第7話 新婚マイナス83日

開け放たれた窓の外のバルコニーに設置されたガーデンテーブルとチェア。


その向こうに見えるのは日本ではまずお目に掛かれない三角屋根と細長い尖塔、遠くには日差しを受けた丘陵。


12号のキャンバスに切り取られた風景は、恵茉を一瞬で異国へと連れ去ってしまう。


美術館は、恵茉にとってお手軽な旅行気分を味わえる特別な場所だ。


とくに芸術に造詣が深い訳でもなく、好きな画家がいるわけでもない。


けれど、ふらりと足を伸ばした先で、とびきり素敵な絵に出会えると、それだけで得をした気分になる。


情感豊かに丁寧に描かれた景色はコートダジュールの一角のようだ。


行ったことの無い南仏の街並みが次々と浮かんでくる。


平日の午後ー。


広々とした館内をゆっくりと見て回る人々の足取りは穏やかだ。


美術館や博物館を巡るなら、絶対に平日に限る。


列整理に並んだり、人気の絵画を人だかりの隙間から眺めるなんて鑑賞方法は絶対に認めない。


コーディネーターの仕事に就いてから、平日休暇が常になり、月金勤務の友人とは会う機会が減ってしまったけれど、一人で芸術鑑賞をするならやっぱり平日が動きやすい。


のだが。


「・・・ねえ、これってキヨくんの為になってるの・・?」


少し離れた場所から隣の絵画を鑑賞している清匡の隣に並んで、彼の腕を軽く引いて耳元に小声で尋ねる。


仕事用の5センチヒールだったら、もう少し背伸びが必要だったけれど、今日はあくまでデートなので、足元は8センチヒールで固めた。


休日ならば、多少声を張ってもざわめきに紛れるだろうが、シンと静まり返った平日の美術館の館内は、じっくりと絵画を鑑賞したい趣味人たちの貴重な憩いの場なので、邪魔だけはしたくない。


恵茉の一押し女性との紹介デートに踏み切る前に、まずは帰国したばかりの清匡とこの辺りをぐるりと回る疑似デートをしようと決めたわけだが。


「なってるよ。美術館は久しぶりだ。いま恵茉が見ていたのは、南仏、こっちはブルターニュ地方だな・・・自然が綺麗で、バカンスには持って来いだよ。気温も低いし過ごしやすい」


視線を向けた先では、白いドレスを来た女性が、小さな蔓薔薇を手に広々とした草原に佇んでいる。


「日差しが細いね。コートダジュールで暮らす女性のバカンスの行き先はブルターニュ地方なのかな」


印象派の二人の画家の展覧会らしく、隣り合う二枚の絵はそれぞれの作家が描いたもので、画風も描写も異なるけれど、どこか繋がっているようにも感じられて勝手に脳内でストーリーが展開し始める。


