第四話
なだらかな慣れは、観察の集中力を欠く。大体、隣家の部屋を覗き見ているわけだから、普通に褒められた行動ではない。この条件を何の衒いもなく受ける雪も雪だ。俺にだって、多少の後ろめたさくらいはある。
そんなものだから、手を取った写真集へ意識が流れるのには、さほど時間はかからなかった。人はそれを油断と呼ぶのだろう。そして、油断というのは突かれるものだ。
「佳臣さん」
「うっわ」
昨晩を再現したかのように、ユマがベランダの間に浮かんでいる。声が出るところまでそっくり同じになったが、雪は部屋から出てこなかった。
「そんなとこに浮くな。ベランダに降りろ」
窓を開いて声をかけると、ユマがふわりと着地してくる。部屋に入れるには躊躇がよぎった。昨日の雪の拒絶が頭の隅に残っている。ベランダの手すりに身体をもたれさせて、息を吐き出した。ユマも同じようにもたれかかる。
向こうの部屋に雪の姿はなかった。
「……雪は?」
「お風呂にいかれましたよ」
「それで? 何の用だよ」
雪のいない窓の向こうを見ていても仕方がない。身体を反転させて、手すりに背を預ける。空はすっかり夜空になっていた。月明かりの下に立つユマは淡く発光している。
「それ、消せ」
「仕方ないんですよ。暗いところに出ちゃうとどうしても光が消えなくて。なので外で過ごすのは問題があるんですよね。雪さんが優しくて助かりました。佳臣さんはつれないですから」
「俺の家に問題があると豪語したのは雪だけどな」
「そういえばそうでしたね。ヤキモチ焼きの雪さん、可愛らしいです」
どう相槌を打てというのか。小難しい感情が渦巻く。ヤキモチを認めるほど自惚れてもいないし、可愛いと正々堂々と惚気るつもりもない。
「あれ? 返事はないんですか? そこで言い渋っちゃうからダメなんですよ! 雪さんに直接言うんじゃないですから、練習だと思って口にしていきましょう。これくらい言えないと気持ちを伝えるなんて至難の業ですよ! せっかくプラン実行中なんですから、どんどん大胆になっていきましょう」
「だから、プランなんて聞いてないんだけど」
雪にも隼人にも協力を取り付けている。つまりは、プランの一部は明かしているということだろう。だというのに、俺にはひとつも伝えられていない。当事者なのに放置されているのが忌まわしいやら、このまま知らぬふりをしておきたいやら。判然としない気持ちになった。
「告白大作戦ですよ」
「安直」
「仕方ないじゃないですか。それが一番の近道なんですから。せっかく雪さんに優しくしてもらえているんですから、それに甘えて攻めるべきです! 先ほどだって、雪さんと手を繋いでおられたじゃありませんか。そういった感じでどんどん距離を詰めていくんです! 意識させたもん勝ちなんですから」
「何の勝負をしてんだよ。ていうか、千里眼を使うな!」
「使おうとしなくても使えるものですから」
「便利だな!?」
隠せていると思って調子に乗っていた自分が恥ずかしい。俺が騒いでいる理由に気がついていないのか。平然としているユマには、自分ばかりが慌てているようで居心地が悪くなった。
「そうでもありませんよ。見えちゃって大変なことだってありますから。雪さんのお風呂もバッチリ見えますよ」
「見てんじゃねぇよ。目、潰すぞ」
雪の家のほうを見ているユマの目元を手荒に覆う。千里眼には無駄であろうとも動かずにはいられなかった。
「痛い! 痛いですよ! ちょっと、マジじゃないですか。やめてください、佳臣さん。見ません。見てませんから。ちゃんとシャットアウトしてます!」
試されたことが苛立たしくて最後にもう一回ぐりっと押さえつけてから、解放してやる。ユマは自由になった目元を押さえて悶えた。うるさい動きはオーバーだ。実際、そこまで力を入れた覚えはない。本気で目潰しするなら、押さえずに指を突き刺している。
「あー、もう! そこまで本気になるんですから、いい加減あたしの案に積極的になるべきですよ。何を躊躇うことがあるんですか。昨晩だって、抱き合ってらしたじゃありませんか」
「なんでそこまで知ってる」
こいつ、千里眼を理由にすれば盗撮のような真似も許されると思ってるんじゃないだろうな。半眼を向けると、頭を掻きながら軽やかに笑われた。
「すみません。気になってしまって。佳臣さんが雪さんのことを想っているのは分かっていたんですけど、どこまで本気なのかと思って観察させていただいていました」
「は?」
