第11話 Love connection 運命の輪~The Wheel of Fortune~
「悩ましい溜息なんて吐いちゃってぇ・・・なーに、あのイケメン彼氏と喧嘩でもしたぁ?」
自席の椅子に座ったまま真横まで移動して来た先輩社員の声に、静乃は慌てて口を押さえて背筋を伸ばした。
「喧嘩は・・してません・・・べつに」
合コン現場に現れた瑠偉を見ている彼女にどう言い訳をしてもしょうがないので、彼氏を否定するのはもう諦めた。
喧嘩はしていないのでこれは嘘じゃない。
「じゃあなに、幸せなデートの余韻が抜けなくてそんな真っ赤になってんの?羨ましい・・・って、静乃ちゃん、ほんとに顔赤いけど・・」
静乃のデスクに頬杖をついて覗き込んできた彼女の指摘に、頬を押さえて俯く。
「な、何でもないです・・・」
「ええー、ちょっと熱あるんじゃないの?やだ、熱い・・・」
遠慮なしに前髪の上から額を押さえた先輩社員が、興味本位の表情から一気に心配顔になった。
確かに今朝から身体が重くて頭が痛い。
ふわふわと思考が乱れるのは、瑠偉との逢瀬を引きずっているせいだと思っていたのに。
「ちょっと・・・考え事してたら眠れなくなっちゃって・・・大丈夫です。帰って寝ます」
幸い定時を回って20分程が経っていたので、このまま帰宅しても問題はない。
発熱は久しぶりだけれど、解熱剤を飲めば楽になるはずだ。
薬の作用で眠くなれば、何も考えなくて済む。
「でも、今日からお母さん不在でしょう?」
母親の勤める清掃会社が、湾岸地区に新たに設立された大型メディカルセンターとの契約を取り付けた事により、雇用条件の改善と社員への旅行をプレゼントしてくれたのは2週間前の事。
社員をいくつかのグループに分けて交代で休暇を取得することになり、静乃の母親は今朝の新幹線で仲の良いパート仲間たちと九州へ旅立って行った。
旅行で母親が居ない、とランチの席で零した事を覚えていたようだ。
「子供じゃないんですし・・・平気ですよ」
「一人で帰れる?送ろうか?」
いくら気心知れた先輩社員でも、彼女にあのアパートを知られるわけにはいかない。
言葉と響かせる音が完全一致している彼女に安堵してしまうのは、大きすぎる落差をここ最近ずっと間近にしてきたせいだ。
瑠偉の事が頭を過った途端、また熱が上がった気がした。
間違いない、これは知恵熱だ。
普段使わない思考回路に急に負荷をかけたせいで起こったバグだ。
「だ、いじょうぶです・・・ちょっとお手洗い行ってきますね。気にせず先に帰ってくださいね」
強がりはしたものの、駅から家までの距離を考えるとかなり気が滅入る。
今日くらいはタクシーに乗っても罰は当たらないのではないかとも思うが、アルバイトを辞めてしまった手前、やっぱり贅沢は躊躇われた。
無人の個室で腰を下ろすと、一気に血圧が下がるのを感じた。
先に薬を飲むべきだったと今更ながら後悔する。
ポーチの中に入れてある解熱剤のストックの有無を思い出そうとしているうちに、意識がぼやけ始めた。
必死に呼吸を深くして、貧血の波が収まるのを大人しく待つ。
冷や汗を掻いた身体を引きずって広報部のフロアへ戻ると、待ちわびていた表情で先輩社員が自席から立ち上がった。
「良かった。様子見に行こうと思ってたのよ」
「すみません・・・」
「顔色悪いわね・・・貧血?」
「もう収まったので・・・」
「タクシー呼んでおいたから、下に降りましょう。見送るわ」
「え・・・すみません・・・」
体調的には物凄く助かるが、会社から自宅までの運賃を考えると胃が縮む思いがした。
隣の駅前でこっそり下ろして貰って後はどうにかしようと心に決める。
「スマホ、忘れないようにね」
デスクの上に置きっぱなしになっていたスマホを手渡される。
