第7話 Love connection 恋人たち~The Lovers~
「静乃ちゃん、お稽古やめたの?」
吐き出された社内報の初稿をプリンターから取り出しながら、先輩社員が投げて来た質問に静乃はぎょっとなって立ち竦んだ。
「あー・・ええっと・・・まあ、はい」
お稽古=アルバイトなのだが、辞めた事は事実なので、一先ず頷いてやり過ごす。
実際は辞めざるを得なかったというほうが正しい。
瑠偉の突撃訪問を受けた日は、有無を言わさず連行されてしまうのでアルバイトは必然的に当日欠勤。
シフト勤務のパン工場は3日欠勤した時点で、来月のシフトから外すと言われてしまった。
無理もない。
あの雨の夜以降ますます恋人モードが加速している瑠偉は、パン工場をクビになったと膨れた静乃に、これ以上副業を続ける必要は無いと宣言した。
これからは、静乃の生活費の補填は自分が担うと胸を張った彼の言葉は、訴状片手に慰謝料請求して来た人間の台詞とは思えない。
少なからず絆されてしまった自覚がある静乃としては、生活費の補填云々は置いておいて、そりゃあ勿論バイトに勤しむより、瑠偉の睦言に溺れている方が心地よいけれど、この関係は瑠偉の気まぐれで始まったのだから、ずぶずぶ深みにはまって抜け出せなくなる事は避けたい。
もう要らないよと放り出された時の為にも、別のアルバイトは探さなくてはいけない。
「あんなに毎日熱心に通ってたのにねぇ。あ、じゃあ終業後暇になったわね!早速合コンの日取りを決めましょうか!」
「合コン・・・」
これまでも入社当時からお世話になっている先輩の頼みで何度か人数合わせで参加した事がある。
一年程前の合コンで仲良くなった年下の彼と先月破局した先輩社員は、新しい恋を探そうとあちこちの飲み会に顔を出しているようだ。
静乃から明確な言葉を口にしたわけではないが、あのキスを受け入れたのだからつまりはそういう事だろう。
その状況で、人数合わせとはいえ合コンに行くのはいかがなものかと一瞬だけ迷いが生まれる。
が、合コンには行けませんと言えば、きっと理由を尋ねられるし、そうしたら、たびたびオフィスビルの前で目撃されている瑠偉と自分との関係について、知人と逃げ切る事はもう出来ないだろう。
相談役として籍だけ置いているという不動産会社と、部長職に就いているコンサルティング会社の掛け持ちは、静乃の副業生活の数倍は忙しいようで、瑠偉が会社まで迎えに来る夜以外は、彼から電話が入る事はまずない。
初対面の日に無理やり交換させられたIDに、メッセージは昼夜を問わず送られてくるけれど、酷い時にはおやすみのメッセージが深夜3時に届いていたりする。
勿論静乃は夢の中だ。
始まりが始まりだっただけに、どこまで彼に踏み込んで良いのか、踏み込ませて良いのか分からないまま、恋人もどきの関係はスタートした。
「いい事、静乃ちゃん。どんな綺麗な花にだって賞味期限は存在するのよ。高嶺の花で売れるうちにいい男捕まえないと、私みたいになるんだからね!」
社会人になってからはひたすら堅実に母親との生活と、会社員唐橋静乃の存在を守る事だけを考えて来た静乃にとって、恋はどこかふわふわとした遠い存在だった。
実際、瑠偉との距離が近づいた今も、惹かれているとは思うけれど将来のことなんて欠片も意識していない。
結婚が人生のゴールではない事を両親を通じて痛い程実感した静乃である。
だから、ひと時の淡い夢で良いと思えた。
「先輩だってまだ賞味期限切れじゃありませんよ。そもそも女性に賞味期限なんて存在しません」
そうであって欲しいという願いも込めて零せば、苦笑いを浮かべた先輩社員が、静乃の立つコピー機の向こうを一瞥して、肩を竦めた。
