第5話 新婚マイナス100日
「キヨくん生きてる!?」
勢いよく執務室のドアを押し開けて中に飛び込むと、恵茉は真っ先に応接セットに腰かける幼馴染の姿を確かめた。
ドアを閉める事も忘れて、しばしその姿を目に焼き付ける。
足は二本、手も二本、頭もちゃんとある!
この部屋に恵茉が入り浸っていた頃は、自分の定位置だったその場所に悠然と腰を下ろしてこちらを見上げる清匡の表情は、想像よりもずっと穏やかで柔らかい。
いつも彼が纏っていた薄膜のような空気が綺麗に剥がれて無くなっている。
ホテルマンになってから、一層他者に気を向ける事を義務付けて来た彼は、いつだって素の自分自身を遠くへ追いやって来たのに。
落石現場で閉じ込められて九死に一生を得ると、人生観が一変するのだろうか。
「良かったああ!生きてた!!!」
滑り込むように三人掛けのソファの端に腰を下ろして、清匡ににじり寄る。
確かにちゃんと生きている動いている彼を見ると、またじわりと泣きそうになった。
「ちゃんと電話でも話しただろ。ただいま」
「おおかえりいいい!!そうだけど!そうだけどさ、やっぱりちゃんと顔見ないと安心なんて出来ないよ!怪我は?左腕だっけ?縫ったんでしょう?抜糸は済んだの?他はどこも怪我してないんだよね!?痛い所ない!?後遺症は!?」
矢継ぎ早に投げた質問に、清匡がふわりと目元を和ませる。
「兄貴からは、ちょっと会わないうちに随分大人びたって聞いてたんだけどな」
聞き間違いだなと低く笑った清匡が、左腕を軽く押さえる。
「大事な幼馴染が死にかけたのに大人しくなんてしてられないでしょ!?腕、やっぱり痛いの!?やっぱりこっちのお医者さんにちゃんと見て貰った方が・・・」
「帰国してちゃんと見て貰ったし、後遺症もないよ。他に怪我もしてない」
「もう海外なんて行ったら駄目だよ!ずっとキヨくんは日本に居てよ!次にどうしても海外に行くなら私もついて行くから!」
そうすれば彼はより一層慎重になって、危険には巻き込まれない筈だ。
責任感の強い清匡は、自分以外の人間が一緒にいるといつだってそうするから。
それがちょっと危なっかしい年下の幼馴染なら尚の事だろう。
これでもかなり自立したつもりだし、もう不用意な心配は掛けないつもりだけれど、彼が無茶をしない為ならどれだけだって重荷の振りをして見せる。
それ位の関係性は、まだ続いているはずだ。
「・・・それ、言おうと思ってたんだけどな。そう。恵茉がその気なら話が早いよ」
「え、まさかもう次の海外勤務が決まってるの!?いくら何でも急すぎるでしょ!おじさんもキヨくんを酷使しすぎだよ、私からおじさんに文句言って・・・」
どれだけ息子が頼りになるのかは知らないが、奇跡の生還を果たした息子をまた僻地に追いやるのは絶対に許せない。
断固拒否してみせると勇んで立ち上がった恵茉の手を軽く引いて、清匡がもう一度ソファに腰を下ろさせた。
「恵茉、いくら経営が順調でもそうポンポン海外進出は出来ないから」
「え・・じゃあ」
「当分日本に居るよ」
「よ、良かった・・・・それ、嘘じゃないよね!?また急に来週から海外だからとか言ったらほんとに怒るからね!?キヨくんは私を軽く見すぎだよ」
「軽くなんて見てない。もう当たり前みたいに俺とセットで考えてたよ」
「だったらちゃんと色んな事相談してよ!私は頼りにならないかもしれないけど、話聞くくらい出来るし、キヨくんが何考えてるかちゃんと知りたいよ!じゃないと、力になれないでしょ。いや、キヨくんが私の力を借りることなんて無いかもしれないけど、それでも」
「これからは、恵茉の力が必要だよ」
幼馴染歴二桁で、初めて耳にした台詞だ。
額に入れて飾っておきたい位、誇らしい台詞だった。
感動と驚きで胸がいっぱいになる。
「うん!全力で力になるよ!」
何を置いても真っ先に彼の為になる事をしてあげようと心に決める。
と、清匡がさっきから繋ぎっぱなしの手を一度解いてから握り直して来た。
恵茉の存在を確かめるように反対の手も重ねて、掌を閉じ込められる。
「俺もまさか自分が死ぬ目に遭うと思わなかったからさ。これまで、この先のことなんてろくに考えて来なかったんだけど・・・やり残したことが沢山ある事に気づいたんだ。これまでは、加賀美と、そこで働く従業員の生活を守る事だけ考えて来たし、それが俺の使命で一番大きな役割だと思ってきた。実際そこに疑問なんて無かったし、満足もしてたよ。努力に見合った結果はきちんと付いて来るし、スタッフも良くやってくれてる。これ以上望むものは無いって思ってきた。だけど、俺の周りの人間は、それ以外にも沢山のものを自力で掴んで、大事なものを増やして行ってたんだ。兄貴なんて夢を叶えて、その上一番好きな相手と一緒に居るだろ?」
「うん、そうだね。巧弥くんほど有言実行の人を知らないよ」
「普通に誰かと家庭を持って、新しい家族を作って、自分の居場所を守っていくって事が、いまいちピンと来てなかったんだ。加賀美を任された俺には過ぎた望みだとも思ったし」
