第14話 Love connection ~死神~Death

海に面したホテル《レガロマーレ》は、宿泊施設としての人気は勿論の事、レストランフロアのラインナップが充実している事でも有名だ。


和洋中の他に、ベジタリアン向けのレストランや、薬膳専門店、多国籍料理の本格店舗も入っており、旅行客以外にも、料理目的で訪れる家族やカップルも多い。


瑠偉が相談役を務める不動産会社の取引先だというホテルの、高層階の会員制バーは、紹介者無しには入る事が出来ない、所謂VIP向けの店だった。


久しぶりに夜時間が取れそうだから、と待ち合わせた地下鉄湾岸線の駅前で、今日の目的地を指さされた時には、真っ先に自分の格好を確認した位だ。


地元民にとってはかなり敷居の高い高級ホテルである。


パンプスの爪先から順番にアンクルパンツ、シフォン素材のカットソー、手に持ったバックまでを目で追って、これなら大丈夫だろうと安堵する静乃を横目にちらりと笑った瑠偉は、いつもより華やかなガーネットレッドのソリッドネクタイを隙なく締めている。


「気にしなくていい。今日も可愛いよ。あ、勿論静乃が着替えたいなら二階に寄るけど」


ロビーのすぐ上の階に入っているファッションフロアの名前は、誰もが知っているブランドばかりだ。


「っけ、結構です!」


喜んで財布を取り出すだろう事は、彼の笑顔と響く音でひしひしと伝わって来る。


「僕が気に入ったものを押し付けるばかりじゃ申し訳ないから、そのうち一緒に買い物に行こうね。ここ最近ずっと、週末は部屋に閉じ込めてばかりだったし、ごめんね」


かなり多忙なスケジュールの筈なのに、どこをどうして時間を作っているのか、彼の部屋のクローゼットには、着実に静乃の洋服が増えつつある。


もうすでに秋物まで並び始めていて、玄関の大きなシューズクローゼットには、静乃用のショートブーツが何足か用意されていた。


いつ静乃が気まぐれを起こして部屋を訪ねても、翌日は別の洋服を着て出勤できるようになっている。


瑠偉の意図するところは、静乃にも痛い程分かっていて、だからこそ流されてなるものかと平日に彼の部屋を訪ねた事は一度も無い。


部屋の鍵も頑として受け取らなかったし、アポなし訪問は絶対にしないと言ってあるし、するつもりもない。


どれだけ遅くなっても必ず帰宅するから、気兼ねせずにおいでと諭されたけれど、頷いたら負けだという意地もあった。


そして、母親を一人にしたくないという気持ちもある。


それを瑠偉も分かっているから、無理強いはしない。


だから、月曜の朝には必ず静乃を会社まで送り届けてくれるのだ。


これまで一緒に過ごした終日の大半が、彼の部屋もしくは徒歩圏にあるお店に買い物に行って終わっていた。


瑠偉が静乃を外に出したがらなかったせいだ。


静乃が憧れてやまない都心のタワーマンションの一階には、大型スーパーとコンビニ、薬局が完備されており、駅までは地下通路で繋がっているので雨の日も移動に困らない。


駅ビルの中には、大型フードコートが入っており、人気のスイーツや総菜が無数に溢れている。


徒歩10分で生活必需品が全て揃うという、夢のような生活。


未だ近場の全てのお店を見て回れていないのは、静乃の体力不足である。


静乃が眠っているうちに買い出しに出掛けた瑠偉が手料理を作ってから起こしに来るというのが定番化していた。


翌朝の予定を立ててベッドに入っても、結局有耶無耶のまま日付が変わって、朝方眠る事の方が多いので、遠出をした試しがない。


望めば喜んで瑠偉は連れ出してくれるだろうが、多忙な彼をあちこち引っ張り回すのも気が引けて結局お家デートに落ち着いてしまう。


元来休日はアルバイト三昧だった静乃は、インドア派なので、積極的に出かけたいという願望も無かった。


「今日は、ちゃんとしたデートをしたくて。今更だけど」


「・・・ちゃんとしすぎてません?」


「これが最初のデートなら、及第点を貰えるかなと思って」


「最初って・・」


「静乃が僕を受け入れてくれてから、最初のデートでしょう?」


「・・・」


熱に任せて不安も迷いも全部ぶちまけたあの夜が、最初になるのなら、そういうことになる。


思えば、あれだけ好き勝手気持ちを口にしたのも、喚き散らしたのも初めてだった。


彼の前では、誰かの期待に応えようとする自分を忘れる事が出来た。


「最初のデートにしては出来すぎですよ・・・」


こういう場所は、記念日デートでやって来るのが普通だ。


基準が此処になったら困るのは彼の方なのではと一抹の不安を覚えるも。


「次のデートも期待外れにはしないから、心配しなくていいよ」


自信たっぷりな笑みが返って来て、ああ、そうだった、最初から規格外だったのだと思い出す。


一人だったら絶対に入らない星付きフレンチのお店で、カジュアルフレンチのコースに舌つづみを打ち、胃袋が満たされたところで瑠偉が今日は帰りの心配が要らないからと上の階を指さした。


思えばいつも車移動の彼と駅前で待ち合わせするのは初めてで、自宅に招かれた夜に二人でワインを開ける事はあっても、外で彼がアルコールを口にした事は無かったなと思い出した。


「飲みたかったんですか?」


客同士の動線が被らないように絶妙な間隔で配置された半個室に通されて、上品な艶のある革張りのソファーに腰を落とした後で、浮かんでいた疑問を口にする。


「たまには外で飲むのもいいかなと思ってね。今日は迎えを頼んであるし」


「タクシーじゃなくて?」


「うん。榊、ああ、部下にね。よくやってくれてる秘書がいるんだ。静乃、何を飲む?って言ってもこのお店メニューが無いんだよ。僕が適当に決めて良い?あまり強くないのにするから」


「勿論、お任せします。秘書居たんですね・・・」


彼の多忙さを考えれば納得なのだが、秘書という単語に一瞬胸がざわついた。


静乃に関しては、何もかも全て調べ尽くして来たという瑠偉は、殆ど自分の事を話さない。


踏み込むつもりの無かった頃ならともかく、彼の部屋に自分の荷物が増えて行く一方の現状を思えば、色々と尋ねても良いような気はする、が、やっぱりまだ少しだけ不安がある。


