第3話 新婚マイナス120日
宣言通り、出発の日も恵茉は空港に見送りには行かなかった。
というか、面倒な見送りを拒んだ清匡が一人スタッフよりも早い飛行機で現地入りしてしまったため、見送りが出来なかった。
どれだけ腹立たしくても、恵茉にとっては大切な幼馴染である。
到着したら連絡して、と送ったメッセージの返信には、珍しく綺麗な海の写真が添付されていた。
彼なりの気遣いだったのだろう。
当初一年の予定だった海外勤務は、建設予定地の候補決定で揉めて一年半に伸びた。
その間に、約束通り巧弥と南と恵茉は、休暇を利用して現地に遊びに行って幼馴染たちと穏やかな時間を過ごした。
久しぶりに再会した清匡は相変わらずで、巧弥、清匡、南の三人が揃うと、立派な社会人のはずの恵茉は、まるで未成年者のような扱いになる。
実際、巧弥と清匡が側に居ると海外だろうがお構いなしで気を抜いてしまいがちで、そこに妹を溺愛している長女気質の南が加われば、さらに過保護に拍車が掛かった。
あれほど顔を合わせていたホテルでの時間が無くなってしまうと、一気に恵茉は手持ち無沙汰になって、一人で執務フロアに上がる事は無くなった。
巧弥が気にかけて、ティーサロンに誘い出す以外は、プライベートでホテルに寄りつく事も無くなっていった。
一時間の時差は、確かにあってないようなものだったけれど、実際に執務フロアを覗いて仕事の状況を目で確かめていた時とは何もかもが違う。
何度か電話を鳴らして、折り返しの電話を待てずに眠ってしまう事もしょっちゅうで、そのうち数週間に一度の、元気にしてる?という短いメッセージのやり取りだけが残った。
結婚相談所の登録者数が増えるにつれて、二人体制が厳しくなり、パートの事務スタッフを雇って三人体勢になる頃には、すっかり恵茉も、コーディネーターの仕事が板についていた。
一人で依頼人との面談にも出向くし、デートスポットの下見にも慣れた。
待ち合わせ場所として使えそうな乗り継ぎ駅付近の地図は完璧に頭に叩き込んだし、真新しいカフェや、人気のショップ情報にも詳しくなった。
清匡と距離が出来て気づいた事は、思いのほか彼を頼りにして生きていたのだということ。
巧弥に憧れて、背伸びをして転んだ恵茉の怪我の手当てをするのはいつも清匡の役目で、いつからか、彼は恵茉が転ばないように先に道端の小石を取り除くようになった。
そういう関係性に甘えてしまっていたから、清匡は、平気で自分が呼べば恵茉はどこへでも付いて来るなんて勘違いをしてしまうのだ。
それは大きな間違いだし、その間違いを正すことなく続けていたら、いつか大きなしっぺ返しがやって来る。
次に、清匡が誰かに惹かれた時に、今度こそ幸せになれるように、恵茉はちゃんと自立した大人にならなくてはいけない。
彼が、自分の人生を決める時に、これまで恵茉がそうしてきたように真っ先に相談できる相手になりたいと思った。
今回みたいに、全ての準備を終えた後で、事実だけを告げられることが無いように。
***
「大丈夫ですよ!前回のデートでも好印象のご報告を受けてますから、レストランフロアの飲茶は種類も豊富なんで、ぜひシェアしてお互いの好みを確かめてみてくださいね。後、こちらが佐々木様のお好きなミュージカル俳優の出演作品のリストです。会話のきっかけになるかと。次のデートは芸術劇場のメリーポピンズがお勧めですよ。一度話題を振ってみてくださいね」
差し出したパンフレットを命綱のように握りしめて、男性登録者が頷いた。
昨年登録して以来、ニ度のお見合いが不成立に終わっており、今回初めて全く違うタイプの女性を紹介したところだった。
映画鑑賞が趣味の男性に対して、女性の趣味は観劇。
芸術鑑賞という括りではそれなりに話が合ったようで、めでたく二度目のデートと相成った。
女性登録者からのデートの感想はそこそこ好印象だったので、今日のデートでもう少し距離を縮めてお互いの共通点を増やして欲しい所だ。
「わざわざ此処まで来ていただいてすみません・・・」
「いえ、とんでもないです!私も、町田様にはぜひ幸せになって頂きたいので。佐々木様は、町田様の優しい相槌がとくに好印象だったようなので、無理に沢山話す必要はありません。しっかり相手の話を聞いて、丁寧に頷いて差し上げてください。受け止めて貰えた、と印象付ける事が大切です」
「分かりました!」
生真面目に返事をして、温くなったコーヒーを飲み干した彼が席を立つ。
此処から先は彼一人の戦場になる。