「そんな事ないよ!うちの相談所に来る人たちは、仕事もプライベートも充実させたいし、それでさらに人生を良くしたいってみんな言ってるよ」
「うん。だから、俺も高望みしてみる事にした」
「・・・キヨくん!やっと自分の幸せに目を向ける気になったんだね!二年前の失恋の傷はもう癒えたって事でしょ!?」
彼が、送られてきた結婚報告のハガキをまぶしそうに眺めていた事は今も覚えている。
巧弥から後で聞いた話によれば、自分の代打で受けて貰ったお見合いの相手を、結構本気で気に入っていたらしい。
最終的には憎まれ役を買って出て、彼女が幸せになるように仕向けたというのだから、何とも気の毒な話だ。
彼の過去の恋人とは何度か会った事があったけれど、どれも清匡の隣に並ぶに相応しい、上品で気配りが出来る女性ばかりだった。
二人が並んでいる姿はまるで一枚絵のように出来すぎていて、どこか作り物のような印象を覚えたものだ。
けれど、ハガキに写っていた花嫁は、歴代の恋人とは明らかに異なっていたので、きっと彼女のことは、自発的に好きになったんだろうな、と思っていた。
だからそれなりに引きずるだろうとも思ったし、実のところ、海外勤務もそのせいでは、なんて考えていたのだ。
「それは、もう忘れてくれていいよ」
苦笑いを浮かべた清匡の照れたような表情に、恵茉は確信を持って頷いた。
「この先の俺の幸せには、恵茉が絶対必要不可欠なんだ」
「うん!分かった!私のコーディネーター人生全てを賭けてキヨくんを幸せにしてみせるよ!」
身を乗り出して、自分の手を清匡の掌に重ねる。
「恵茉には多くの事は望んでないし、望むつもりもないよ」
「そんな事言わないでよ!私だって随分成長したんだから、もうキヨくんに心配ばっかりかける私じゃないよ」
「これからも心配はするよ。離れてる間も気にかけてたし。兄貴にも訊いただろ?」
「うん、それ聞いた。恵茉は?がキヨくんの口癖になってるって」
「でも、これからは直接恵茉に訊けるな」
嬉しそうに目を細めた清匡が、これで安心できると頷く。
「私の事より、まずはキヨくんの事を訊かせてよ。じゃなきゃ力になれないよ。私が知ってるキヨくんって、幼馴染のキヨくんと、ザ・ホテルマンのキヨくんだけなんだもん。これまでどんな人とお付き合いして来たの?見た目は私の記憶してる限り、育ちの良さそうなお嬢様系の美人ばっかりだったけど・・・あ、全体的に控え目な印象の人が多かったよね?」
「俺の過去の恋愛が気になる?嬉しいな」
「だって参考に出来ないでしょ?派手なタイプが好きじゃないのは知ってるよ」
「顔で選んで来たわけじゃない。好きになってくれた相手に応えてたら同じようなタイプと付き合うことになっただけだ。この十数年変わらず側にいたのは恵茉だけだよ」
「私じゃ参考になんないよ」
「・・・どうして?俺の素の部分を知ってるのは、兄貴と恵茉位だよ。俺の扱い方を知ってるのもね」
「でも派手な人より控え目な人の方が好きでしょう?」
「・・・まあしいて言えば、場の空気に馴染める人が好きだよ。俺はこの先表立った場所に行くことも多くなるから。ああ、でも、恵茉に無理強いはしないから、心配しなくていいよ。俺に合わせて何かを変えて貰うつもりなんて無いし、むしろ変に変わってくれない方が良い」
「その気持ちは嬉しいよ。私も、今更急に畏まるなんて無理だし。キヨくんのことは大事にしたいよ」
「それ、何より俺が一番思ってる事だよ」
ホッとしたように頷いて、清匡が改まったように口を開く。
「じゃあ、これから先の相談をさせて欲しい」
「うん。分かった。私も色々準備したいから、また改めてきちんと話をさせてくれる?」
「・・・分かったよ。でも、俺の気持ちは変わらない」
「ちゃんと分かってるよ。その気持ちに応えてみせる」
幼馴染の将来の為に、ベストパートナーを用意しなくてはならない。
コーディネーターになってから初めての大仕事だ。
彼が自分に向ける絶大な信頼を裏切るわけにはいかない。
清匡はすでに具体的な将来設計のプランがあるようだった。
初めて自分が彼の役に立てる事実が嬉しくて堪らない。
彼と年齢の釣り合う登録者の情報を引っ張り出しながら、居ても立っても居られず立ち上がる。
「じゃあ、用意出来たらまた連絡するね!」
「え、久しぶりに会ったのにもう帰るのか?」
「だってこれからやる事山積みだよ!?人生初の大仕事だもん!」
拳を握る恵茉に、清匡が珍しく目元を赤くして微笑む。
「次に会う時は、ちゃんと改めて仕切り直すから。今日のはリハーサルだと思って欲しい」
「うん。意志の摺合せは大事だから、きちんとやって行こうね、先々の為にも!」
とにかく好みのタイプと結婚がしたいんです!と漠然とした相談を持ち込む登録者は少なからずいる。
丁寧なヒアリングと意思確認は、必要不可欠だ。
来た時よりも数倍軽やかな足取りで執務室を出ると、久しぶりに会った執務フロアの秘書が涙目で、応援してます!と励ましの言葉をくれた。
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