第10話 Love connection 隠者~The Hermit~

「鷹司さ・・・瑠偉さん、お仕事は?」


違うでしょ、と流し目を寄越されて素直に言い直せば、夜空の白い下弦の月も霞んでしまいそうな笑顔を返された。


咄嗟に胸を押さえたのは、防衛本能が作用したせいだ。


ここ最近ますます威力を増しつつある彼の笑顔は、暗がりでも直視すると数瞬息が止まる。


仕事が立て込んでいるという瑠偉の会社突撃訪問はめっきり少なくなり、代わりに深夜、静乃のアパートの近くの公園で待ち合わせする事が増えた。


今日は駅前の人気パティスリーのマスカットとオレンジのムースを手土産に現れた彼は、紙箱を覗き込んで感嘆の悲鳴を上げた静乃を穏やかに見つめながら返事を口にする。


「少しだけ抜けて来ました」


ここ数日、彼から仕事が終わりましたという台詞を聞いたことが無い。


コンサル会社の海外のクライアントとの打ち合わせがこの後深夜帯で入っているらしい。


「ここ最近ずっとですね・・・眠れてます?」


「睡眠不足は、今に始まった事じゃないから」


それにしたって働き過ぎでは無かろうか?


今朝も6時半過ぎには、モーニングコールか架かって来たし、すでにその時間に彼は仕事場の自席に居た。


ちなみに、モーニングコールは、依頼したわけでは無い。


静乃が言葉にしないまでも、多少なりとも自分に絆されている事を自覚した瑠偉がここぞとばかりに構い倒して来るのだ。


電話越しでも相変わらず鳴り響く砂糖まみれの音色に朝から踊らされるこちらの身にもなって欲しい。


おかげで一気に血圧が上がって、二度寝の心配は無いけれど、これが癖になったらどうしてくれるつもりなのか。


僅かに疲労感の残る目元を覗き込んで、此処に来る時間があるなら仮眠を取ればと言いかけた矢先、月明かりを遮るように瑠偉の顔が近づいた。


間近に迫る憂い顔にぎゅっと目を閉じたのは条件反射だ。


笑みを含んだ吐息が頬を撫でて、額にキスが落ちる。


当たり前のように頬を撫でた指先が、耳たぶの後ろを掠めて行く。


「仮眠を取ると、仕事に戻りたくなくなるから」


「で、でも身体が・・・」


「時々でいいから、静乃が電話起こしてくれる?」


それなら仕事に戻れるかも、と楽しそうに提案されて、まあそれ位ならと気易く頷く。


誰が見たって過密スケジュールで動いている瑠偉の、ここ最近のプライベートはほぼ全て静乃に宛がわれている事も、重々理解していた。


彼の何がそうさせているのかはさっぱりわからないが、甘ったるい音は絶えず響き続けているし、そこには淀みも歪みも見当たらない。


「瑠偉・・さん、って寝起きいいんですか・・・?」


「さあ、どうだろう。悪くはないと思うけど・・・そのうち直接確かめてみて。静乃になら、何度寝込みを襲われても構わないよ。むしろ喜んで歓迎してあげる」


嬉しそうに目を細める彼の声と音からは本気度がひしひしと伝わって来る。


「ね、寝込みを襲ったりしません!」


というか、彼のプライベートスペースに踏み込む勇気すら湧いていないというのに。


生真面目に言い返したら、ひょいと眉を持ち上げて瑠偉が声を上げて心底楽しそうに笑った。


「それは残念。じゃあ、僕から襲ってもいい?」


「っは!?」


粉砂糖のきらきらしさの中に、ひと匙のビターチョコが含まれる。


ぞくりとするほど甘ったるくて冷たい声音。


東屋のベンチの端まで即刻撤退しようとした静乃の手首を捕まえて、瑠偉が首を傾げる。


「一人で夜をやり過ごすのも、そろそろ限界なんだけど・・・?」


攫われてしまう。


直感でそう確信した。


誘いかけるように捕まえた手首の表面を指の腹でくるりと一周辿って、指先を絡ませる。


触れられた箇所から、甘い毒がじわじわと身体に染み込んで来る。


