第4話 新婚マイナス119日
今思えば、振られた、と自覚したのは初めてだった。
それは、横っ面を引っ叩かれた時と同じ位の衝撃を与えた。
その未来は、全く想定していなかった。
有村和花との敗北前提のお見合いで、やるせない気持ちになったのは、恵茉とどこか似ている彼女をいつかはこうして別の男の手に委ねなくてはならないのだと気づいたから。
最初の出会いから、有村和花が自分を見ていなかったように、清匡も、また有村和花の事を見ていなかったのだ。
お互い重ねるように此処に居ない人物のことをいつも思い描いていた。
恵茉がホテルに寄りつくようになったのは、清匡が本格的に経営陣の仲間入りをするべく勉強を始めてから。
安全圏でない場所に身近な人間をほいほい招き入れる程愚かでは無いので、敵味方の区別がはっきりして、大丈夫だと確信を持った後で彼女を呼んだ。
執務フロアのスタッフは、父親の代から長く勤めている古参の者ばかりで、恵茉の存在についても正しく認知している。
時折父親の暇つぶしに誘われて役員フロアで昼食を摂る事もあるようだったが、基本的には、執務フロアの、それも清匡の部屋にしか居着かない。
ホテル内を我が物顔で歩き回る事も無ければ、清匡前以外で我儘を口にした事も無い。
あくまでフロアにお邪魔している友人という顔で低姿勢を貫く彼女の態度は何年経っても変わる事が無かった。
二人の間に何かを期待していた一部のスタッフも代わり映えのしない間柄にすっかり慣れて、恵茉が来れば喜んでティーサロンから紅茶とお菓子を運んでくる。
清匡にとって数少ない気易い存在である彼女は、やっぱり執務フロアの人間にとっても貴重な存在だったのだ。
海外勤務の打診というよりは命令が下った時には、一も二もなく頷いた。
アジア進出は祖父の代からの目標で、当初から現地法人との良好な関係を築いていた為、提携事業に然程軋轢は生じなかった。
それでも現地スタッフと部下だけを行かせるわけにはいかない、という父親の考えは尤もで、事業が大船に乗るまでは、事業部長の補佐として清匡が現地に逗留することになった。
日本を離れる事に未練も迷いも無いが、唯一の気掛かりは恵茉の事だった。
それなりに仕事に慣れてきたとはいえ、しょっちゅう部屋に顔を出す彼女の第二の居場所だけは是が非でも保持してやらなくてはならない。
自分が不在の間も、不自由させないように指示を出して、ティーサロンの角席は混雑時以外は終日予約済みにしておくように頼んだ。
彼女がいつ気まぐれを起こしても良いように。
執務フロアの秘書には、恵茉に関しては引き続き出入り不問するように依頼して、翌月以降の彼女の日常が滞りなく続いていくイメージが抱けたところで、異動の件を伝える事にした。
たかが一年、長くて二年の海外勤務だ。
その間も日本に戻る事はあるだろうし、時差も大差ない。
恵茉が嘆くような事態にはならないし、何より日本には巧弥がいる。
まあ大丈夫だろうと算段を踏んでいたのに。
蓋を開けてみれば恵茉は泣いて怒って盛大に拗ねた。
それならいっそ連れて行った方が手っ取り早いし、こちらとしても余計な心配をせずに済む。
幸い勤務先はリゾート地区のど真ん中で、女性同伴でも何ら不安は無い。
離島巡りと、観光地巡りで十分楽しめるだろうし、夜にはホテルに戻るので終日放置する事も無い。
いつだって帰国出来るし、気が済むまで側に居てくれればいい。
恵茉を置いていく算段を付けるよりも、連れて行く算段を先に着けるべきだったなと思い直しながら口にした提案は、木端微塵に蹴散らされた。
付いて来ると信じて疑わなかった。
確かに手の中に居たはずの存在が、するりと腕の外に逃げ出したと実感した時には、恵茉はもうこちらに背中を向けた後だった。
『お前は盛大にやり方を間違えたな』
珍しく苦い顔で言い切った巧弥の言葉に、ぐうの音も出なかった。
掴み損ねた指先が、実はとんでもなく大切だったのだと思い知った。
それでも見送れたのは、最初から彼女の目に自分が映っていなかったせいだ。
恵茉は最初から巧弥だけをその眼に映して、巧弥と巧弥以外で世界を綺麗に選り分けた。
だから、自分は望む事すらしなかったのだ。
それなりに惹かれていた筈の有村和花の結婚よりも、恵茉を手放した事実の方が胸に刺さっているのだと気づいた時には、既に国を出た後だった。
