第2話 新婚マイナス630日
「え!?マカロン島!?」
ホイップをたっぷり救ったシフォンケーキをめいっぱい口に頬張りながら、告げられた聞き慣れない美味しそうな島の名前を復唱する。
ティーサロンの定番シフォンケーキはやっぱり頬が落ちる位今日も美味しい。
このホテルに顔を出す度に、欠かさず食べるようにしているそれは、どんな素敵な月替わりのケーキがあっても絶対に目移りしたくない、特別なメニューだった。
ふわふわの生地が口の中でホイップを纏ってゆるやかに踊り舞う。
ほわんと頬を押さえて最後の余韻まで味わい尽くす恵茉の表情を眉を下げて楽しそうに眺めながら、巧弥が眼鏡の奥で目を細めた。
馴染みの従業員に会うと面倒だから、と掛けている黒縁メガネ越しに見ても、切れ長の涼やかな目元の魅力は隠し切れない。
お姫様とデートだからね、と気取ってポーズを取って見せたカジュアルジャケット姿は、写真に撮って保存しておきたい位かっこいい。
彼の細君は物凄く心が広いので、写した写真を欲しがるだけで、怒ったりは絶対にしないのだ。
「マカロンは恵茉の好物だろ。マヌカン島。東南アジアにある島だよ」
「え、で、なに、そこにキヨくんが行くの!?何にも聞いてないんだけど!?」
「俺も。父親経由で昨日聞いたんだよ。やっぱり恵茉にも黙ってたのか」
「私先週もホテルにお邪魔してランチ一緒にしたのに、酷いよね!?」
これでも身内の次に顔を合わせているはずなのに、完全に外野に追いやられていた事が悔しい。
説明されてもピンとこない島は、最近人気のアイランドリゾートの建設予定地として候補に上がっているそうだ。
忙しい事も分かるけれど、とにかく清匡は筆不精だ。
メッセージの返事は、単語が常だし、用事がある時は文字を打つよりも電話を架けて来る事の方が多い。
恵茉が必死になって綴った長文のメッセージへの返事が、分かった。の一言だった時にはさすがに絶交を考えたりもした。
同じ文章を巧弥に送ったら、素敵な慰めの言葉とデートのお誘いが返って来るのに。
「話そうとしたら、恵茉に叔母さんから電話が架かって来たんだろ」
ちゃんと言おうとしたよ、と背後から声がして、同時に宥めるように軽く頭を撫でられた。
仕事をどうにかして、ティーサロンに降りて来たらしい。
清匡に気づいて近づいてこようとしたスタッフを手で制して、開いている椅子に腰を下ろしながら彼がスーツのボタンを外した。
「じゃあ、メッセージ送ってよね」
「どうせ出発までに会うと思ったんだよ。最近、叔母さんの会社も忙しいだろ?」
「おかげさまで!ケーブルテレビって凄いよね」
地元のローカルテレビの取材を受けてから、婚活アプリに抵抗のある独身者からの問い合わせが一気に増えて、近所の世話焼きおばちゃん的な気さくな所長の性格に惹かれたのか、登録者数が有り難いことに急増した。
所長である叔母と、恵茉の二人体制は相変わらずなので、ここ最近は休日返上で働いている。
「未婚男女に夢を与える前に、自分が、とは思わないの?」
興味深そうな巧弥からの問いかけに、ふんと眉を吊り上げる。
衝撃的な初恋をプレゼントとして、異性のハードルを一気にエベレスト級に引き上げてしまった人が言う台詞ではない。
「そんな暇ありませんよーだ。いざとなったら巧弥くんたちの未来のベビーに面倒見て貰うからね!」
「南にも言っておくよ。で、清匡、荷物の準備は出来たの?」
「必要なものは先に送ってあるから、まあ、どうとでもなるよ。それより仕事の引継ぎの方がきついな」
「え、そんな長期出張なの?」
「出張、というか、異動だから。最低でも一年は向こうにいるよ。提携先ホテルと、予定地を一つずつ回ることになるし。まあ、時々はこっちにも帰って来るけど」
「っはい!?」
「一年なんてあっという間だろ?」
「え、いや、ちょっと待ってよ!異動って、異動って・・・落ち着くまで帰ってこない可能性もあるって事でしょ!?」
「ああ、まあ、そうなるな。向こうのアジアリゾートは、若い女性にも人気らしいから良さそうな場所を見つけたら呼ぶよ。兄貴たちと一緒においで。食べ物も最近は美味しいらしいし」
「・・・っな、なにそれ!じゃあ、次に此処に来たらあの部屋にはもうキヨくん居ないって事!?」
「話したいことがあるならテレビ電話して来な。時差も一時間だし、あってないようなものだから。気にしなくていいよ」
出張に行くならお土産を強請ろうと意気込んでいた気持ちがあっという間に霧散していく。
当たり前のように従業員用エレベーターに乗って、執務フロアを我が物顔で歩いて居られたのは、そこに確かな砦があったからだ。