これまでのおままごとみたいな甘ったるい恋人もどきのやり取りではないところを、彼は求めているのだ。


初対面の夜だったなら、体よく抱かれて飽きたら捨てられてこの関係は終わりだと思っていた。


それくらい瑠偉から、静乃へ対する興味を感じられなかったからだ。


けれど今は違う。


抱かれてのめり込むのは間違いなく自分の方だ。


そして、瑠偉の気まぐれが終わった時に、泣いて引きずるのも、自分の方だ。


「なあに?なにが怖いの?」


逸らしたら負けだとそれだけは分かって、必死に合わせていた視線を先に外したのは瑠偉の方だった。


弱り切った声音で尋ねられる。


要らないと、捨てられるのが。


「・・・・っ」


「そこで泣きそうにならないで・・・嫌ならしないよ」


子供をあやすように後ろ頭を撫でた手で、そのまま抱き寄せられる。


「静乃の気が済むまで付き合うから。急がなくていいよ」


優しく髪を撫でる掌は温かくて、優しくて、無意識にそれを記憶してしまおうとする自分が憎い。


きっと今夜一人のベッドで思い出して、泣きたくなるに決まっているのに。


溺れては駄目と自分を戒めた時点で、すでにもう溺れているのだ。


砂糖水の沼に沈んだって、きっと誰も助けに来てはくれないのに。


巻き込まないでと詰りたい気持ちと、離さないでと縋りたい気持ち。


どっちつかずの感情を振り切るように、彼の肩に手を突いて身体を離した。


柔らかな眼差しは、どこまでも優しくて、何もかも許されていると誤解しそうになる。


「・・・ケーキ・・・」


「ん?」


ベンチの端に置き去りの紙箱に視線を戻せば、瑠偉が思い出したようそれを見た。


「ケーキがどうかした?」


「・・・これ、新作ですっごく人気なのに・・・よく買えましたね」


この辺りにいくつもの店舗を持つ人気パティスリーは、季節ごとに新しい限定スイーツを販売する。


オレンジとマスカットのムースは、初夏限定でいついっても売り切れだったのに。


「部下にお使いのついでに寄って貰ってね。マスカットも、オレンジも好きでしょう?」


「好きですけど・・・部下の方に申し訳な・・・っ」


熱を宿した頬の高い場所にキスが落ちて、瑠偉の掌が背中を撫でた。


「ちゃんとお礼は言っておいたから大丈夫。お母さんと一つずつね」


言い含めるような口調に、きゅっと唇を尖らせれば待ってましたとばかりに啄まれた。


彼からの到着連絡を受けて飛び出す直前に、玄関先の鏡を見て塗ったベビーピンクのグロスが移った唇の端をぺろりと舐めて、瑠偉が目を細めた。


「・・・甘い」


こうされることをほんの少しだけ期待していた自分の下心まで見透かされた気になって、視線を逸らす。


と、街灯の少ない住宅街の歩道を、アパートに向かって歩いて来る人影が見えた。


「っ!!」


パート仲間との飲み会から帰って来た母親だった。


目の前の肩を掴んで、勢い任せに押し倒す。


「え・・・」


いきなりの暴挙に後ろ手を突いた瑠偉が驚いたように声を上げたが、構っている暇はなかった。


フェンス越しにひょいとこちらを覗きこまれれば、すぐに見つかってしまう。


「黙ってっ・・・お、お母さんが・・・」


必死に小声で言い返せば、数秒後に瑠偉の腕が背中に回されてそのまま二人揃ってベンチに倒れ込んだ。


生まれて初めて男の人を押し倒す羽目になった。


それも、夜の公園で。


全く意図していなかった出来事に、心拍数は跳ねあがるばかりだ。


身動ぎ一つで出来ずに息を顰める静乃の背中を悠々と撫でた瑠偉は、身軽に顔を持ち上げてつむじにキスを落とした。


びくりと震えた静乃の耳たぶを軽く引っ張って、項を擽る。


声を出せないのをいいことに好き勝手し始めた彼を睨みつけようと僅かに顔を上げれば。


「シーっ」


嬉しそうに目を細めた彼が、軽く唇を啄んできた。


