第13話 Love connection 吊るされた男~The Hanged Man~

「膨れっ面しないで、はい。あーん」


目の前に差し出された大根のピクルスに親の敵のように噛り付く。


程よい酸味と、黒コショウの刺激が口の中に広がって、文句なしに美味しい。


静乃が眠った後で、翌朝の朝食の下準備に取り掛かっている筈なのに、やっぱり今日も彼に疲労の色は見当たらない。


どれだけ底なしの体力を持っているのだろう。


実家にいる時は、節約の為のお弁当を優先させるので、朝食はいつも余りもののおかずを摘まむ程度だ。


静乃が起きる時間には、すでに母親は出勤した後なので、朝は一人が常だった。


身支度に一番時間が掛かるので、夕飯の残りを大急ぎで詰め込んで朝食抜きで出勤する事も珍しくない。


朝からこうして日当たりの良いリビングで、お洒落なダイニングテーブルを囲んで素敵な朝食にありつくのなんて、一体どれ位ぶりだろう。


ふわふわのオムレツとハーブ入りのソーセージ、ほんのり甘いカフェオレ。


週末を彼の部屋で過ごすようになってから、当たり前のように振る舞われる手料理のレパートリーは一向に尽きる様子がない。


オーソドックスな和食が食卓に並ぶ日もあれば、ガパオライスやグリーンカレーといった本格的なエスニック料理が出て来る事もある。


静乃がたまに一緒にキッチンに立つこともあるが、料理の殆どは瑠偉が手際よく仕上げる事が殆どだった。


「酸味はきつくない?」


「・・・ん、美味しい・・・です」


「そう。良かった。お弁当にも入れてあるし、お土産に瓶詰にもしてあるよ。お家でお母さんと食べなね。あと、明太子のお礼言っておいてね」


ご馳走さま、とプレートを空にした瑠偉が、先に席を立つ。


相変わらず不貞腐れたままの静乃の眉間にキスを落として、眉を下げて笑った。


「まだ怒ってるの?お母さんにご挨拶した事」


「だ・・って・・・」


「もういいじゃない。いずれはきちんとご挨拶させて貰うつもりだったし。それがちょっと早くなっただけでしょう?」


静乃が熱を出して瑠偉の部屋に運ばれた夜、看病をしてくれていた彼はいつの間にか母親に連絡を入れていたのだ。


真剣にお付き合いさせて頂いています、と丁寧に挨拶をして、静乃が熱を出したので自宅で預かっているという報告を受けた母親は、瑠偉の分もお土産を持って帰宅した。


”これは鷹司さんの分のお土産ね”といきなり明太子を渡された時の何も知らされていなかった娘の気持ちにもなって欲しい。


母親の気遣いを無下にするわけにもいかず、看病のお礼も兼ねて瑠偉に連絡を入れれば、翌日の夜にはアパートにやって来て、あっという間に母親からの信頼を勝ち取ってしまった。