瑠偉が、自分の事を語らないのは、静乃が尋ねてくれるのを待っているのだろうという事も何となく分かってはいるが、これ以上深みに嵌まったらどうしようというのが本音だ。


届けられたカクテルは、紅茶ベースのダージリンクーラーは、瑠偉の言う通り、度数はそう高くは無くて、甘さと爽やかさのバランスが絶妙だった。


瑠偉が頼んだジンライムは、ほんの少し味見をさせて貰っただけでその度数の高さが伺える強いカクテルだった。


「瑠偉さんの秘書なら、きっと優秀な人なんでしょうね」


「ああ、そうだね。優秀なのは認める。最初から僕付きだったわけじゃないんだけど、お願いして付いて貰ってるから、そういう意味では特別だね。同世代だし」


三十代の瑠偉と同世代の敏腕秘書。


どう低く見積もっても出来る女であることに違いはない。


瑠偉自ら望んで秘書に付いて貰ったなんて、お墨付きまで聞こえて来て、ますます居心地が悪くなった。


「こんな時間まで仕事させて・・・クレーム来ません?」


もしも静乃が彼の秘書だったなら、深夜帯に上司のデートの送り迎えなんてさせられたら業腹ものである。


全力で彼女を値踏み倒してやるに違いない。


「迷惑料も込みで払われてるから、多分大丈夫だよ。心配なら、この後迎えに来た時に一緒に謝ってくれる?」


それなら僕も心強いよ、とほんの少し悪戯っぽく視線を緩める彼の楽しげな表情は、付き合いの短い静乃にも分かる位気心知れた笑顔だった。


あ、悔しいんだ、と自分の中のモヤモヤに気づいて、ずうんと心が重たくなる。


もっと強いカクテルをお願いすれば良かったと今更ながら後悔した。


度数を尋ねた静乃に、30度位かな?とグラスの縁を弾いた瑠偉の手からジンライムを引き寄せてさっきよりも多めに口に含んだ。


ごくんと飲み込むと、一気に喉が焼かれる感覚が走る。


ライムの酸味と爽やかな風味はほんの一瞬で、全く味わう事無く酒精だけを取り込んでしまった。


「え、静乃!?駄目だよ、一気に飲んだら」


ぎょっとなった瑠偉が静乃手からグラスを取り上げて遠ざける。


代わりに差し出されたのは良く冷えた水だった。


「ほら、ゆっくり飲んで。もう少し強めのものが欲しいなら頼んであげるから。それともなあに?酔って持ち帰られたいの?それなら嬉しいけど」


抱き寄せた肩を優しく撫でて、宥めるように額にキスが落ちる。


甘やかすだけの唇は嬉しいけれど、そこにあの夜のような渇望は見えなくて、その事がどうしようもなく悔しい。


「ちゃ、んと・・・秘書さんに・・・ご挨拶して・・・お家に、帰り・・・ます」


とろんと緩み始めた思考に任せて、身体の力を抜いてみる。


微動だにせず受け止めてくれたこの腕は間違いなく自分だけのものなのだろうかと、嫌な疑問が浮かんで静乃は黙り込んだ。





★★★★★★





「ほら、静乃。さっき話してた榊。僕の秘書だよ」


欠伸を堪えながら向かったホテルのロータリーで、横付けされた車の横に立っていた人物を見た瞬間、静乃は自分の誤解に気づいた。


「は・・じめまして・・・」


行員と言われればしっくり来そうな、生真面目な雰囲気の秘書は律儀に静乃に頭を下げた。


「鷹司の秘書を務めます。榊と申します。今後お目にかかる機会も増えるかと」


「唐橋静乃と・・申します・・・お迎えに来ていただいて・・・すみません・・・」


身勝手に嫌なイメージも抱いてすみませんと、心の中で謝っておく。


「あれ?酔いが醒めた・・?」


後部座席に並んで座った瑠偉は、真っ先に静乃の両手を捕まえに来た。


顔を顰める静乃には気づかない振りで、我が物顔で手の甲を撫でては爪の先を弄ぶ。


「・・・ちょっとだけ・・・っていうか、瑠偉さん・・・秘書が男の人なら最初にそう言ってくれればいいのに・・・」


「ああ。女性秘書だと思ったんだ?・・・妬いてくれたの・・・?嬉しいな」


暗がりでも分かる位嬉しそうに微笑んだ彼が、ひょいと顔を近づける。


慌てて端まで逃げれば、囲い込むように両腕に閉じ込められてしまった。


「僕の周りは身軽に動ける男性陣ばかりだよ」


「わ、分かったから・・・」


「やっと興味が沸いて来た?知りたいことはなあに?なんでも訊いていいんだよ」


「私に訊かれて困る事・・・ないんですか・・・?」


過去の女性遍歴なんて尋ねる勇気は無いが、学生時代の淡い恋の記憶位なら、ちょっとは覗き見してみたい。


真顔になるか、それとも困るか、さあどれだと間近に迫る綺麗な面立ちを見つめ返せば。


「んぅ・・っん!」


掬い取るようなキスが降って来た。


慌てて目の前の肩を叩くけれどびくりともしない。


後ろ頭を強引に引き寄せられて、唇の隙間を抉じ開けられる。


拒もうとするも、滑り込んできた舌で柔らかい粘膜をなぞられたらひとたまりもなかった。


必死に声を堪えてジンライムの味が残るキスに酔いしれる。


上顎を擽って歯列を辿った舌先がくるりと静乃の小さな舌を舐めて、離れた。


涙目の目尻にキスをして、静乃にだけ聞かせる声で、瑠偉が囁く。


「ごめんね」





★★★★★★





「このままご自宅に送り届けていいんですか?次に会うまで拗れません?」


笑いを堪えた小さな問いかけに、バックミラー越しに部下を睨みつけて瑠偉は溜息を吐いた。


抱きしめた腕の中でしばらくジタバタもがいていた静乃は、緊張の糸が切れたように寝入ってしまった。


明日の朝の予定をリスケして、謝罪に出向くべきか、それとも少し冷却期間を置くべきか。


その間に距離を取られる事を一瞬でも考えてしまって、ああやっぱり連れて帰りたいなと思う。


「このまま外泊する事の方が静乃の精神的ダメージは大きいんで・・・諦めます」


後部座席でうっかり手を出してしまった事を、今更ながら後悔する。


律儀な部下は行儀よく運転に集中していたが、静乃の甘ったるい声は確実に聞かれた。


ほんの僅かだけれど。


含み笑いを零した榊に、苦虫を嚙み潰したように唸る。


「給料上乗せするから、ちょっとどこかで転んで記憶飛ばして貰えません?」


「残念ながら承服いたしかねます。それと、レプリカの件は弁護士を通じて対応が完了しました」


心底可笑しそうな声で言われて眉を顰めるも、追加情報で抱えていたうちの一つの懸念事項を漸く手放すことが出来た。


「ご苦労様でした」

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