「・・っ!」


ぎょっとなって身を引こうとした静乃の身体を腕一本で抱え込んで、そのまま唇の隙間を軽く舐め上げる。


熱い舌の感触に怯んだ隙に、するりと我が物顔で口内に入り込んできた。


下唇の裏側を軽くなぞって、茫然自失状態の舌を捕まえに来る。


ざらついた表面を優しく擦り合わせると、自然と吐息が零れた。


彼がくれるキスが心地よい事を、頭より身体はもう既に知っていた。


知らない苦みは、多分煙草のせいで、けれどそれすらもすぐに甘くなる。


ご機嫌取りの巧みな舌使いに翻弄されて、その先が欲しくなった。


望めば彼はいくらでも与えてくれるだろう。


グズグズに蕩かされた身体で放り出された後が、死ぬほど辛い事まであっさりと想像出来てしまった。


駄目だと思うのに、逃げた舌先を追いかけてしまう。


くすりと瑠偉が笑った。


静乃の心の在処を確かめて、ほっとしたように眉を下げる。


「んぅ・・・っん」


宥めるようにくるりと舌先を這わしてから、静乃を抱えたまま瑠偉が身体を起こした。


慌てて顔を伏せた静乃の耳たぶにキスを落ちる。


「もうお家に入ったよ」


「~~~っっ!」


仕掛けて来たのは彼の方で、けれど乗せられた自覚があるので何も言い返せない。


「怒っていいよ。どれだけ詰ってくれても構わない」


前髪の隙間にキスを落とした瑠偉が、さあどうぞと鷹揚に微笑んで見せた。


物凄く性質が悪い。


言いたいことがあり過ぎて、けれどそのどれもが上手く言葉にならずにひたすら目の前のきらきらしい笑顔を睨みつける事数十秒。


瑠偉が眉を下げて、謝罪を口にした。


「ごめんね」


魅力的としか言いようのない笑顔を向けられて、一瞬頷きかけた静乃に罪は無かった。


この男は、絶対に自分の使い処を間違えない。


「誘われたのかと思って」


いけしゃあしゃあと言い訳を口にした瑠偉の腕を遠慮なしの力で叩き返した。


「も、う・・・帰りますっ」


「次は部屋着で降りておいで。車をアパートに付けるから」


「そんな事したら言い訳が・・・」


仕事帰りの格好そのままでこうして会っているのは、アルバイトの帰りだと偽るためだ。


それになにより、静乃の部屋着は入社してから五年愛用中の着古したよれよれのスウェットワンピースである。


会社に着ていく以外の洋服には一切お金を掛けない生活を送っていたので、買い替えるなんて考えさえも浮かばなかった。


とてもじゃないが、そんな格好で瑠偉の前には立てない。


「そのうちお母さんにご挨拶させて?いつまでも静乃に嘘を吐かせるのは忍びないよ」


「こ、困ります!」


「どうして?」


「・・・う、うちは離婚家庭ですし・・・お、男の人に対する見方も・・・厳し・・い」


父親の不貞が発覚するまでは、パパ一筋と夫を信じて疑わなかった母親は、離婚してから一転して考えを改めた。


自分がいかに無知だったかを思い知ったバツイチ子持ち女性は、男に頼らない人生を選んで邁進し続けているのだ。


当然、娘の彼氏に対する目は、世間一般の母親よりもかなり厳しい。


が、鷹司瑠偉という人間を客観視して、静乃は別の不安を抱いた。


文句なしに合格点を叩き出した男が去った後の母親の落胆を思うと、やっぱり会わせるのは躊躇われる。


「お母さんにご挨拶する時は、もう少しきちんとするよ?」


「それ以上きちんとしてくれなくていいです!と、とにかく・・・そういうのは・・・また、今度で・・・」


一先ず問題を先送りにして逃げの一手を打った静乃に、瑠偉は小さく溜息を吐いて、けれど見逃してくれた。




これを恋と呼んでいいのならば、相当の覚悟が必要だ。


絡みつくような恋の音は、やっぱり今夜も鳴り止まない。

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