しっかり繋いでいた筈の手を、急にポンと放り出されたような気持ちになった。
足元を確かめたら、真っ逆さまに落っこちて行く感覚さえする。
「清匡・・・もう少し根回しを覚えような」
「兄貴よりはずっと得意だよ」
「肝心の所に出来てないって言ってるんだよ・・・恵茉、泣かなくていいから。いつでも俺が連れて行くよ。俺の仕事はパソコンさえあれば何処ででも出来るからね」
よしよしと慰めの手が目尻の涙を拭って、励ますように肩を撫でられる。
巧弥の手は、清匡の数倍繊細だ。
どうすれば女の子が喜ぶのか分かり切っている手つきはいつだって恵茉をお姫様にしてくれるけれど、いま欲しいのはそれでは無かった。
「ほんっとにキヨくん、言葉足らず!」
「泣くほどのことじゃないだろ。何かあればすぐに帰って来るよ。今生の別れじゃあるまいし・・・そんなに寂しいなら一緒に来るか?父さんは多分良いって言うよ。さすがに建設予定地周りには連れて行けないけど、ホテルで過ごすか、観光して回っても良いし」
「ばっかじゃないの!?行くわけないでしょ!!!」
さすがに我慢の限界で声を張り上げてしまった。
巧弥がお手上げだと肩を竦めて見せる。
ティーサロンの景観の良い窓際席は、恵茉が此処に来る時はいつだって予約済みになっていた。
事前に清匡がそうさせている事も知っている。
こういう気遣いは完璧なのに、どうして肝心な所で何もかも足りないのか。
ごちゃごちゃ言うなら付いてくればいいとあっさり言ってのけてしまう気安さが、余計に腹が立った。
少し前の自分だったなら、行ってやるわよ!と二つ返事で言い返していたところである。
「お見送り行かないからね!」
「分かったよ。とにかく機嫌直してくれ。シフォンケーキもう一個頼もうか?」
「・・・巧弥くん!」
「ん、なに?」
「キヨくんどうにかして!」
「不肖の弟に代わって心から謝るよ、申し訳ない」
また込み上げて来た涙を乱暴に拭ったら、頬に綺麗にプレスされたハンカチが押し付けられた。
清匡のものだ。
こういう紳士的な気遣いは、彼の習い性のようなもので、だから、そこに他意はない。
ホテルのロビーで泣いている女の子が居たら、ハンカチを差し出して優しく慰めるのと同じだ。
「一年でも二年でも好きなだけ何処へでも行っちゃえば!?私には関係ないしね!」
「必要な仕事が終わったら戻って来るよ。俺が居ない間も、あの部屋はそのままだから、いつでも来ればいいし、スタッフにも頼んであるから」
自分が居なくても、恵茉の日常が変わらないように手配済みだと当たり前のように言ってのけた清匡を睨みつける。
何もかもが、綺麗にすれ違っている。
そして、恵茉がどうして怒っているのか、清匡は全く理解していない。
あれほど完璧に噛み合っていると思っていたのは、完全に恵茉の独りよがりだったのだ。
二人に共通していたのは、加賀谷巧弥という圧倒的な存在。
彼が抜け落ちた後の二人の関係は、とんでもなく脆くて、危ういものだったのだ。
「恵茉が心配する事は何もないよ」
「キヨくんの馬鹿!巧弥くんっ!」
「うん。分かった。送るよ」
呼びかけると同時に、巧弥が立ち上がって恵茉の椅子を軽く引いてくれた。
「下まででいい」
俯いて鼻を啜ったら、優しく背中を撫でられる。
「そんなわけにいかないよ。お姫様のエスコートは最後まで完璧にこなさないと。清匡は、少し反省した方が良いね」
「・・・は?」
案の定ぽかんとした口調が返って来て、振り向きもせずにティーサロンを後にする。
いつもはレジ前のスタッフに美味しかったです、今日もご馳走さまでした、と挨拶をするのが常なのに、こんな顔では声なんて掛けられそうにもない。
「擦ったら目が腫れるよ。ほら、危ないから手、繋ごう」
自動ドアを抜けた後で、すぐに横に並んだ巧弥が、そっと手を差し出して来る。
涙目でろくに前が見れていない事を気遣ってくれたのだ。
「巧弥くんは完璧すぎてムカつく」
王子様に対する口ぶりとは思えない位、可愛げのない声が出た。
いつも巧弥の前では可愛い妹で居たいと思っていたのに。
じゃなきゃ彼のお姫様ではいられないからだ。
「はいはい。今日はいくらでも悪口を聞くから・・・・でも、頼むよ。恵茉だけは、うちの弟を嫌いにならないでやって」
繋いだ手をあやすように揺らして、口直しは何にしようかとまだ明るい窓の外を眺める巧弥の横顔は、確かに清匡とよく似ているのに、まったく違う印象を受ける。
だから、彼の前ではぐしゃぐしゃの顔で泣けないのだ。
お姫様もどきのプライドを、必死に守るために。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます