第6話 Love connection 教皇~The Hierophant~
頬の熱が一向に引いてくれない。
それもこれも全部目の前のこの男のせいだ。
「ロールキャベツがそんなに美味しかった?」
看板のないその店は、住宅街の一角に立つ極々普通の一軒家だった。
星付き有名店を引退したシェフが妻と二人、趣味でひっそりと営む洋食店は、自宅の一階を改装したこじんまりとした小さな造りで、知り合いのお宅に食事に招かれたような気分が味わえる。
テーブル席が3つのみの店内は丁度無人で、穏やかな老夫婦がふらりと顔を出した瑠偉を見て嬉しそうに目を細めて、初めて見る同伴の静乃にちょっと驚いたような顔になった。
メニュー表は無くランチとディナーのコースがそれぞれ1種類のみ。
これまで瑠偉が静乃を連れて行った所謂大人デート仕様のお店とは真逆を行くアットホームな空気は静乃にとって馴染みのあるもので、これまでよりも食事事態を楽しむことが出来た。
何よりコースの内容がどれも家庭料理だったせいもある。
瑠偉の洗練され過ぎた見た目には少しそぐわない気がしたのは最初だけで、彼はいつになく柔らかな表情で、静乃と、給仕をしに来た女主人との会話を楽しんでいた。
見た目王子様で意外と庶民的なんて、どこまでツボを押さえれば気が済むのか。
「お、美味しかったです!優しい味で、ちょっと母の作るロールキャベツに似てました」
離婚以降、節約命で食費を削っている唐橋家なので、ミンチは今日の半分以下でかさ増しに茹でたキャベツの芯を刻んで混ぜ込むのが定番だったけれど。
「初めて自分の口から家族の事を話してくれましたね」
「・・・っ」
住宅街の外れにあるパーキングまでの道のりは、駅前ほど街灯が多くない。
数メートルおきにポツリポツリと灯るほのかな明かりの下でもはっきりと分かる位きらきらしい笑顔を浮かべる瑠偉に、スポットライトは不要のようだ。
あの夜のキス以降、突然彼の言葉に音が芽生えた。
それは溢れ出した濁流のように静乃を丸ごと包み込んで、引きずり落とした。
これだけの強い感情をどうやって制御して平静を装っていたのか不思議な位、彼の言葉は極彩色だ。
そして、あの夜からずっと、彼が紡ぐ言葉の根底には同じ音が鳴り響いている。
それは耳を塞いでも、胸の奥まで染み込んできて、静乃を逃がしてはくれない。
「鷹司さんっ!しゃ、喋らないでくださいっ!」
嬉しいと楽しいの音はまだいい。
静乃にも馴染みがあるからだ。
けれど、それよりももっと深く強く響くのは、愛しさと、恋しさ。
愛しさってなんだ!?と問いたい。
これまで静乃がその身で受け止めて来た、高嶺の花の信望者たちが響かせる羨望や興味や嫉妬の音には、こんな音は少しも含まれてはいなかった。
学生時代に一時期交際していた唯一の彼も、静乃と一緒に居る時には甘やかな音を聞かせてくれたけれど、あの音がまるで薄っぺらい三文小説のように思えて来る。
鷹司瑠偉と知り合ってから3週間。
一切の感情を見せずに、暇つぶしのおもちゃ程度に静乃を軽んじていた筈の彼から鳴り響くのは、圧倒的な愛情の音。
彼が言葉を連ねるよりも、その音は彼の想いを雄弁に伝えて来るから困る。
こんな重たい愛情、受け止められるわけがない。
そもそも訴状片手にやって来た時点でかなり面倒な男だと思っていたけれど、今はその比ではない。
真っ赤になって両耳を塞いで訴えれば、瑠偉が綺麗な顔を残念そうに一瞬だけ歪めて、それから極上の笑みを浮かべた。
獲物を前にした肉食獣のそれだと錯覚してしまったのは、多分気のせいではない。
「本当に黙っていた方がいい?」