仕事が多忙で平日のデートが難しいので、出来れば週末の静乃さんの時間を頂きたい、と母親経由で許可を取られてしまえば逃げ場なんてどこにもない。


将来性のある堅実な男性だと百点満点の評価を叩き出した瑠偉への信頼は揺らぎようがなく、以来、当然のように週末の外泊が許可されてしまった。


来るたび増えて行くクローゼットの静乃の洋服が、完全にこちらのツボを押さえている事も含めて憎らしい。


それを思い切り顔と態度で示してみるも、返って来るのは甘ったるい視線と甘ったるい声と、甘ったるい音ばかり。


静乃の共感覚を知って以降、瑠偉は時折わざと言葉足らずになる。


下げた食器をキッチンに戻して、メイクを仕上げようとした静乃を捕まえて、ふわりと微笑んだ後、カフェオレの残る唇にキスを落とす。


「・・・静乃」


最初は軽く啄んで、ご機嫌伺いのように唇の表面を優しく辿って。


緩んだ隙にキスを深くして、物足りなさを覚えた途端解放される。


悔しくて爪先立ちになれば、待ち構えていたように腰を攫われて遠慮なし貪られる。


それでも彼は時計を見る余裕があって、出発時間を遅らせることは無い。


耳元で響いたおねだりの音にまんまと乗せられてしまった事を悔しく思いながらも、心地よいキスはやめられない。


ちゅっとリップ音と共にキスが解けて、彼が腕を緩めた。


チークが必要ない位染まった頬をゆるゆると撫でて、幸せそうに目を細める。


「今日も可愛いね」


リップサービスでも何でもない、ただの本音だと伝わって来るから心底恥ずかしい。


「クローゼットの右から二番目のワンピース」


「私が雑誌で見てたやつ」


「あ、良かった。当たってたんだね。色もね、あの色が可愛いなと思って。ピンクベージュ、自分じゃ選ばないでしょう?」


「・・・会社に着ていくのは・・ちょっと派手かなぁって」


唐橋静乃には相応しくない色だと思ってしまうのは、相変わらずだ。


清潔感重視の装いを心がけて来た静乃にとって、華やかな色合いは恋愛中であってもかなり抵抗がある。


「ならデート用だね」


「もうこれ以上買わないで!」


「どうして?これから着る機会はいくらでもあるし、ないなら用意するよ」


軽やかな拒絶の音と共に返って来た台詞に、もう何も言い返せない。


未だ未来への不安が拭いきれない静乃の気持ちを手元に引き留める事に、瑠偉は遠慮しなくなった。


そろそろ車出すよ、と告げた瑠偉が、額にキスを落として椅子に引っ掛けていた上着を手に玄関へ向かう。


未だ慣れない、これが、新たな日常の一部、なのだ。





★★★★★★




「駅前で下ろして下さい」


「大して距離も時間も変わらないでしょ。歩くの辛くない?」


「・・・辛くないようにしてくれればいいと思うんですけど!?」


週明けの月曜日に腰と股関節が痛むのが定番化するのは困る。


「それはほら。愛情表現の一部って事にして欲しいな」


悪びれもせず言い返した男が、滑らかにハンドルを切りながら目を細める。


「可愛いくて、ついね」


どろりと溶けた蜂蜜のような音が耳に響いて、慌てて耳を塞ぐ。


油断したら足元から波に攫われてしまう。


頬を押さえて瑠偉を睨みつければ。


「好きだよ」


あっさりと告白が降って来た。


「運転に集中して!」


これが日常になるだなんて本当に恐ろしすぎる。


「集中してるじゃない」


酷いなぁとさして傷ついた様子もなく返した瑠偉が、指先で静乃の下ろし髪を撫でた。


頬を爪の先が掠めて行ったのはわざとだ。


「知ってるでしょう?これでも我慢してるんだよ」


ぞくりとするほど甘ったるい声で告げられて、必死に見ない振りをしていた現実を突きつけられる。


どれだけ肌を重ねても、彼から鳴り響く渇望の音は、鳴り止まない。


あくまで静乃に合わせているのが現状なのだと告げられれば、ぐうの音も出ない。


「言わないで!」


悲鳴と共に助手席の窓に張り付けば、すぐ目の前にオフィスビルが見えて来た。


今日もまんまと会社の前まで送って貰ってしまった。


静乃が眠った後も起きていて、静乃が目を覚ました時には既に仕事を始めている彼の一日のタイムスケジュールがどうなっているのかは分からない。


が、暇ではない事だけは確かだ。


嬉々としてハンドルを握るこの男の数十分は、恐らく静乃のそれの数倍の価値があるはずで。


楽しそうに喉を揺らしていた瑠偉が、ちらりと静乃を一瞥した。


「余計な事考えないようにね」


「・・!」


静乃のような共感覚が無くても、瑠偉はかなり人の気持ちに敏感だ。


彼にとって思い切り不本意な事を考えたのだとすぐにバレてしまった。


