第8話 Love connection 戦車~The Chariot~

最近上司の機嫌がすこぶる良い。


昔から温厚で、彼が声を荒げるところなんて見たこともないが、機嫌が悪いと纏う空気と声質が一変するので、上司の昔馴染みである有栖川永季ありすがわときや、神出鬼没の祓い屋は、察知すると途端に距離を取って、怒りが静まるまでは決して近づこうとはしない。


触らぬ神に祟りなしとはまさにこのことだ。


さかきとて、叶うならば是非ともそうしてほとぼりが冷めるのを待ちたいところだが、瑠偉の全ての業務のサポート役として側に就いている以上、そうもいかない。


人間の出来た上司は、部下に八つ当たりして鬱憤を晴らすようなことはしないが、どんどん深くなる眉間の皺を間近で見る度に、いつかこのストレスが爆発するのではと本気で心配になったことも一度や二度では無かった。


勘解由小路かでのこうじ家の持つ莫大な資産と土地の管理者として、いくつかの会社を興して資産運用を行う傍ら、家人の側仕えとして公私共に長く身を賭して来た九条会。


大手企業として成長した会社を切り盛りする表仕事を対応する部隊と、祓い屋のマネージメントに専念する裏部隊、綺麗に分業制が成立していたのは、7年程前までの事。


偏屈者の当代祓い屋が、気の合わない側仕えに悉くお役御免を告げてしまい、泣きつかれた上役達が、潜入捜査という名目で警察から預かることになった永季に役目を押し付けた所、二人揃って好き勝手し始めて、事態収拾のために役回りを押し付けられたのが、表仕事で成果を上げていた瑠偉だった。


必然的に、部下である榊も彼らと顔を合わせる機会が増え、その結果現在のような面倒ごと対応係のような役回りになってしまっている。


給料明細に記載された謎の手当ての桁に、最初はぎょっとなったが、今となっては十分妥当な金額だと自負していた。


「アウディの洗車指示しておきましたよ」


ここ最近、上司が隙間時間に車を走らせてどこかに行っている事は知っていた。


会議や幹部会の予定時刻にはきちんと戻って来るし、祓い屋のように電話もメールも繋がらないという事態にもならない。


必要な時に連絡が取れずに、スマホを鳴らしながらオンライン会議に出席する瑠偉を間近で見て来た榊にとって、上司の自由行動は当然ながら許容範囲内だった。


お互い三十路過ぎのいい大人である。


いくら10年以上の付き合いとはいえ、私生活に踏み込むつもりもないし、向こうも踏み込んではこない。


日の出から深夜まであくせく働かされているのだから、隙間時間にプライベートの充実を図ってもなんの問題もないし、むしろ、進んで癒しと潤いを摂取して欲しい位だ。


見目の良さを生かして拗れた案件を上手く纏める事も少なくない彼が、そのまま相手と大人の社交を楽しむのは常だった。


どちらから誘ったのかは、当然言わずもがなである。


適度に蝶と戯れても、決して溺れることは無く、また相手を溺れさせる事も無かった。


この辺りの線引きは本当に絶妙で、煩わしい女を避けて通る手腕は天下一品。


堅気だろうと無かろうと、気になった相手には突撃の一択しかない永季が次々と玉砕してはやけ酒に走る中、お得意のリップサービスで今夜の相手を呼びつける瑠偉の表情は、社内会議や、取引先とのプレゼンの時と全く変わらなかった。


人間臭さで言えば、余程永季の方が真っ当である。


連絡先を交換した相手からの返信が来ないと、管を巻いて酒を煽る永季の方が、榊の目にはずっと微笑ましく映っていた。


擦り寄って来る相手に蜜を与えることはしても、同じものを欲しがることは絶対にしない彼の遊びの駆け引きは、生涯変わらないのだろうと思っていたのに。


「助かりました」


「最近、あればかりよく運転されてますね」


ご時世もあり、いかにもな黒塗りの高級車に乗るのは一部の古株だけなので、意図的にバラバラの車種を取り揃えてある地下駐車場は、ちょっとした中古車販売店のようになっていた。


