第三話
「あの!」
意を決して吸い込んだ呼吸を、横からかっ攫われた。盗んでいったのは隼人だ。
おい。タイミングどうした。このすっとこどっこい。いっそ、この遊び人がと罵ってやりたいくらいだったが、隼人はらしくもなくガチガチに緊張していた。気の毒なほど真剣な面に声を失う。
「よかったら、俺にも協力させてもらえないでしょうか!」
「はぁ!?」
隼人は状況なんて、てんで分かっちゃいないだろう。雪以上に、俺の願いがどうのという意味も分かっていない。見切り発車もいいところだ。
しかし、この餌はユマを釣るには激烈に効いた。一瞬で華やいだユマが、先ほど雪にしていたように隼人の手を取る。隼人の肩が派手に揺れ動いた。
「なんて友達思いの素晴らしい方なのでしょうか。佳臣さん、こちらの方は」
「大内! 大内隼人です。隼人と呼んでください」
「隼人さん」
「はい」
「あたしはスタリィ・ユインティグ・ラギュサンス・ユマと申します」
「ユマさん」
「はい! 頼りにしていますね、隼人さん」
にっこりスマイルが隼人にどれほどのダメージを与えているのか。呆けた顔を見れば察するにあまりある。
はぁと大息が零れた。何をどうするのが正しいのか分からない。天使との恋が不毛だなんて外野が言うべきことなのか。そもそも、天使なんぞ信じないだろうし、この淀みない親交に俺は手も足も出せそうになかった。正式には、できるなら産毛一本たりとも巻き込まれたくない。
手を取り合ったままの金髪二人は絵になるし、放っておくかと投げやりな気持ちになる。思えば世話を焼く必要は絶無だ。
放置を心に決めたところで、くいくいと袖が引かれる。目を向けると、雪が訝しげに二人を目で示した。
「大内君、そういうこと?」
「らしいな」
「いい感じ?」
「さぁな」
「禁断の恋?」
「そんな大袈裟な」
「種族を超えた愛ってそういうものじゃない?」
「大内にやり遂げられると思うか?」
「分かんないけど、あんなに真剣なのは初めて見る」
そこには同意する。隼人が人を口説くところを直接見たことはない。だが、日頃異性と話す際にあそこまで上がっているのも見たことがなかった。珍しいのだけは確かだ。隼人のことを少しでも知っている人が見れば、百発百中で珍しいというだろう。
だが、だからって大人しいかといえばそうでもなさそうだ。握りこまれていた手をしかと握り返して、指を絡めかけている。すりすりと指を動かすやりざまは、手慣れているようにしか見えなかった。
ユマの貞操を心配しやしないが、隼人の心労を思えばやっぱり口を出したほうがいいのかもしれない。そいつ、ついてるぞ。とは親切だろうか。熱心に話をしている二人を見ながら、ぐだぐだと考えていた。
不意に指先に熱が触れて、肩が跳ねる。白魚のような雪の指先が、ちょこんと俺の指先を掴んでいた。
「何だよ」
「羨ましいのかと思って」
「何が?」
「人肌が?」
「どんだけ寂しいやつだと思われてんの!? 俺には昨日の雪の体温が……」
勢い口にして、止まる。瞠目した雪の頬に朱が刷けた。こちらまで釣られる。頬が熱い。顔を合わせてなんていられなくて、額を押さえてそっぽを向いた。
「忘れろ」
「いやよ」
「いいから、忘れろ! 気色悪いこと言った」
セクハラも同じだ。仮に思っていても口にするもんじゃない。いくら雪が俺に好意的でも限度がある。失敗した。こちらは後悔でいっぱいだというのに、雪はまたぞろ
「いやよ」
と繰り返す。
どういうつもりだよ。文句のひとつでもつけたくなって、向き直ろうとしたところ。ぎゅっと手を握られて、心臓を掴まれた。瑞々しくて華奢な手が絡む。どういうことかなんて聞くだけ野暮だとでも言うようで、俺は口を噤んだ。