「朝の時間の有益な使い方について考えてただけです・・・」


「これ以上有益な使い方って見つからないけどね・・・ああ、違った。一番いいのは休日の朝だ。静乃をいつまでもベッドに押し込めていられるからね」


もう週末が待ち遠しいよと幸せそうに笑う瑠偉から慌てて視線を逸らして、路肩に停まった車から飛び降りる。


「お、送ってくれてありがとうございました!瑠偉さんも、気を付けて!」


お馴染みになったお礼を口にして、助手席のドアを閉める。


火照った頬の熱をどうにかしようと、手扇で風を送りながら必死に深呼吸を繰り返す。


すぐに走り出すはずの車がいつまでもそこに居るので、怪訝に思って振り返ると、運転席から瑠偉が降りて来た。


「静乃、忘れ物」


後部座席に置いたままのお手製のお弁当と、お土産のピクルスが入った紙袋を持ち上げて見せる。


「あ!ごめんなさい・・・!」


「はい。どうぞ。口紅忘れてるけど、平気?」


「・・・!後で塗り直すから」


油断した隙に唇を奪われるので、朝の間はリップは止めておこうと決めたのは先週の事。


瑠偉の唇に移ったピンクを指で拭うたび、居た堪れなさと恥ずかしさでいっぱいになるのだ。


そんな静乃を楽しげに眺めて、時折指先を甘噛みする余裕のある音が心底恨めしい。


「唐橋さぁーん!おはようございますぅ!」


むず痒い気分で見つめ合う二人の間に、地下鉄からこちらに歩いて来た平井が手を振って駆け寄って来た。


「あ、平井さん、おはよう」


今日も花柄のスカートに、フリルの可愛いらしいパフスリーブのトップスを合わせた平井が、静乃と、目の前に立つ瑠偉を交互に見上げる。


メイク崩れとは無縁だろう陶器のような肌と、くるんと丁寧に上げられた睫毛が愛らしく揺れた。


「あー、このタイトスカート、欲しいなって思ってたんですー。ちょっと私には大人っぽいかなぁって・・・素敵ですねー」


「デザイン違いのAラインもあったから、そっちの方が平井さんには似合うかもしれないわね」


「わー・・欲しいなぁ・・・いいなぁー・・・今日も彼氏さんが送ってくれたんですね」


男性社員が総崩れになる笑顔を浮かべて平井がうっとりと瑠偉を見上げた。


なんとなく逸らせなくて彼の表情を探るように見つめていると、空っぽの手を取られた。


「はい。静乃の好物ばっかり詰めたから、残さず食べてね」


持たせっぱなしだった紙袋を握らされて、慌てて受け取る。


魅力的といって過言ではないはずの平井の笑顔に見向きもせずに、行ってらっしゃいと微笑む瑠偉に、付け入る隙は皆無だった。


「あ・・はい」


こくんと頷いて、従業員入り口に向かって歩き出す。


と、付いて来ると思った平井が、瑠偉に向かって一歩近づいた。


「彼氏さん、お料理も得意なんですか?」


平井を呼ぼうかどうしようか迷っているうちに、瑠偉が酷薄な笑みを浮かべて平井に向かって何かを口にした。


その声は、静乃を呼ぶ先輩社員の呼びかけのせいで、こちらにまで届かなかった。






★★★★★★





常に誰かの物を欲しがる人間は確かに存在する。


普段なら気にも留めない誰かが目に留まったのは、彼女に関わる人間だからだ。


一通り身辺調査を終えて、気になる数人をピックアップして追加調査を行った際に出て来たネタは、このご時世さして珍しいものではなかったけれど、放置できるものでもなかった。


数日の内には別の窓口から正式な対応が入るだろうが、このレプリカをいつまでも彼女の側に留めておくつもりはなかったし、幸せな朝のひと時に横やりを入れられた事も面白くなかった。


花の香りに引き寄せられる男は多いだろうが、そこに含まれる毒に気づく者は多くは無い。


恐らく、別の場所で別の相手に同じことをしても、誰にも気づかれなかった筈だ。


「平井美羽さん。きみにまだ良心と聡明さが残っている事を願いますが、これ以上は看過しませんよ。僕は静乃程素直ではないし優しくもない。見つからないと思っていたんでしょうが、僕は自分のものに向けられた悪意は絶対に見過ごさないし、許さない。相応以上の対価は払っていただきますので、そのつもりで」


「え・・・?」


「裏アカウントの特定って、さして難しくは無いんですよ」


「・・・」


ぎょっとなって後ずさった彼女の顔色が見る間に真っ青になる。


「残した言葉は消えませんから。ご愁傷様です」


これだけ言えば十分だろうと、静乃に視線を戻して手を振って見せる。


隣に並んだ人畜無害の先輩社員にも穏やかな笑顔を向ければ、二人揃って分かりやすい反応が返って来た。


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