表仕事の時には主に2台を、裏仕事の時には4台を常時動かせるようにしてある。


「車をね、覚えてくれたんですよね」


「・・・はあ?」


答えになっているようないないような返事に、ハンドルを握ったまま榊はバックミラー越しに上司の様子を伺った。


一瞬聞き間違いかと思ったが、どうやら間違いではないらしい。


どこかぼんやりとリラックスした表情で、春の日差しが降り注ぐ目抜き通りの路面店の流れを見つめる彼は、心ここにあらずのようだ。


火急案件も入っていないし、この後アポを入れてあるクライアントは顔見世目的なので頭を使う必要もない。


表仕事に当たる時の上司は、とにかく仕事の緩急の付け方が抜群に上手い。


そうでなくては、裏仕事との掛け持ちは出来ないのだろう。


完全にオフの瑠偉を目にするのは随分と久しぶりで、いっそ新鮮な気分にさえなる。


恐らく、足繫く会いに行っていた女性が、瑠偉の運転する車を覚えたという事なのだろうが、本来ならばあり得ない事態である。


複数台の車を使い回しているのは、特定を避ける為、つまり不要な危機を回避するため。


遊び相手との待ち合わせ場所に送り届ける時にも、毎回違う車を用意していた榊にとってはまさに寝耳に水の発言だった。


しかも、覚えてしまった、のではない、覚えてくれた、だ。


ちょっと待てよと慎重にハンドルを切りながら、混乱して来た頭を必死に整理する。


恐らく彼の言うその女性とは、ひと月ほど前に調査指示を受けた一般人の事なのだろうが、叩いても何も出てこない、良くも悪くもごく普通の女性だった。


控えめな美人と呼ぶにふさわしい容姿と評価は、確かに有名出身校の名に恥じない物だったが、特筆すべき所はなにもない。


これまで瑠偉が相手をして来た女性たちの中に放り込めば一瞬でかき消されてしまうような薄っぺらな存在感しか抱かせない。


正直上司が彼女のどこに惹かれたのかさっぱりわからない。


が、それを言えば一気に機嫌が氷点下まで下がる事は目に見えていたので、賢明にも榊は言及を避けた。


「あの車、僕の車と取り換えてもいいですかね?」


後ろに流れて行く景色から視線を前に向けた瑠偉が、ポツリと言った。


「はい!?5シリーズのセダン、特別仕様に変更された位お気に入りだったじゃないですか!」


買ったばかりの高級車は完全プライベート用なので、最近は忙しすぎて自宅の駐車スペースの飾りになっているとぼやいていたのに。


「そうなんですけどね・・・ああ、暫くアウディ僕専用にして下さい。掃除の時も助手席にはあまり触らないように」


どうしてですか、と尋ねるのも馬鹿らしくなるような指示に、榊はこっそり低い天井を仰いだ。


仕事のし過ぎでとうとううちの上司はおかしくなったのかもしれない。


「承知しました・・・」


乾いた声で返事を返して、榊は追加で受けていた指示についての報告を思い出した。


「瑠偉さんがピックアップされた社員に関する身辺調査の追加が届いてましたよ。アカウントの特定も出来ましたので如何様にも対応可能ですが」


「ありがとうございます。出来れば静乃が知らない場所で対応したいんですが、別枠で人動かせます?」


「平泉先生から、知り合いの弁護士事務所を紹介して貰いましょうか」


「ああ、そうですね。それがいい」


「それにしても怖いですね・・・社内調査では誰より彼女を慕っているような結果しか出てこなかったのに」


「静乃の事が特定される前にレプリカには退場して貰いたい所ですよ。上手く誘導して静乃がウチに来てくれればいいんですけどね・・・」


この場合のウチとは、瑠偉の携わっている企業なのか、それとも、瑠偉の懐を指すのか、悩みかけて慌てて思い止まった。


この男が本気で追いかけて囲い込んで、懐に入れてしまえば、それはもうプライベートなのでと他者の振りは出来なくなる。


当然、部下である榊との顔合わせも必要になるし、裏仕事の事を考えれば、必然的に勘解由小路への報告も必須になる。


煩わしいばかりの手間と段取りが必要になるので、これまで瑠偉は特定の相手を作らなかった。


その必要性を感じていなかったのかもしれない。


身軽であればあるほど動きやすいのは表社会も裏社会も同じである。


ここに来て一気に手のひらを返した上司の行動を見る限り、遅すぎる初恋に右往左往している永季のことを他人事と笑えない。


そして、その事に肝心の本人だけが気づいていない。


「風見鶏の店主から、お礼の電話がありましたよ。えらく奮発されたそうですね」


「僕が店に居る間は、貸し切りにして頂いたのでそのお礼ですよ。心付けはいつもの事でしょう」


アポなしで店にやって来た古参の上客を全力でもてなしたにしては、支払った金額の桁がひとつ多いような気がしたが、貸し切りディナーデートがそれだけ楽しかったという事なのだろう。


普段より饒舌になっていたという瑠偉は、終始笑顔を見せていたらしく、厨房を仕切る店主はかなり驚いたようだ。


本当の内輪の人間しか伴い店は、瑠偉にとっては自宅と同じような場所なので、ただのお気に入りには敷居をまたぐ権利すらない。


榊の知る限り、自分と永季だけが同伴を赦されていた筈だ。


出会ってひと月であっさりスペシャルシートの乗車券を手に入れたかの女性は、自分にはわからない、何か特別な魔性の力でも秘めているのだろうか。


九条会関連で瑠偉に回って来る仕事に同行するうちに、所謂怪異現象にも慣れてしまった榊なので、そういう類の何かに憑かれていると言われてもああ、なるほどと納得してしまえる。


「あなたが思っているような、摩訶不思議な力は何も持っていませんよ。極々一般的な、魅力的な女性というだけです」


あなたの心を掴んだ時点で、もうすでに極々一般的のカテゴリーから大きく外れる事になるのですが、と声を大にして言いたい。


歯噛みする思いでハンドルを握りしめる榊を尻目に、スマホを取り出した瑠偉がやれやれと溜息を吐いた。


「また雲隠れですよ・・・那岐に鈴を付ける方法は無いんでしょうかね」


一向に既読にならないメッセージ画面を軽くタップした瑠偉の表情が、次の瞬間一変した。


「榊」


「はい」


「すみませんがUターンして貰えます?さっき見えたケーキ屋で停まってください」


彼のこの後の行動がすぐに分かって、榊はカーナビに表示された時間を確かめた。


「瑠偉さん、アポが」


「すぐ戻りますから。ケーキ買ったら僕の事は駅前で降ろしてくださいね」


決定事項として宣言されれば否は無い。


粛々と車線変更して、上司を目的地まで送り届けながら、榊は写真でしか見たことの無い彼の想い人にほんの少しだけ同情した。


この上司は、物凄く優秀だが、この上なく厄介である。

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