同衾を観察して、一体何が判別できると言うのか。疑問しか浮かばずに、眉間に皺を寄せた。勝手に人の気持ちを推し量ろうとしているところにも、若干の不服がある。
そもそも、自分でもその分量を把握などできやしない。実感としては重すぎて、おいそれと雪に明け渡すこともできそうにもなかった。告白など、そう簡単じゃないのだ。自分でも、何が零れ落ちてくるか分からないのだから、そんな危険な賭けはできやしない。
「あれほど密着されて手を出さない鉄の精神は称讃するに値します。もし、あたしが愛情ある相手にあんなことをされたら、とても理性を保っていられませんよ。佳臣さんがどれだけ雪さんのことを大切にしているのかが、よくよく分かりました。素敵です!」
人を襲わないなんて、そんなものは常識だ。けれど、こうして具体的に態度を称讃されると、異様に想っているようでむず痒くなる。上手い返答は思い浮かばず、ただ唇を蠢かすだけになってしまった。
「そんなに照れないでくださいよ。こっちのほうがよっぽど照れくさくなっちゃうじゃありませんか、もう」
「うるさい。そっちが先に勝手に言い始めたんだろうが」
「それでもです。とにかく、佳臣さんが雪さんのことを非常に大切にしており、かつ誠実な態度でいることは分かりましたから、是非その感情を解き放ちましょう。そんな雪さんと、一刻も早く愛を囁き合えるような関係になってください」
「そこで命令になるところが納得できない」
応援してくれるだけなら、まだもう少し歩み寄る気持ちが生まれただろう。
だが、ユマはいつも最後には自分の願いとして押しつけるような言い方をしてきた。それが気になる。もちろん、それだけが理由ではない。単純に人様に告白のペースを押しつけられたくはなかった。
「命令だなんてそんな真似、あたしはしませんよ! お願いです。佳臣さんが無事にカップルになってくださらないとあたしも困るんですよ」
「もってなんだよ。俺が困っているみたいに言うな」
「だって、雪さんの可愛さに困っているじゃありませんか。交際を始めてしまえば、隠す必要はなくなるんですよ? 言いたい放題です」
「それが言えるかどうかは人次第だろ」
交際をしているからって、愛の言葉を伝えることができるかどうか。それは当人の問題で、そして自分には到底できない。それが分かっているから、ユマの言い様が魅力的には聞こえなかった。
「それでもですよ! 立場のあるなしは重要です。そして、あたしを楽にしてください」
「だから、それはなんだよ」
最後にくっついてくる当人の要望に、再び眉根が寄る。それさえなければ、というほどお人好しではない。だが、それがなければいくらか妥協はできただろう。ユマの都合に振り回されるいわれはなかった。
「言ったじゃありませんか。あたしたち天使は、恋のキューピッドとして任務をこなさなければならないんです。お仕事ですから、ノルマも存在します」
「こなしたら給料でもでるわけか?」
「ノルマを終了させれば転生ができますとも言いましたよ」
「転生」
天使のルールなんて知るよしもない。そもそも、どこから来てどこへ行くのか。それを想像することもできなかった。雪なら、物語的な挿話をいくつか持ち得ているのかもしれない。だが、あいにく俺の中にそうした引き出しは存在しなかった。
「転生は転生ですよ。生まれ変わることができるという話です。そのためにあたしたちはノルマのポイント稼ぎをしています」
「つまりポイントになれと」
「そんな言い方はしていないじゃありませんか。それにあたしにだって堕天がかかっているんですから、本気ですよ」
「堕天」
「失敗が続くと、堕天させられてしまい、魂の回収をしなくちゃならなくなります」
「何の問題が?」
「ポイントです。魂の回収とはいわば幽霊の相手ですから、生命を相手にするキューピッドよりもポイントが随分下がります。魂百個回収でキューピッド一回成功です。転生するのに時間がかかりすぎてしまうじゃありませんか」
「キューピッド何回やれば転生できるの」
「大小様々です」
涼しい顔でざっくりとした基準がもたらされる。天界のルールに詳しくなんてなりたくなかったものだ。ますます妙なものと付き合っていることを意識する。ユマは俺がそれを迷惑半分に聞いているとも知らずに弁舌を振るった。
「恋愛にも様々あるじゃありませんか。社会的身分差や性差。そういったものに阻まれる恋愛はやっぱり点数がいいですね」
「下世話だな」
