取られた。


「躓くような事はさせないよ。奏さんから聞いたかもしれないけど、もしこれから僕と連絡が取れない時に何か困った事があったら、あの店に行けばいいから。もう迷わずに行けるはずだよ。でも、まずは最初に僕を頼りにしてね・・・やけに嬉しそうだね」


頬を綻ばせる静乃を見下ろして、瑠偉が興味深そうに眉を持ち上げた。


「私、ちゃんとした友達を作った事が無くて・・・学生時代は勉強一筋で、社会人になってからは、周りの目と音ばっかり気にして生きて来たから・・・友達って初めてなんです。会社にも、私を凄く慕ってくれてる・・・あ、ほら、この間朝会社の前で声を掛けて来た平井さんとか、先輩がいるんですけど・・・・やっぱり本音で打ち解けたりは出来なくて・・・しかも、平井さん、急に体調を崩したとかでお休みが続いてるんです。気になるけど連絡先も知らないし」


結局のところ、浅い場所でしか人付き合いをして来なかったので、新しい関係の築き方や、距離の取り方がさっぱり分からない。


あれだけ懐いてきていた平井でさえ、お茶の一杯もしたことが無いのだ。


瑠偉に関しては完全規格外の所から始まって、彼が一度も攻めの手を緩めなかったのでこうなっているが、彼がどこかで静乃に見切りをつけていたら、この関係はとっくに破綻している筈だ。


「・・・・あの・・・瑠偉さん」


「ん、なあに?」


柔らかい声音は綿あめみたいに胸を焦がして、甘く苛む。


この視線も声も独り占めしたいのは自分のほうだ。


「私を・・・見つけてくれてありがとう。あと、諦めないでくれて、ありがとう」


突発事故から始まった二人だけれど、いまのこの状況がどれだけ異質でも、歪でも、静乃にとっては、揺らぎようもない位の恋だ。


圧倒的に満たされた、眩いばかりの恋だ。


手放さないで、と祈りを込めて、彼の手を握りしめれば。


ふわりと包み込むように抱きしめられた。


考える暇もなく後ろ頭を掬われる。


「・・・僕を幸せにしてくれてありがとう。今日はうんと優しい恋人でいたいから、きみを困らせる我儘は言わないでおくよ」


にっこりと微笑んだ彼が、瞼の上にそっとキスを落とす。


「あ・・・の・・・此処・・外・・・」


「境界線のこちら側は、まだ大丈夫」


「まだ・・ってな・・・」


静乃の記憶が正しければ、数十秒歩けば目抜き通りに出る筈だ。


いつ角を曲がって帰宅途中のサラリーマンやOLが姿を見せるかわからない。


焦りと、戸惑い、けれど、それを押し込めるだけの期待が胸に渦巻く。


彼の指先の温度を覚えた肌は、心地よくさざめいて心を満たす。


流されている場合じゃないと思うのに、降って来た唇を拒めない。


スーツの腕を掴んだら、腰を攫われた。


ゼロ距離で一瞬だけ見つめ合って、唇が重なる。


慈しむような、愛でるような、ただただ優しいだけのキスだった。

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