父親は暫く日本と候補地を行き来して、経営者としての責務を果たした後、頼もしい息子に後を巻かせて意気揚々と帰国していった。
幼馴染としての正しい距離感を測りあぐねたまま、生まれた距離に阻まれた交流は、必然のように次第に少なくなった。
比例して仕事が忙しくなったせいもある。
日本でやり残して来た仕事の引継ぎと、現地法人との会議、月の半分は移動で潰れて、戻ってからは打ち合わせと報告に追われる。
最初の数週間は続いていた短い電話のやり取りも、恵茉の仕事が増えた事で頓挫して、そこからはメッセージのやり取りが主流になった。
てっきり最初の数週間で、いつ戻って来るの?と帰国予定を尋ねて来ると思っていた彼女は、一度もその問いかけを口にせず、日々増えた仕事にやりがいを見出して夢中になっていた。
素直で人好きのする性格が功を奏して、登録者からは叔母同様に頼りにされているらしいと巧弥から聞かされるたびに、自分のよく知る恵茉とはまるで別の誰かの事を聞かされているように思った。
確実に手元にあったものが、少しずつ遠ざかっていく実感が増えるにつれて、連絡を躊躇うようになって、そのうち元気?という当たり障りのない一文だけのやり取りだけが残った。
住む場所も、仕事も、生活リズムも違えば、他人との交流なんてそんなものだ。
まめまめしく更新される友英時代の友人で作ったのグループトークでは、二組の夫婦が日々の日常を写真と一文で共有してくる。
変わらない彼らとのやり取りの合間に、どこまでも自分と恵茉の関係は異質だったのだと思い知らされて、やるせなくなった。
けれど、開いた距離を飛行機のように行き来する術なんてどこにもなく。
結局は回って来る現実を捌く事で、気持ちも一緒に摩耗していくよりほかにない。
彼女の日常が、一片の陰りも曇りもなく続いていく事を、ただひたすらに願いながら。
ようやく帰国の目途がついて、数か月先のスケジュールが読めて来た矢先、その事故は起こった。
数週間前から続いた長雨の影響で、建設スケジュールの見直しを余儀なくされて、現地に向かった数時間後、悲鳴と怒号の中で鈍い痛みに襲われながら、少しずつ薄れて行く意識の端で、真っ先に恵茉の事を思った。
学生時代から知る友人たちが、当たり前のように築いた自分だけの家族。
一度も実感が湧かないまま、暗闇に囚われて、全てを失くす覚悟をした時、襲って来たのは抗いようのない後悔。
見送るべきでは無かった。
手を伸ばすべきだったのだ。
もっと早く、確実に。
あれほど周到に根回しをして、海外進出にまで漕ぎつけた癖に、肝心のプライベートはいつもいつも後手に回る。
どうして悠長に構えていられたのか。
あの子が居なくならない確証なんて、本当はどこにも無かったのに。
最初に、就職先として自社を提案した時、分かりやすく拒まれた時点で、気づくべきだったのだ。
何もかも思い通りになんて、絶対にならないのだと。
当たり前のように自分の庇護下に置いておけると思っていた恵茉は、安全圏を自らの意志で飛び出した。
そして、自分の足でちゃんと居場所を作ってしまった。
そしてそこに、清匡の居場所は無い。
それでも、恵茉が清匡の側を拠り所にしてくれたのは、ただ居心地が良かったからだ。
立派な社会人でも、大好きな王子様のお姫様でもなく、ただ普通の女の子で居られる場所が必要だったからだ。
けれど、清匡はその手を放してしまった。
だから、恵茉は自分の足で立って、自分を守る方法を覚えた。
よすがにする何かは、きっと彼女にはもう必要ないんだろう。
それでも諦めきれない。
帰国したあの部屋に、彼女の存在がない事がもう耐えられない。
空っぽのままの予約席も、出す相手の居ないティーセットも、白紙に戻したくはない。
手放せない。
あの子の居ない人生を、これ以上重ねて行きたくはない。
ない交ぜになって押し寄せる未練と後悔が、痛みを遠くへ追いやって、同時に意識も遠ざけて行く。
万一のことがあったらきっと恵茉は泣くだろう。
そして、そんな恵茉を巧弥は必死に慰めるんだろう。
それは他ならぬ自分の役目なのに。
ああ、やっぱり駄目だ。
絶対に死ねない。
こんな場所で死ぬわけにはいかない。
縋るように指先に力を込めたら、暗闇の中で一筋の光が見えた。
恋と希望は繋がっているのだと、漠然と思い知らされた。
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