話は分かるが、それを勝手に障害や困難などと周囲が論ずるべきなのか。難易度の基準にするような可哀想な恋など、赤の他人が決めるべきものではない。そうした心の不穏が表に出ていたのか。
ユマは気まずそうな顔になって、ベランダにしゃがみこんだ。
「仕方がないじゃありませんか。そうした分かりやすいものがあると、あたしたちの助力もより多くなります。その対価ですから、報いた分ポイントが入るのもやむを得ません。苦労するんですよ。当人の恋だけではなく、親兄弟・ご友人関係に至るまで尽力しなくてはならないこともあります。そのうえ尽力しても成功率はあまりよくないのです。そうした値の中で弾き出された天使の規則です」
長い言い訳じみた解説に、納得ができないわけでもない。感情を仕事に換算するとは、そういうことかと異次元への納得として理解することはできる。
しかし、俺のフックには別のポイントが引っかかっていた。
「ちょっといいか」
「なんでしょうか」
下から見上げられると瞳の大きさがよく分かる。碧い瞳は物珍しくて、蠱惑的にも見えるだろう。だが、惑わされている場合じゃない。見過ごせない台詞があった。
「失敗があるのか」
見下ろすと、ユマの目が泳ぐ。
「それはまぁ……天使は神ではありませんから」
「必ずって言わなかったか」
泳いでいた目が完全によそに流れた。胡散臭い宣伝文句は、そのままそっくり嘘というわけだ。よくもまぁ、あそこまで明朗と宣言できたものだ。呆れはまだある。当たっていて欲しくないが、この感じだと的中してしまいそうで嫌だった。
「失敗が続くと堕天で、お前は堕天の危機だって言ったか?」
びくんと肩を揺らしたユマが下手くそな口笛を吹く。調子っぱずれな音程が不格好でポンコツだ。
「落ちこぼれ……」
「あー! 言いましたね!? ついに言ってしまいましたね、佳臣さん」
しおらしくしていたかと思うと大声と共に立ち上がり、こちらに詰め寄ってくる。柵を背もたれにしていたせいで逃げ場がない。喚くユマはだんだんとこちらへ距離を詰めてきた。
「確かにあたしは落ちこぼれですよ! けれど、今回こそは成功させます。間違いなく!」
「その自信はどこからくるんだよ!」
「お二人が既にラブラブだからですよ! あたしのキューピッドとしての道は明るく輝いているわけです。きっとカップル成立させてみせますとも」
拳を作って力説する。ひとつも保証にならない。ただの気合いの表明であるし、他人任せのそれだ。そのうえ、俺たちの関係を把握もできていない。これではとても達成できそうになかった。
しかし、ユマの気炎は増していく。
「ですから、佳臣さんにはなんとしてでもプランを遂行していただきます。よろしいですね?」
「もう自分のためじゃん」
「そうですよ! きっちりアシストしますから、あたしのために佳臣さんには幸せになっていただきます!」
幸せになって欲しいというだけなら献身的なことだが、あたしのためのせいですべてがお釈迦になる。しかし、ユマは決め台詞であるかのように声高に、俺に迫ってきた。手すりに腕をかけて閉じ込めるやり方は、壁ドンの亜種も同じだ。
遠近感の狂う至近距離で、じっと見つめてくる。そして、俺が肯定するのを待つかのように動かない。こんなことでほだされたりはしないが、圧力にはまごつく。どちらかが先に折れるのか。闇夜の攻防が密かに幕を開いた。
そして、乱入者によってその幕は消化不良ながらに下りたのだ。
「何してるの?」
いつになく冷ややかな口調に、背筋が凍った。ぐぎぎと首だけで振り返る。風呂上がりで濡れ髪の雪が、向かいのベランダに立っていた。手を伸ばせば届きそうな距離だ。
「雪」
「知らない」
目が合った瞬間に拒まれて、鳥肌が立つ。くるりと踵を返されて、慌てて身体を翻して手を伸ばそうとしたが、無残にもカーテンごと閉められてしまった。
「……アシストするって?」
空間に白々しい夜風が通り抜けていく。
背中からユマが忍ぶように遠ざかって気配がした。振り返ると、ユマが飛び立とうとしている。その襟首をひっ捕まえた。
「アシストするって?」
繰り返すとユマが開き直る。
「アシストですよ! 恋のエッセンスです」
どう聞いても苦しい。勘違いをさせておいてエッセンスも何もない。雪の気分を害しただけだ。どう考えても逆アシスト。オウンゴール。手伝いになっていない。
それでもユマはしつこくアシストだと言い募ろうとするので、俺はその金髪をぱしんと叩いてやった。
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