第2話 八木重吉と短歌
八木重吉と短歌
瓢々のこのうみちぬとひとのいふよろしきその名にきみのおもはる
「秋のひかり」
ひかりがこぼれてくる
秋のひかりは地におちてひろがる
このひかりのなかで遊ぼう
金なきゆえ
金なきゆゑ詩集をあみえず
つまと かなしみてかたり
わづかづつ かねをため
いつの日か わが集を
いださんとねがふ
「ねがひ」
どこを断ち切ってもうつくしくあればいいなあ
「詩人ハ木重吉の詩は不朽である。このきよい、心のしたたりのやうな詩はいかなる世代の中にあっても死なない。詩の技法がいかやうに変化する時が来ても生きて読む人の心をうつに違ひない。それほどこれらの詩は詩人の心のいちばん奥の、ほんとの中核のものだけが捉へられ、抒べられてゐるのである。・・・」
と『定本八木重吉詩集』の序で高村光太郎は賛辞を贈っている。
二十九歳で結核のため早世した重吉は、一八九八年(明治31年)東京府南多摩郡堺村柏原大戸(現在の東京都町田市柏原町)に生まれ、一九二一年(大正10年)東京高等師範を卒業し、四月に兵庫県立御影師範学校英語科教師として赴任した。
彼は翌年七月、二十四歳の時に島田とみと結婚した頃から、詩作活動に力を入れ、一九二七年(昭和二年)十月二六日に召天するまで、わずか六年間であったが、研ぎ澄まされた感性と、幼子のごとき純粋性に溢れた詩を記したのである。
興味深いことに、重吉は本格的に詩作活動に入る前の二年間において、毎日十数首、多い日には三十首もの短歌を日記に記している。そしてそれは、御影師範に赴任する直前の三月、十七歳の少女島田とみの家庭教師としての出会いから婚約、結婚に至る二年間そのものであった。
偽善者の八木めが今日もさかしらに教壇にたちて世迷ひをとく
とみ子とはつめたかるみ名やみてあればひとしほきみがこわれけるかな
身もすてて聖書を抱きさすらひて哀しき旅をいつの日にせん
彼の深い自己認識は、純愛にも例えられるとみ子への愛と、殉教者を思わせるような、キリストヘの肉迫と求道心にあった。詩人ハ木重吉の詩を開花させたのは、短歌と共にあった、この御影時代の二年間だったと言えよう。
「富さんも、詩か、歌か作ったら、きっと、送って下さい。歌には、上手下手はないのであって、ただ、その人の情緒が純潔に高揚されてゐるか否かが唯一の問題であると、私は考へてをります。」
(『ちぬの海』 平成五年十一月号 )
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