風景画ならば、何処の場所か位は確かめるけれど、純粋に絵だけを見て愉しむ恵茉の鑑賞方法は独特だ。


一枚の絵をじっくり眺める事もあれば、その絵と繋がる絵画が見たくて歩き回る事もある。


今日は、この二枚で恵茉の美術鑑賞は完結してしまった。


さっきまで見て来た数枚の絵の記憶が綺麗に抜け落ちていく。


「写実主義よりもロマン主義。でも、恵茉が一番好きな絵は印象派」


「そうなの?」


「うちのホテルに飾ってある絵、よく立ち止まって見てるだろ」


「・・・意識した事ないからよく分かんないよ・・・っていうか、退屈しない?」


美術館デートは、絵画好きでないとあまりお勧めは出来ない。


趣味が合わないとさっぱり楽しめないので、もう少しエンタメ性のあるものを男性登録者には紹介するようにしていた。


「デートの心得はなんだっけ」


ようやく目の前の絵画に満足して、次の絵画の前へ移動しよう踏み出したら、軽く清匡に腕を引かれた。


半歩程彼に近づいたところで、恵茉の隣に壮年の男性客が並んで来た。


絨毯張りの床で足音は全くしなかったのに、背後から近づいて来る人の気配をしっかりと察知していた彼に驚く。


「ごめんなさい・・・ありがと・・・」


常に周りに目配り気配りする事を生業として10年程過ごすと、こういう人間が出来上がる訳だ。


「思いやりと?」


「・・・楽しむ心」


「そこに退屈は入ってないな」


目を細めて笑った清匡の言葉が、本心であれリップサービスであれ100点満点の回答だ。


男性登録者の中には、女性との会話が苦手という人も少なくないが、彼に関してはその辺りの心配は最初から皆無だった。


巧弥と並ぶとどうしても印象が薄れがちで、自らもそれを望んでいるせいか、喜んで最後尾に回る癖のある清匡だが、こうして改めて向き合ってみると、それはもう文句なしに。


「どうしよう・・・キヨくんかっこいいよ」


「・・・そこは困るところなの。幼馴染として胸を張りなさいよ」


「・・・あ、うん。えっと、はい」


それもそうだと頷くものの、なんだかしっくりこない。


育ちの良さはお墨付きで、知性もあって女性が一番気にする清潔感も完璧。


所作や仕草は洗練されていて、何処を切り取ってもそつのない男である。


これまで恵茉が見て来た巧弥の弟である清匡は、確かに彼で間違い無い筈なのに。


こんがらがって来た思考にむうっと眉根を寄せる。


「ごめん。邪魔するつもりは無かったから」


恵茉の顔を見てすぐに異変に気付いた彼が、ぽんと気分を切り替えるように優しく背中を叩いてくれた。


他人にしては気易すぎる、デートとしては近すぎる、幼馴染の普通の距離。


このまま突き詰めて行けば、自分はとんでもない墓穴を掘る気がする。


駄目だと防衛本能が働いて、恵茉はゆっくりと息を吐いた。


絵画に向き直った恵茉から、僅かに距離を取って清匡が別の絵に視線を向ける。


きちんと恵茉が視界に入る場所を選んでくれるところが彼らしい。


巧弥との美術館巡りも勿論楽しいが、お互い鑑賞方法が全く違うし、急に創作スイッチが入るとあっという間に自分の世界に入り込んでしまうので、放置される事もしばしばある。


