第5話 Love connection 皇帝~The Emperor~

衝動で動いた事なんてこれまでの人生で一度も無い。


起こるべき事象に予め予測を立てて対策を立てる事、任された地域の基盤を維持しつつ外部からの侵入を阻む事。


最初に任された役割はその二つで、次に加わった役割が事業の運営だった。


短慮で動く部下を諌める事はあっても、自身の制御を手放して、感情の赴くままに動いたのは、後にも先にもあの夜だけ。


また会いたいなと思った女性は初めてで、興味の赴くままに彼女の素行調査を指示して、それでも興味は薄れずに自ら会いに行った。


これでも堅気ではない裏稼業を担っているのでそれなりに場数は踏んできたし、面倒な男のお目付け役で動くようになってから、度肝を抜かれる状況だって目の当たりにしてきた。


永季程では無いがそこそこ腕に自信もあって、当然ながら女性に蹴りつけられた事なんて無い。


瑠偉の知る女性達から向けられるのは好意と好奇心と粘っこい期待だけ。


だから、いつか見た映画のワンシーンのように、月明りを受けてビルの踊り場から女の子が降って来た時には、一瞬夢かと思った。


公に出来ない厄災の調伏の為に大急ぎで買い取った現場に立ち会ったのは、前回のような血みどろの事態を避けるためだ。


目的さえ達成すればその過程で多少人や物が壊れても問題なしと勝手な判断を下してくれる祓い屋の尻拭いの為に、ビル内部には部下を、警戒区域の周辺には、永季の部下である私服警官を配備して待つこと一時間。


静かすぎる内部の様子が気になってスマホを取り出した途端、ビルの火災報知器が鳴り響いて静寂は破られた。


これまでの経験から本物ではない炎だろうと当たりを付けながら、一般市民を遠ざけ始めた永季の様子を確かめて、面倒だが非常階段から上に向かおうかと背中を預けていた塀から離した途端、赤い影がふわりと見えた。


引き寄せられるように見上げれば、まさにいま地面に向かって身を翻した女性と目が合って、反射的に抱き留めようと腕を広げた。


二階の非常階段の踊り場から、地上までは2メートル弱の距離がある。


てっきり腕の中に落ちて来ると思った彼女は、目が合った次の瞬間、右足で瑠偉の肩を蹴りつけた。


まさかそんな行動に出るとは思っていなかった瑠偉は、思い切りたたらを踏んで、踏ん張り切れずに砂利道に尻もちをつく羽目になった。


数瞬遅れて真後ろに飛び降りたえらくクラシカルなワンピースの女性が、被っていたベールを押さえながらこちらを振り返った。


「すっ・・・すみません!」


呆然とする瑠偉を尻目に、勢いよく立ち上がった彼女はそのまま路地裏の奥へ走り去って、やがて見えなくなった。


鳴り続けるスマホに気づいたのは数十秒後。


走り去る赤いワンピースに見惚れていたのだと気づいた時には、もう恋に落ちていた。




★★★★★★




「そう警戒しないでくださいよ。僕は噛みつきませんから」


「もうすでに噛みついた人がそれを言います!?」


真っ赤になって狼狽える静乃の表情は初めてみるそれで、こんな状況なのに新たな一面が見られたことに嬉しくなる。


あれを噛みついた、と言われるのであれば、それ以上の行為に及んだらどうなるんだろうと下世話な事を考えそうになって、打ち消した。


ひょいと伸ばした手をすり抜けて、車から遠ざかった彼女を捕まえるべく一歩前へ。


案の定後ろ足を引かれて、次の一歩が出る前に申し訳ないが捕まえる事にした。


オフィスビルの前での長居は彼女の本意ではないだろう。


あの夜から4日が経った。


送ったメッセージは綺麗に既読無視されて、痺れを切らして会いに来たわけだが、どうも彼女の態度がこれまでとは違う。


ほんの少し味見した事は認めるが、それにしたってこんなに警戒するだろうか。


知らない人の車に乗るのはやめましょう、という防犯的教訓がしっかり染みついている所は有難いが、どうにか自分だけは除外にして貰わなくては困る。


「そのあたりの擦り合わせは、車の中でしましょうか」


さあ乗ってと助手席のドアを開けて見せるも、彼女は首を横に振る。


捕まえた手首はそのままで、どうしようか迷っていると従業員入り口の方から甲高い女性たちの声が聞こえて来た。


「あ、見て!唐橋さん!」


「わー彼氏のお迎えだー」


「やっぱり付き合ってる人いたのねー。なーんだ、うちの先輩ショックだろうなぁ」


「あの人前も来てたもんね!ビルの前で立っててかなり目立ってた」


「さすが高嶺の花は捕まえる男のランクが違うわぁ」


見下ろした静乃の表情が揺れるタイミングを見逃さなかった。


「いいから、乗って。これ以上目立つと困るでしょう?」


「あ、でも・・・」


「クレームは後で聞きますから」


まだ揺れる静乃の肩を押して、半ば強引に助手席に押し込める。


鷹司瑠偉のプライベートの愛車の助手席に座りたい女性はごまんといるが、ここまで乗車を拒んだ女性は初めてだ。


静乃はどこまでも新鮮な驚きを与えてくれる。


予測の立てようがない事態は、新しい刺激ばかり与えて来て、少しも休む暇がない。


これまでの経験を全てかなぐり捨てる勢いで体当たりしていると自負している瑠偉にとって、静乃と過ごす時間は奇跡の様に眩く映った。


なんせお膳立てされた出会いばかりを適当に楽しんで来た人生なので、真逆を向いている彼女の心を手探りで手繰り寄せるより他にない。


女性受けの良い温厚な笑顔と容姿をフル活用して真っ向勝負で口説いた途端、数秒で玉砕した時には唖然としたが、用意周到な性格が功を奏して一先ず彼女を繋ぎ止める事には成功した。


適当に顧問弁護士に作らせた訴状は当然偽物で、訴訟なんて起こすつもりはさらさらない。


必要な費用は必要な場所からいくらでも調達出来るので、真面目に働く静乃にたかる必要なんてない。


慰謝料の減額を理由に必死に時間を作って会いに行くのは、そういう理由が無いと会って貰えないからだ。


瑠偉の知る女性は、電話一本で尻尾を振って飛んで来たが、静乃は違う。


探るように瑠偉を見つめるその眼差しには甘さも思慕も欠片も存在しない。


あの眼差しに、よく知る熱を灯したい。


願いはただそれだけだった。


そもそも恋愛のセオリーなんて知らないし、それを必要としない人生だったので、我流で行くよりほかにない。


必要な事は、着実にゴールまでの行程を突き進む事、それだけだ。


彼女が絆されてくれるその日まで。


むうっと唇を尖らせて、それでもシートベルトを締めた静乃を横目に適当に車を走らせる。


いくつか使い分けている車種のうち、一番相性の良い一台を選んで来たが、いつもよりステアリングが馴染んでいるように感じるのは、機嫌が良いせいだろう。


明らかな不機嫌顔の想い人が隣にいても、それは変わらない。


自分の預かり知らぬ場所で不貞腐れられるよりはずっといい。


女性の機嫌を取ることにかけては右に出るものは居ないと永季に言わしめる位の実力がある瑠偉である。


赤信号で停車した隙に、唇を彩るアプリコットオレンジを盗み見た。


あの夜自分の唇に移った色は、上品なピンクベージュだった。


「何を食べに行きましょうか」


「行くって言ってません」


つっけんどんな返事と、命綱のように握りしめられたシートベルトを一瞥して口角が緩む。


むしろシートベルトをしてくれていて好都合だとうっかり口を滑らしそうになった。


「食事以外の場所がご希望ですか?」


この時間から開いていて、予約なしでも融通の利く店は限られている。


駐車場から少し歩かせる事になるが、短い散歩で気分転換して貰おうと目的地を決めて、ウィンカーを出せば。


「ご、ご飯以外は行きませんっ!!!」


真っ赤になって静乃が言い返して来た。


彼女の頭の中で予測変換された食事以外の場所について是非とも詳しく尋ねてみたいところだが、折角ディナーデートに漕ぎつけたのに、ここで機嫌をさらに損ねる必要もない。


「そう。じゃあ、気が変わったら教えて」


含み笑いで答えれば、なぜか胸を押さえた静乃が涙目になって叫んだ。


「鷹司さん黙って!!!」


「酷いなぁ・・・僕とは会話もしたくない?さすがに傷つきますよ」


「喋るならもっと・・・普通に・・・」


「普通・・?出会った時から今までずっとそのつもりですよ」


「嘘ばっかり!だってあの夜から音が・・っ」


「音・・?」


適当に流したFMラジオの事か、それとも他の何かなのか。


訝しんだ瑠偉の隣で、静乃が分かりやすく身を硬くした。


「ちがっ・・・ふ、雰囲気が・・・か、変わったから・・・」


「・・・雰囲気・・・ね」


彼女の言うあの夜は、恐らくこの前の夜を指しているのだろう。


本性を綺麗に紗幕で覆って彼女に好かれる男であろうと尽くして来た瑠偉が、衝動だけで彼女を捕まえに言った夜。


声も空気も変えていないつもりだったが、自分の中で確実に一つのストッパーが外れた自覚があった。


静乃は、他人の感情の機微にかなり敏いタイプなのかもしれない。


会社での評価と、彼女の実生活の落差を見る限り、かなり他者の視線を気にして生きて来た事が伺える。


父親の不貞で家を失い、ひたすらに学業に専念して過ごした学生時代の彼女には、今の彼女の面影は何処にも見当たらなかった。


聖琳女子の花園から飛び出した途端、背負うことになったブランドが彼女を開花させたのだろうが、何とも綱渡りな高嶺の花である。


築30年以上の安アパートで、母親との生活を必死に守って来た彼女にとって、恐らく今の自分の姿は、家族が成立し続けていたら成し得た未来なんだろう。


同年代の女性社員の誰からも僻み妬みを向けられないのは、彼女がそれだけ細やかな気配りを続けて来た証拠でもある。


入社してから今日までそれをずっと続けて来たのだから敏くなるのも頷ける。


が、玄人の瑠偉の微妙な変化にまで気づくとは思わなかった。


自分の何を見て、聞いて、そう感じ取ったのか、ますます興味は尽きそうにない。


ああ、やっぱり彼女に惹かれているのだ。


どれだけ非常識でも、どれだけ非現実的でも。


彼女との記念すべき初対面以降、頭痛に苛まれる回数が各段に減った。


案件と案件の隙間を縫うように襲ってくる痛みに、度々思考を遮られていた日々がまるで嘘のようだ。


どれだけ睡眠時間を削られても、どれだけ超過労働を強いられても、どれだけ面倒な後始末を仰せつかっても、あの夜の彼女の濡れた瞳と唇の感触を思い出せば、やり過ごす事が出来る。


別々の夜を飛び越える事にすら疑問を抱きそうになって、目の前の現実に意識を引っ張り戻す事に苦労する。


それすらも幸せな努力だ。


次々と湧いて来る興味の種は、きっとこの先も枯れることは無い。


それはもう決定事項で、那岐の言った通り運命なのだと思えた。


「静乃さん、洋食は好き?」


「す、好き嫌いはありませんっ!」


引き続き挙動不審な彼女の返事に気を良くして、少し先に見えて来たごく普通の一軒家を瑠偉は指さして見せた。

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