母親以外から連絡が入る事が数か月前まで無かったので、ほぼ用無し状態だったそれ。
瑠偉と出会ってから必需品になった連絡ツールをしっかりカバンに収めていつもより適当にデスク周りを片付けてから、二人でビルの1階へ向かう。
従業員入り口ではなく、18時まで開いている表玄関に向かえば、ロータリーにはタクシーでは無く見慣れたメタリックブルーの車が停まっていた。
自動ドアが開いたことに気づいた車の前の男が、気づかわしげな表情を向けて来る。
「ど・・・して」
ぽかんとする静乃を他所に、瑠偉は先輩社員に向かってまずは感謝の眼差しを向けた。
「お手数をおかけしてすみません。助かりました」
「いえ。ちょうどお電話頂けたタイミングが良かったんです。静乃ちゃん、勝手に電話に出ちゃってごめんね」
静乃のカバンを瑠偉に手渡しながら、悪びれもせずに告げられる。
離席中の十数分間のやり取りが容易に想像出来た。
「具合が悪いなら、先に連絡をくれればよかったのに」
嗜めるような視線が降りて来て、誰のせいよと慌てて顔を背ける。
「・・・」
いつもの煩い位の恋の音は鳴りを潜めて、代わりに心配と気遣いの音色が響く。
表情も言葉も何もかもが一致しているから、静乃は胸を押さえずに済む。
それなのに、安堵と同時に襲って来たのは物足りなさなのだから、本当に恋心は身勝手だ。
後はお願いしますね、と微笑む先輩社員が従業員入り口へ向かうのを助手席から見送って、運転席は見ないまま口を開いた。
「忙しいのにごめんなさい・・・先輩が・・」
「電話に出てくれて良かったよね?じゃなきゃ、一人で帰るつもりだったでしょう?」
図星を突かれてぐうの音も出ない。
「・・・来てくれて・・・ありがとう・・・大丈夫だから」
「大丈夫かどうかは、僕が決めるよ。起きてるの辛いでしょう?眠ってていいからね」
助手席のシートを後ろへ倒した後で、瑠偉が寒くない?と尋ねて来る。
横になった途端ぐらりと大きく視界が揺れて、返事をしなきゃと口を開く前に世界が一気に暗転した。
★★★★★★
日当たりの良い大きなボウウィンドウと、リボンと花柄のレースのカーテン。
クローゼットには母親お気に入りのセレクトショップで買い揃えた、お揃いのワンピースが何着も並んで次の週末を待っている。
熱が出た夜は必ず母親がつきっきりで看病してくれて、いつ目を覚ましても名前を呼んでもらえた。
水族館は来週行こうねと言い含めて、額のタオルを取り換える母親の掌はどこまでも優しくて。
これなら食べられるかな?とプリンのお土産を手に部屋に入って来た父親を見て花が綻ぶように微笑む母親の幸せそうな顔に泣きそうな位嬉しくなったのが、家族で過ごした最後の記憶。
一人娘が眠った後のリビングで、どんな話し合いが続けられていたのかは分からないけれど、静乃を前にした時の両親は、表情も声も、響かせる音も何もかもが完璧に整っていた。
微塵の不安も抱かせないように、夫婦が必死に幸せな家庭を装っていたのだと気づいたのは、全てが終わった後の事。
あれから静乃が熱を出しても、母親が一日中側に居てくれることは無くなった。
代わりに枕元に大量の飲みものや果物を用意して、早く帰るからね、と後ろ髪引かれる様子で出勤していく母親を布団の中から見送る事が常になった。
だから、額に触れた掌が誰のものか、最初は分からなかった。
「・・・お・・・かあ・・・さ・・・?」
今頃九州で羽を伸ばしているであろう母親が此処にいる筈も無いのに。
呼びかけた声に答えたのは、ベルベッドのような囁き。
「静乃・・?」
安堵の吐息と共に、降って来た柔らかい音に目を開ければ。
「よく寝てたね」
汗ばんだ頬を優しく撫でて、瑠偉が心配したよと微笑む。
