第9話 Love connection 力~Strength~
罪悪感と後ろめたさ全開の眼差しにいじらしさを覚えるなんて、漸く自分の中で眠っていた人間らしい感情が正常に稼働し始めたらしい。
そんな視線を向けられたところで、侮蔑の眼差ししか返せなかった過去はもうこの際無かったことにしてしまおう。
彼女がその後でどんな罪を告白しようとも、最初の単語を耳にする前から全て赦すことは決まっている。
何かのアクシデントが起こって、彼女が良くない事件に巻き込まれたのだとしたら、それはもう故意ではなくて完全な事故だ。
そして、事実それを事故にする手段はいくらでもあるのだから。
新鮮な変化は、同時に鮮烈な恋情を伴って綺麗に胸を焦がした。
欲だけで相手を見繕っていた時には一度も感じなかった充足感がまるで嘘のようだ。
彼女の笑顔を見れば癒されるし、指先に触れればそれだけで鼓動が速くなる。
腕の中に閉じ込めた後の自分の行動に、責任が持てなくなりそうな衝動はさながら思春期の子供のよう。
モノクロの世界を一瞬にして極彩色に塗り替えた稀有な存在は、いつものように耳まで真っ赤に染め上げて、言い難そうに合コンに行きます、と告白した。
告白の内容を受けての率直な感想は、ああ、そう。だった。
静乃の表情からして、本意ではない事は明らかで、そのうえこれだけ身を縮めて恐縮しきっているのだからやむにやまれぬ事情だというのも頷ける。
それよりも何より重要なのは、彼女が合コンに行く事に対して抱いている罪悪感の方だった。
自分に向けられている好意があるからこそ生じる後ろめたさであり、罪悪感である。
つまりこれは遠回しな告白のようなものだ。
鷹揚な恋人の顔をして、素直に話してくれてありがとう、と静乃を慰めた瑠偉の対応は完璧。
ほっと胸を撫で下ろした静乃の唇を啄んだ後、視線を下げた先で、おずおずと彼女が自分の背中に腕を回してくれた瞬間、ここが外である事を心底呪った。
ここ最近は土日もあってないようなもので、働き詰めの瑠偉の体調を心配するメッセージが届いて、そのお礼にという言い訳を作ってケーキ片手に土曜日の夕方に彼女の家の近くまで会いに行った。
20分ほどの逢瀬は、1時間の仮眠よりもずっと疲労回復効果が高くて、毎回同じ話ばかりを繰り返すクライアントの世間話にいつも以上の笑顔を返すことが出来た。
普段は車に戻った途端溜息を吐くのがお決まりなのに、いそいそとタブレットを取り出して次の仕事に取り掛かった上司をバックミラー越しに確かめた秘書は、目を丸くしていた。
初めて感じる高揚感は、静乃と離れた後も暫く続いて甘い余韻に苛む。
表仕事と裏仕事の切り替えで煙草を吸う癖が付いていたが、最近は静乃に会った後仕事が入っている時に吸う事が増えた。
意図的に意識を切り替える必要があるからだ。
一度どろどろの余韻に浸ったまま現場に顔を出して、永季に真顔で。
『お前、顔!!!!』
と本気で指摘されて以来、必ず吸うようにしている。
もうあの顔は、静乃専用なので他の場所で見せるつもりもない。
何度目かのディナーデートで、お土産に持って行ったマスカットがえらく好評だったので、マスカットのタルトを届けたら、罪悪感に沈んでいた静乃の表情が一気に華やいだ。
これから何かあった時には必ずそれを用意しようと心に決めて。冷蔵庫に常にマスカットのストックがある生活を思い浮かべて、静乃とセットで早急に実現させようと心に決めた。
公園の端にある小さな東屋で、二度目のキスを強請っても彼女は拒まなかった。
罪悪感に付け込んだ自覚はあったけれど、それ以上甘ったるい唇の誘惑は魅力的で抗いようが無かった。
物足りなさを覚えるまで辛抱強く唇の表面を食んではなぞって、彼女が唇を開いた後で開き直っていつものようにキスを深くした。
拙い舌使いはただただ可愛いくて、いつか彼女に翻弄される時を夢見ては自分を慰める。
キスでこれなのだから、恐らく誰の痕跡も残っていないだろう身体に触れたらどうなるのか、想像しただけで腰が重たくなる。
大学時代に8か月交際した恋人は、既に県外で家庭を持っており焼け木杭には火が付く可能性は皆無。
彼女が社会人として過ごして来た5年間は、その殆どが生活の維持の為だけに費やされていた。
年頃の女性としての楽しみよりも母親との生活を重視していた彼女には同情するけれど、今の状況を考えれば有難いばかりだ。
これから与えてやれるものは、多ければ多い程良い。
合コンに行く事を快く了承した瑠偉は、交換条件として、その場の男性陣に恋人が居る事を告白する事を要求した。
静乃は分かりました、と頷いて、帰りには連絡を入れますと律儀に答えて見せた。
帰宅連絡は不要だよ、と思ったが、敢えて口にはしなかった。
★★★★★★
スペイン風バルの店内は、軽快な音楽とざわめきに満ちている。
どことなくスパイシーな香りが漂う雰囲気のある店は、若い男女で賑わっていた。
テーブル席のすぐ横のカウンター席に陣取って、申し訳程度に注文したピンチョスと炭酸水を摘まみながらその時を待つ。
次々と通されるアルコールのオーダーに心惹かれないわけでは無かったが、この後運転できないのは物凄く困る。
緊急時には問答無用で下戸の榊を呼び出すが、今夜はどうしても二人きりで居たかった。