待ち合わせ場所の駅前に向かう登録者を見送って、ショッピングモールを一巡りしてから仕事場に戻ろうかと思った矢先、大型ビジョンのアニメーションが急に切り替わった。
速報の文字と共に、ニュースが流れ始める。
どこかで事故でも起こったのだろうか。
他人事のように思っていたら、通り過ぎざま聞こえて来た声に、歩みを止める羽目になった。
「マレーシアで落石事故だってー!」
「えー・・こわ・・・現地スタッフ行方不明って・・・」
「日本人も含まれてるよ。気の毒に」
慌てて大型ビジョンに向き直る。
通行人たちの会話の通り、リゾート地区の建設途中のホテルで落石事故があり、現地法人の日本人スタッフと連絡が取れていないと表示されていた。
リゾート地区の単語に、ぞくりと背筋が震えた。
最近はアジアリゾートが人気で、次々と日本法人が海外進出を果たしている。
日本企業は沢山あるし、清匡が関わっているホテルとは限らない。
違う違う、と言い聞かせるのに、胃の奥から込み上げて来る重たくて不快な不安がどうしても拭えない。
巧弥に念の為確認をしようかとスマホを取り出すと、すぐに液晶画面が着信表示に切り替わった。
通話をタップする指先が震える。
「も、もしもし・・・?」
『恵茉?ニュース速報見た?』
いつも穏やかな巧弥の声が、強張っている。
あれほど違うと言い聞かせたのに。
残酷な運命に眩暈がした。
「ち、違うよね、巧弥くん?キヨくんじゃないよね・・?」
『さっきから、電話が繋がらないんだ。父さんと俺は一番早い飛行機で現地まで飛ぶから・・・・訊いてる?恵茉』
足元から這い上がって来る真っ黒な不安を、押し留める事が出来ない。
喘ぐように口を開けば、震える声しか響かない。
「え・・・だって・・・違うでしょ」
『大丈夫だよ。ちゃんと確かめて来るから、いまどこ?一人で平気?』
「巧弥くん・・・すぐ連絡して、何時でもいいから、待ってるから・・・ちゃんと、キヨくんから連絡して貰って」
8か月前に休暇で出会った彼は、ホテル建設が決まったばかりで一番多忙な時期だった。
観光は巧弥たち三人で回って、夕食の席に駆け込んできた清匡と過ごせたのは僅か数時間。
こちらの様子を報告するだけになってしまった食事会で交わした言葉はろくに思い出せない。
恵茉は仕事を頑張っていると巧弥が誇らしげに伝えてくれて、嬉しそうに目を細めた彼が偉いな、と褒めてくれた。
見直したでしょと胸を張った記憶はあるのに、その後の会話は何一つ出てこない。
酔っていたせいだ。
こんな事なら、もっと色んな話をすればよかった。
いつ帰って来るのか、次の休暇はいつなのか、また遊びに行ってもいいのか。
何一つ聞けないまま離れてしまった事が、今更ながら悔やまれた。
立っていられずにその場にしゃがみ込む。
『恵茉、まだ何も決まったわけじゃないから、いいね?落ち着いて』
「わ・・・かった」
『不安なら迎えに行くよ』
「いい、平気。会社に戻る。叔母さんにも言わなくちゃ」
恵茉の声の震えが収まらない事に気づいた巧弥の提案に、慌てて首を振る。
いまから空港へ向かう彼に、余計な負担は掛けられない。
本音を言えば何もかも投げ出して飛んで行きたかったが、確実に足手纏いにしかならない事も重々承知していた。
『南からも連絡をして貰うようにするから。一人で我慢しなくていいんだよ』
「こんな時くらい、私じゃなくてキヨくんの心配してあげてよ、巧弥くん」
『清匡は必ず最初に恵茉の様子を尋ねるから。もう癖みたいなもんだよ』
じゃあ、また連絡するよ、と通話が切れる。
これまで一度だって、二人の関係が逆転したことは無かった。
泣くのも、不貞腐れるのも、悩むのも、いつだって恵茉の役目で、それを励まして、心配して時に嗜めるのが清匡の役目だった。
いつもこんな胸が潰れそうな思いを彼にさせていたのだろうか。
指先に上手く力が入らない。
必死に膝に手を突いて立ち上がると、通行人の親子が声を掛けてくれた。
「どうされました・・?貧血ですか?」
「お姉ちゃん、大丈夫?」
そっと手に触れて来た小さな指に、いつかの清匡を思い出す。
追い付けないって分かっているのにどうして走るのかと嗜めるような表情でこちらを見下ろして、けれど彼はちゃんと手を差し伸べて、尋ねてくれた。
『大丈夫?』
ぶわりと浮かんだ涙を必死に堪える。
この涙は清匡から連絡が来た時まで取っておかなくてはならない。
彼の前で泣いて不貞腐れるのは恵茉にだけ許された特権なのだから。
それは誰にも譲れない。
これから先も、一生譲れないのだ。
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