助手席に座った後の記憶が丸っと抜け落ちている。
アパートに戻ったのかと視線を巡らせるも、視界に入ったのはどう考えても我が家とは思えない広々としたモダンな寝室。
どこかのホテルだろうかと身体を起こせば、すぐに瑠偉の腕が背中に回されて背後にクッションが挟まれた。
「ここ・・・何処ですか」
「僕の部屋。静乃のお家に送ろうかとも思ったんだけど・・熱が高そうだったから往診に来てもらったんだ」
二間しかない極小アパートを見られなかったことにホッとすると同時に、多忙な彼の時間を奪ってしまった罪悪感に襲われた。
「ご・・・ごめんなさい・・・」
時計の無い部屋なので時間は定かでは無いが、確実に数時間は静乃に掛かりきりになっていたのだろう。
ベッドの端に置かれているラップトップが、彼がずっとここで仕事をしていた事を物語っていた。
「どうして謝るの?僕が好きでしたことだよ。疲れとストレスが原因じゃないかって言われたけど・・・心当たり・・・は、あるか」
自嘲気味に笑って、瑠偉がベッドの端に腰かけた。
僅かに揺れたスプリングが、静乃の心と連動して思考がグラグラと揺れ始める。
また鳴り始めた優しさと慈しみの音に混ざる確かな渇望の音に胸が締め付けられる。
涙目になった目尻を親指で優しく拭われて、ああ、泣きそうなんだと他人事のように理解した。
完全に気持ちがオーバーフローしている。
「僕と居るのが嫌になった?」
静かな問いかけと共に、ぐわんと撓んだ不協和音が鳴り響く。
瑠偉からこんな音を聴くのは初めてだった。
拒絶、不安、根底にあるのは懇願と思慕。
けれどそれらを全て塗りつぶしてしまうのは・・・
「そうやって、上辺では譲ってあげるって口にして、急がないって笑って・・・だけど、心は違うって言ってる。本当は、譲るつもりも待つつもりもないんでしょう?あなたが何を言ったって、別の音が鳴ってるから!私は、迷って、立ち止まって、動けなくなる。優しくするなら、最初から最後まで優しくして下さいっ!他の誰かと同じように、騙せるって思わないで!」
踏み込んではするりと逃げて、静乃の心を慎重に図る。
どこまでなら許されるかを確かめる彼の言葉と仕草はいつも巧みだ。
けれど、その後ろではいつも違う音が鳴り響く。
彼がしたいのは恋の駆け引きなんかじゃないと、その音は伝えて来る。
覚悟が無い静乃は、それが怖いから踏み込めない。
もう覗き込んで沈んでいく最中だと分かっているのに、認めたくないと必死に足掻く。
「傷つく覚悟・・・出来てないのに・・・」
もう駄目だと目を瞑れば、途端両の目から涙が零れた。
甘やかされて、溺れた後で、踏みつぶされる恋なんて、惨めすぎる。
捲し立てるように喚いた後で大きく息を吸えば、また眩暈に襲われた。
後ろ手を突こうとして滑った身体を抱きしめられる。
優しくベッドに寝かせて貰えることを期待した静乃に与えられたのは、耳たぶへの甘噛みだった。
「ひゃ・・!」
味見するように耳の後ろを舐められて、思考が綺麗に止まった。
「傷なんてつかないよ」
寝転んでいたせいで乱れた髪をゆるゆると梳いて、頬を寄せる瑠偉の表情は殆ど見えない。
「これでもうんと優しくしてたつもりだったんだけどなぁ・・・静乃には、僕がどう思ってるのか、ちゃんと聞こえてたんだね」
ぎしりとスプリングが軋んで、瞬きの後に天井と瑠偉の強い瞳が見えた。
攫われた。
そう、確信した。
「遠慮、するんじゃ無かったね。逃がしてあげないって、言えば良かった」
彼の言葉と、行動と、響かせる音が、初めて綺麗に一致した。
かちりと運命の針が進む音がした。
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