コース料理は一通り届いて二杯目の注文から暫く経った頃、自己紹介を兼ねた、仕事や趣味の話題が一周してから、幹事役の同僚だという男が話題を変えた。
「唐橋さん、ほんとに彼氏いるの?」
「は、はい・・・」
約束通り先手を打って恋人が居ますと宣言した静乃を内心で褒め称えつつ、ちらりとテーブル席を伺えば。
「最近付き合い始めたばっかりなんだって、ねー?」
報告書で上がって来ていた同じ広報部の女性社員が、静乃の肩を軽く叩いた。
静乃が一番頼りにしている先輩社員のようだ。
合コンに行く事を報告して来た時も、お世話になっている先輩社員が最近別れて次の恋を探しているので、その手伝いをしてあげたいと口にしていた。
「そうなんです・・・だから、今日は人数合わせで・・」
すみません、と心底申し訳なさそうに謝罪を口にする静乃のしおらしい態度に、一瞬腰が浮きそうになったが、まだ1時間経っていない。
「え、でも付き合ったばっかなら、全然可能性あるでしょ?」
ノリの良い男の声に、確かに!と笑い声が上がる。
頭の軽い男の馬鹿な発言は聞かなかった事にした。
「いえ・・そんなつもりはないので・・・すみません」
律儀に否定と謝罪を繰り返すのは、偏に瑠偉を裏切らない為。
生真面目な彼女らしい受け答えに、堪らない気持ちになる。
静乃に対する信頼は1ミリたりとて揺らいでいないが、男女が出会いを求めて集まる場所なのだから、予期せぬ事態は起こりうる。
何かあってからでは遅いので、こうしてスケジュールを捻じ曲げて張り付いたわけだが、その間にも、カウンターに置いてあるタブレットにはひっきりなしに承認依頼のメールや、相談メールが飛んでくる。
平素ならまだフロアの自席でラップトップに噛り付いている時間帯である。
当然、榊は会社に置いて来たので、上がって来る報告にも逐一目を通さなくてはならない。
一応仕事中としてあるので、代理承認の権限を下ろしていなかった。
聞こえて来る会話から察するに、男性三人の内の一番言葉数が少ない男は、静乃の先輩社員を気に入っているようだ。
彼女が喋るたび途端に増える相槌の数が、それを物語っている。
静乃に話しかけている男の興味については深く考えないようにして、回って来る決裁を捌きつつ、一時間が経過した頃に席を立った。
テーブル席の分と合わせて会計を済ませてから、程よく盛り上がっている合コン会場に、さも以下来たかのような素振りで顔を見せた。
「静乃」
きちんと真正面から視認した彼女の服装は、いつもの清潔感重視のフェミニンな膝丈スカートと、ボートネックのカットソー。
隣の先輩社員のいかにも合コン仕様な花柄のワンピースでは無かったことにホッとする。
呼びかけの声に弾かれるように顔を上げた静乃が、ぎょっとなって立ち上がった。
隣の先輩社員と、女子の幹事役がぽかんとこちらを凝視しているが、静乃が手元に戻って来るまでは不用意な笑顔は振りまかない。
「っな、なんで!?」
「仕事が終わったから気になって迎えに・・・申し訳ない。彼女は返して貰ってもいいかな?」
促すように視線を送れば、静乃が慌てて椅子に掛けていた小さめのショルダーバッグを掴んだ。
「っは・・・はい・・・どうぞ」
こくこく頷く女子の幹事役と先輩社員に柔らかい笑みを浮かべて謝罪を口にする。
「無理を言って申し訳ない」
「い、いえ!とんでもないです!静乃ちゃん、また来週ね!!」
逆上せたように裏返った声で手を振る先輩社員に頭を下げて、目の前までやって来た静乃が不機嫌そうに顔を歪めた。
意図的に微笑んだ事が気に食わなかったようだ。
自分の使い処を絶対に間違えない男は、僅かに屈んで耳元で囁いた。
「ごめんね」
自分の声が、静乃の心の琴線を揺らす事を知ってからはこうして有効活用している。
とろんと瞳を甘くすれば、酒精よりも遥かに効果的に静乃の頬を染め上げる事が出来た。
赤みを帯びた薄暗い間接照明の下で良かった。
伸ばした腕で囲い込んで静乃の表情を晒さないように店の外へ向かう。
耳たぶまで染まっている事は、車に戻ってから確かめる事にする。
「鷹司さん!」
「瑠偉」
「・・・・瑠偉さん」
物凄く言い難そうに彼女が名前を呼んだ。
彼女の機嫌関係なしに、他の誰に呼ばれるよりも柔らかく響くのは、受け取る側の心のありようだ。
「なあに?」
穏やかに尋ね返せば、静乃が訝しげな顔になった。
「私、お店の名前言いましたっけ?」
「訊いてないけど、この辺りのスペイン風バルって此処だけだから」
「ちゃんと帰ったら連絡するって言いましたよね!?彼氏が居る事も話しましたし・・」
「そういうの抜きで、会いたかったって事にしておいて下さい。きみの事は、疑う余地もない位、心底信用してるから」
一番使ってはいけない言葉が、迷うことなく口から飛び出した。
だってこの言葉以外相応しいものが無いのだから仕方がない。
万一彼女が自分を裏切ったとしても、笑ってそれを受け入れてしまう程度には、溺れている自信があった。
理由なんて分からない。
ただ、あの夜から全てが変わってしまったのだ。
望まれれば、喜んで無抵抗でこの身を投げ出してしまえるほどに。
言えば狂気の沙汰だと言われるだろうけれど。
それぐらい、圧倒的で、絶対的な感情だった。
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