恵茉は恵茉で楽しく絵画鑑賞を終えて、お茶を飲みながら巧弥の復帰を待つのだが、その間のフォローはいつも清匡の役目だった。


思えばあの頃からいつも自分以外の誰かのことばかり気にかけて生きていたのだ、彼は。


だから、ホテルマンは、ある意味清匡にとっては天職かもしれない。


場面はがらりと変わって、花束を抱えた花嫁が、石畳の階段を降りて来る絵が飛び込んできた。


風に揺れる長いトレーンとヴェールは幸福の象徴だ。


コートダジュールで運命の出会いを果たした彼女が、伝統的なチャペルで挙式を上げるところまで思い描いて、心の中でfinマークを付ける。


大満足してガラガラの館内をぐるりと見回すと、恵茉に気づいた清匡が眉を下げて近づいて来た。


「そろそろ休憩しよう。恵茉の足が悲鳴を上げそうだ」


「・・・ほんとだ」


普段より3センチ高いヒールは、爪先に結構な負担を掛けていた。


絵画鑑賞に夢中になっている間は全く痛みを感じなかったけれど、改めて指摘されると確かに小指がじくじく痛む。


腕時計で時間を確認した清匡が、ごく自然に恵茉の手を取って自分の腕に絡めた。


反射的にジャケットの袖を掴んでしまう。


「歩くのも辛い?もう少し早く声を掛けたら良かったな」


「ううん。全然平気。キヨくんが居てくれるだけでずっと歩きやすいよ」


両足で踏ん張る事には慣れていたけれど、こうして誰かの支えがあると随分と歩きやすくなるものだ。


絨毯の足元は、消音効果は抜群だけれど、ピンヒールには少々心許ない。


「転ばないように」


「それはキヨくんの役目でしょ」


巧弥相手には絶対言えない台詞を平然と口にする。


「・・・確かに」


僅かに視線を下ろして、恵茉を一瞥した清匡が口元を緩めた。


「より慎重にエスコートしないと、後が怖いな」


「美術館の二階にカフェがあるよ?私は一人の時しょっちゅう利用してる」


有名コーヒーチェーンは、一人でも入りやすいし、長居もしやすい。


休日の午後は、あっという間に満席になるが、平日の中途半端な時間は、プライベートをのんびり楽しむ大人が殆どで、誰も他人を気にしない。


その適度な距離感が心地よかった。


「コーヒーもいいけど、折角フランスを満喫したんだから、クレープを食べに行こうか」


「・・・なんでクレープ・・・?」


女子高生がいつも並んでいる目抜き通りのポップなクレープショップが脳裏に浮かんで、フランスとどう組み合わせようとしても上手くいかない。


「今日は食べ歩きデートじゃないだろ?その足でこれ以上歩かせないよ。ブルターニュクレープのほう。食べたくない?」


「あ!食べたい!!」


ブルターニュ地方のご当地グルメといえば、クレープだ。


ぱっと表情を明るくした恵茉に、清匡が鷹揚に微笑む。


「ティータイムにはちょっと遅くなるけど、ついでにドライブも楽しんで」


「完璧なデートプランだよ、キヨくん!」


「お褒めに預かり光栄です、と言っておこうか。恵茉の採点は辛口だからな。兄貴仕込みの審美眼は油断できない」


幼い頃から身近に最強且つ最高の王子様が居たので、御伽噺への憧れをどれだけ募らせても裏切られることの無かった恵茉の、異性に対するハードルは滅茶苦茶高い。


そもそもの基準が巧弥から始まっているので、大抵の男性陣はふるいにかけられて落下していく。


「・・・キヨくんがモテないわけがないよね・・・なんか、もう私必要なくない?」


この二年で一層進んだ駅付近の再開発地区を一通り案内して、最近の女性人気が高いショップをいくつか回って、と考えていたデートプランは一切必要なかったようだ。


清匡は昼夜を問わず観光客がやって来るホテルを切り盛りしている経営陣に名を連ねているのだ。


話題性のある観光スポットや、新しい施設には誰より詳しいに違いない。


勝手に気負って、あれこれ計画を立てて必死に清匡の出会いを盛り上げようとしていた自分が完全に空回りをしていた事にようやく気付いた。


その上今日のデートに至っては、助手席に乗った瞬間から清匡の予定に沿って移動している。


これではコーディネーターとの疑似デートではなくて、完全なただのデートだ。


隣接する駐車場に向かいながら、不貞腐れた声を上げれば。


「今一番必要なのは恵茉だよ」


「・・・ここでそんなフォロー要らないよ」


デートスポットをブックマークしまくったスマホを握りしめて地団駄を踏んでしまいそうだ。


この二年で随分しっかりして来たと叔母からも太鼓判を押して貰っていたのに。


立派な社会人もどきにはなれた筈が、どうしてか清匡の前に立つとすぐに幼い自分が顔を出す。


何かアクシデントが起こっても、焦らず笑顔で、なんてアドバイスを偉そうに口にしていたのは他ならぬ恵茉自身なのに。


「デートは一人じゃできないだろ?ほら、乗って」


ご丁寧に助手席のドアを開けてくれた清匡が、宥めるように髪を撫でた。


するんと毛先を指で掬って、大人しく助手席に収まった恵茉を見下ろす。


あっさり受け入れそうになって、急に”デート”の単語が頭を過った。


二人の距離感はさておき、これが通常モードだとしたら、末恐ろしいことになる。


「しょ、初回のデートでこんなことしないでよ!?勘違いされちゃうよ!!」


「・・・それはどの立場で言ってるんだ?」


助手席のドアを閉めかけた清匡が、苦笑いを零した。


「知らない!!」


何も考えずに思った事をそのまま口に出したのは、随分と久しぶりの事だった。

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