「そうは言っても・・・ほーら、いま話題の次世代の高嶺の花を見てごらんなさいよ。あの若さとピュアな雰囲気はアラサーには出せないわぁ・・・いかにもお嬢様って感じよねぇ・・」
見れば、去年の新入社員である、総務部の平井美羽が愛らしい笑顔を浮かべて同期と雑談している。
「あの子、どんどん静乃ちゃんに似て来てるけど・・・今日の服の感じも。香水までお揃いにされたんでしょ。すごいわね」
「あ、唐橋さん!お疲れ様です!前に教えて頂いたスカート、取り置きお願いして買っちゃいましたぁ」
照れたように笑う平井が、色違いのパステルピンクのシフォンスカートをちょっと摘まんで見せる。
ふわりと広がる香りは、静乃が愛用している香水と同じもの。
私もそれが欲しいです!と満面の笑みで言われて否と言えるわけもない。
迷わず紺を選んだ静乃には、微妙に浮いて見える女の子らしい色合いも、ベビーフェイスの平井にはよく似合っていた。
「凄く可愛い。平井さんのイメージにピッタリのスカートだと思うわ」
「憧れの唐橋さんにそんな風に言っていただけて嬉しいですー」
会社説明会で対応した静乃を覚えている新入社員は珍しくないが、ここまで懐いて来るのは彼女が初めてだった。
伊達に5年も張りぼての高嶺の花をやっているわけでは無いので、唐橋静乃に必要なフェミニンなファッションブランドの情報を少しだけ伝えたら、次の日には色違いのワンピースを着て現れた時には驚いたが、向けられる羨望の眼差しと音と無邪気な愛嬌は憎めない。
彼女こそまごう事なき本物の高嶺の花なのだろう。
つい数分前に口にした賞味期限の話を思い出して苦くなったところで、終業のチャイムが鳴った。
★★★★★★
「静乃さん」
ノー残業デーの水曜日。
定時直後の従業員入り口は始業前のような混雑ぶりで、そんなラッシュのさなかで聞き覚えのある声で名前を呼ばれた時の心境は、一言では現わせない。
会う約束はしていないなかった。
エレベーターホールを抜けたところで、普段の水曜日よりもざわめきが大きいな、と他人事のように思っていたその原因が、まさか自分の知り合いだったなんて。
相変わらず上質なスーツを綺麗に着こなして、ターコイズグリーンと黒の格子模様のネクタイを隙なく締めた瑠偉が、人々の、というか主に女性陣たちのとろけるような視線の渦中で悠然とこちらに向かって手を振っている。
いつもは車の横に立っているのに、どうしてわざわざ今日に限ってオフィスビルまで迎えに来るのか、それも事前連絡も無しに。
名前を呼ばれた途端、蜂蜜の海に落とされたような錯覚を覚えて、瞬時に火照った頬を押さえて慌てて瑠偉の元へ駆け出す。
一体いつスイッチが入ったのか、瑠偉から注がれる恋の音は日増しに大きくなるばかり。
「鷹司さん!連絡貰ってないですよね!?」
「仕事で近くに寄ったので、この時間なら捕まるかなと思って前の通りで下ろして貰ったんです。これから連絡を入れるつもりでしたよ」
スマホを軽く振ってみせた瑠偉のアルカイックスマイルに、通り過ぎて行く女性陣から抑えきれないような黄色い悲鳴が上がった。
もやっと胸に浮かんだわだかまりを振り切るように、一刻も早くここから離れましょう!と瑠偉の腕を掴もうとした瞬間、声が掛かった。
「唐橋さんお疲れ様ですー」
平井の声だ。
振り向くと同期らしき女子社員と二人で興味深そうにこちらを見つめている。
「あ・・・お疲れ様」
「彼氏のお迎えですかー?いいなー羨ましいー!」
はしゃいだ声で無邪気に彼氏さんすっごくカッコイイですね!と言われて、思わずたじろぐ。