ヒールの静乃の歩調に綺麗に合わせて、のんびりと春の夜の短い散歩を楽しむ瑠偉が、無言でひとつ頷いた静乃の指を絡め取る。
「・・・!?な・・」
ごく自然に爪の先を優しく撫でられて、乾いた掌の熱に心臓が大きく跳ねた。
「手持ち無沙汰でしょう?」
彼の睦言は甘くて、けれどどこかひんやりとしている。
降って来る砂糖水の雨の音がシャラシャラと耳を擽った。
口説かれているのだからこの音は当然なのだろうが、こんな底なし沼みたいな愛情を前にして流されるわけにはいかない。
自分の何に、何処に、彼が惹かれているのかさっぱりわからない。
分かっているのは、聞けば沼の底行きが決定打ということだけ。
「かっかかか噛みつかないって・・!」
「ああそうだ。噛みつくの定義について擦り合わせをしたいなと思ってたんですよ。今後の為に」
意味深な流し目と共に爆弾が投下される。
静乃の返事を待つ間も、瑠偉は無言のままでマニキュアで彩られた爪の先をくるくると撫でては弄んでいる。
均整の取れた長身だけれど、筋肉質なイメージは無かったのに、どういうわけか少しも指を解けない。
無言で必死に腕を引き抜こうとしても敵わない。
四苦八苦する静乃を嗜めるように、親指の腹で手の甲をそろりと誘うように撫でられた。
もう無理だと、物の数秒で敗北を認めた。
この男相手に抗おうとか、戦おうとか、出し抜こうなんて考えた自分が馬鹿だった。
能天気な浅はかさを呪う。
静乃と同程度の常識の範囲で生きて来た人間は、簡単に訴状を用意したり、相手の素性を調べたりは絶対にしない。
とにかく何もかもが規格外なのだ。
「しゃ、喋ってください!」
その代わりと渾身の力で腕を引けば、嘘みたいにあっさりと解放された。
特殊な体術でも習得しているのかと疑いたくなる位に強い力だったのに。
彼が静乃に見せている紳士的な一面と時折気まぐれに顔を覗かせる強引な一面、それは、本当に彼のごくごく一部でしかないのだ。
計ってはいけないし、底知れぬ魅力に惹かれて沼の底を覗き込んでは、絶対にいけない。
帰って来られなくなるから。
「静乃さん、この間から僕の声を聞く度そうやって真っ赤になって困るのはどうして?」
待ってましたとばかりに質問が飛んできて、ああ、やっぱり黙っていて欲しかったと後悔する。
今の彼は目の前の静乃への興味と好奇心と探求心と、支配欲と独占欲と愛情と思慕で埋め尽くされている。
ごちゃ混ぜの音が一気に押し寄せて来るのに、不協和音にならないのは、そこに裏が無いからだ。
馬鹿みたいに純粋な気持ちだけが絡まり合った音の濁流は、綺麗な調和を乱さない。
鳴らないで、聞こえないで、と願ってももう遅い。
彼が初めて会った頃のようだったら良かった。
感情を見せずに、言葉巧みに静乃を揺さぶって時間潰しの相手をさせるだけなら、絶対に負けたりはしなかったのに。
これでは名前を呼ばれる度に、好きだと告白されているようなものだ。
そしてどんなに拒もうとしたって、ド直球の愛情の渦に抗える人間なんてそうはいない。
しかも、静乃にとっては張りぼての高嶺の花ではない自分自身に向けられた初めての好意だ。
嬉しくないわけが無かった。
天敵同然だった筈の男は、数歩下がって見てみればお茶の間を賑わす俳優顔負けの整った容姿をしていて、一心不乱に静乃を追いかけている。
これがもう少し一般的な出会い方をした二人だったなら、きっと静乃は運命だと胸をときめかせただろう。
「鷹司さんの・・・こ、えが・・」
「ああ、僕の声が好き?」
うっとりと見惚れてしまいそうな位柔らかく微笑んで、瑠偉がそれは嬉しいな、と呟く。
「お望みならモーニングコールでもしましょうか?」
「ちがっ・・」
朝から電話越しにこの音の濁流に飲み込まれたら仕事になんてなりはしない。
必死に結構ですと首を振る静乃を見下ろして、瑠偉が少しだけ声音を弱めた。
となりに並んだ静乃にだけ聞かせる為に、言葉を紡ぐ。
「ご存じないかもしれませんが、そうやって真っ赤になられると男はみんな期待しますよ」
何を?好意を、だ。
脳直で出た答えにぞくりと背筋が震えた。
適当に遊んで終わらせなかったのは、彼の気持ちがあるからだ。
静乃の心が欲しいと彼が望んだから、今日までこの中途半端な茶番劇は続いている。
醒めることの無い恋情は、一体いつまで続くんだろう。
これだけ見目良い男なら、相手はそこらじゅうにいる筈だ。
ああそうだ、始めたのは彼だから、彼が飽きたら終わるのだ。
まやかしの恋に、溺れてはいけない。
ジンジン痺れるように胸を焦がす音の螺旋から逃げるようにぎゅうっと目を閉じる。
甘ったるいだけの砂糖水の雨の余韻を振り払おうと身体を震わせれば、ぽつりと頬に雫が落ちた。
「っへ!?」
見上げた途端、ぽつぽつと頬や鼻先に雨粒が降って来る。
ぱっと静乃の上に手をかざして雨を避けた瑠偉が、明かりの少ない住宅街をぐるりと見回して、スーツを脱ぎながら視線を下げた。
「走れ・・・ちょっと、ごめんね」
「ます!きゃあ!」
二人の声が重なった次の瞬間には、静乃の両足は地面から離れていた。
ツイードのパンプスはこの春の新作で、お気に入りでもあったが当然走る事には適さない。
静乃の演じる張りぼての高嶺の花は、スカートを翻して走る事は絶対にしないのだ。
実際運動神経も良くないので、進んで走ろうとは思わない。
パーキングまではまだ少し距離があった、この状況で走らないという選択肢は無かった、のに。
静乃の歩調に合わせていた時の数倍の速さで静かな住宅街の外れまで駆け戻った瑠偉は、パーキングの手前の屋根付き駐輪場で、腕から静乃を下ろした。
抱き上げる直前に膝に掛けられたスーツをどうにか握りしめて、必死に自我を保とうとする静乃を横目に、瑠偉がわざとらしく咳ばらいを一つ零した。
「その靴、濡れると困るでしょう?」
一人だけ雨に濡れてしっとりと湿った長めの前髪を億劫そうにかき上げて、良案でしたよね、と口角を持ち上げる。
ぎゅうぎゅう握りしめたままのスーツの生地が手の中で皺を作る。
これを鷹司さんに返さなきゃ、何か言わなきゃ。
次第に強くなっていく雨脚は、乱れまくった静乃自身の心のようだ。
吹きつける風から静乃を庇うように、瑠偉が一歩近づいた。
天気予報、雨になってましたっけ?
いくらなんでも抱えて走るのはやりすぎでは!?
言うべき事がいくつも浮かんでは霧のように消えて行く。
彼のおかげでほぼ無傷のツイードパンプスに視線を向けて、もう一度彼を見上げた。
逸らすべきだったのだ。
射貫くように向けられた視線は、一瞬にして静乃の心と体を縛り付けた。
向かい合った目の前の彼からほのかに漂う紅茶とサンダルウッドの香り。
胸の高鳴りと共に耳元で響くのは匂い立つような甘い音。
瑠偉がこちらに指を伸ばす仕草がスローモーションのように映った。
輪郭に触れた掌が、明確な意思を持って滑らかに動く。
自動販売機の明かりが翳った、と思った瞬間、唇が重なった。
逃げようとしたってもう駄目だと、心が静乃に訴える。
いつか新しい恋をするなら、御伽噺のような優しい恋をと願っていたのに。
たたらを踏んだ静乃の腰を攫う腕の逞しさと強引さはそのままに、触れる唇の熱と優しさは病みつきになりそうな位心地よい。
惹かれちゃ駄目だ、と分かっているのに。
この男、どうしようもないくらい厄介だ。
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