これまでの静乃ならば、迷わず只の知人ですと切り返したところだ。
わざわざ会社の同僚達に話題のネタを提供してやる必要もない。
けれど。
覗き込むように僅かに距離を詰めた瑠偉の期待に満ちた視線を間近で見てしまったら、全否定なんて出来る筈もなかった。
「あ・・・うん」
何とも歯切れの悪い一言と共に小さく頷いた静乃に、デート楽しんでくださいね!と平井たちが通り過ぎて行く。
直後に襲って来たのは言ってしまったという後悔。
きっと明日には噂になっているだろう。
が、それよりも何よりもまずは目の前の男である。
意を決して視線を戻した瞬間、粉砂糖をまぶしたようなきらきらしい音がした。
「静乃さん」
あれ以上糖度を上げるのは不可能だろうと勝手に思い込んでいた自分を叱りつけたい。
触れた側から溶けてしまいそうな淡雪みたいな声で名前を呼ばれて、ぼんやりしている間に指先を繋がれる。
人の流れから逆行するように、地下鉄とは真逆の方向へ歩き出した瑠偉が、すいすいと泳ぐようにいくつかの角を曲がった。
17時過ぎの大通りは結構な混雑ぶりだったが、不思議な事に静乃は一度も誰ともぶつからなかった。
道行く人の動線の全てを把握しているかのように、歩きやすい方向へ誘導されているうちに、あっという間にオフィスビルが遠ざかる。
この辺りの地理に詳しいのか、瑠偉は一度も足を止める事が無かった。
そして、いつものように時折静乃と視線を合わせて微笑むことも無かった。
繋いだ指先だけは相変わらず優しくて、だから、不安になる事も無かった。
導かれるように少し前を歩く背中をひたすら追いかけていたら、どこかの裏通りで瑠偉がようやく立ち止まった。
くるりと振り向いた彼が、繋いだ手はそのままに、反対の手のひらで頬を包み込む。
親指の腹で目尻を優しくなぞられて、くすぐったさに目を伏せれば、額にキスが落ちた。
「・・・!?」
甘やかすようにこめかみと鼻の頭にもキスが落ちて、ぎょっとなった途端、唇を塞がれる。
項を撫で上げた指が後ろ頭を引き寄せて、すぐにキスが深くなった。
ぬるりと入り込んできた舌先が、器用に上顎を擽って舌裏を掬う。
「んぅ・・っ」
驚きと息苦しさで声を漏らせば、嗜める様に優しく表面をなぞられた。
ぞくりと疼いた身体の奥から、小さな熾火が零れ出す。
駄目だと思うのに、あっという間に巧みなキスに翻弄されて心地よさでいっぱいになる。
必死に腰を引くたびに追いかけて来る唇が、角度を変えて綺麗に静乃の口内を暴いた。
震える足が恐怖からではない事を、心はもう知っている。
ちゅっとリップ音と共に上唇を啄んで、瑠偉が真っ赤になった静乃の前髪を丁寧にかき上げた。
涙目の目尻にキスをひとつ。
「車で来れば良かった・・・」
吐き捨てるように呟いた彼が、顎を掬い上げて来る。
「っちょ・・・た、かつかささ・・・」
キスの余韻で舌っ足らずになった呼びかけに、気を良くした瑠偉が嬉しそうに目を細める。
「僕が恋人だって、ちゃんと教えて」
「は・・・んっ・・・」
それならさっき間接的にだけれどきちんと態度で示した筈だ。
必死に言い募ろうとした静乃の唇を我が物顔で塞いだ瑠偉が、繋いでいた手を自分の首へ導いた。
離した掌で優しく背中を撫でられて、油断した途端腰を抱き寄せられる。
慌てて目の前のペールブルーのシャツの胸元に手を突いたら、彼の鼓動が恐ろしく早い事に気づいた。
さっきから鳴り響く甘ったるい音と、唇から伝わる熱。
そこに逸る鼓動が加われば、あっという間に恋人たちの一幕は出来上がり。
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