「佳臣」
「うん」
「久しぶりね」
「そうだな」
小さいころは、どこに行くにも手を繋いでいた。いつのころからか、そんな習慣はなくなっている。お互いに他人からどう見えているのか気がつき始めた。だから、今もそう見えているということも分かっている。それでも、手は離さなかった。
それどころか、心臓の物音に引っ張られるように盛り上がって力んでしまう。そうすると、雪の手を握り返すことになった。雪の肌が吸い付いてきて、もうこちらからは手放せそうにない。
「――雪」
「なぁに?」
少し間延びした返事が柔らかくて、ドキリとする。言おうとしていたことが言おうとしていたことだけに、どぎまぎが加速した。
「いい思いだと思ってるから」
「……スケベ」
「うるせぇ」
「清楚系じゃないのに?」
「お前は清楚系だよ」
憮然とした言い様になったのは、どう考えても照れくさかったからだ。首から顔面に向かって熱が這い上がってくる。危ない暴露だ。雪は何も言わない。ちらりと見下ろすと、髪の隙間から見える耳が真っ赤に染まっていた。
「馬鹿なの?」
「そんなもんだよ」
「馬鹿よ」
責められているわりには、むず痒さが消えない。スケベだと罵倒しながら、雪が手を離さないから。どうしたって許されている気持ちになる。実際、かなり許されているはずだ。普通はこんなふうに和やかな空気ではいられない。
それでも、気恥ずかしさに沈黙にはなる。甘ったるい空気が肌にまとわりついていた。我慢の限界が近づいたころ。俺が行動を起こすよりも先に、空気はぶち壊された。
「お二人とも! ダブルデートに行きましょう!」
一体何がどうしてそういうことになったのか。ユマがはしゃいで言う。隼人がドヤ顔でこちらを見ていた。それはどういう感情なんだ。デートを取り付けたことへの自慢か。
俺と雪は身体を寄せて、手を背中側へと隠す。デートについてを捲し立てるユマの威勢に気圧されながら、絡む指先の細さを堪能していた。
今日の石谷家には、おばさんが帰ってきている。それを条件としてユマを置くことに納得したのは、隼人と解散した後のことだ。
二人に怒濤の勢いで押し込まれたダブルデートは、二週間後に決定している。雪が承服したものだから、なし崩しに同行することになった。
ダブルデートだ。
ユマのほうは目的からして俺を外しやしないだろうが、隼人のほうは分からない。ユマ狙いなのだから、俺以外を宛がってでも強行する可能性がないわけではなかった。それを思えば、断る以外の選択肢はないも同じだ。
面倒ごとに巻き込まれるかもしれないとしても、雪をひとりにはできない。ユマにしてみれば、なんともチョロいことだっただろう。あっけなく約束を取り付けられて、隼人と別れた。
別れる理由にしていたユマの状態は、もう確認できている。帰る用事はなくなっていた。しかし、ついて行く理由もないのであっさりと別れる。
ユマとの約束に満足したのか。隼人の足取りは軽やかだった。デートの約束をした足ではあるが、合コンに行くのは変わりないらしい。
残された俺たちは、ユマのテンションに相槌を打ちながら帰路を辿る。
もう手は離していたが、雪の温もりがまだ残っていた。本当に久しぶりで、名残惜しい。まだ触れていたい気持ちが胸の中に渦巻いている。心を奪われていて、ユマの話は右から左へと聞き流していた。
そのうちに、今日の居場所の話になっていたらしい。俺が頑として聞き入れずにいると、雪から発案があったのだ。昨日が悪くて今日がいいわけもない。俺は強く反発したが、親の存在を安全に組み込まれてしまっては頷くしかなかった。
ただ、カーテンは必ず開けておくこと。それを条件に掲げた。おかげで俺は、帰ってから窓際から離れられずにいる。
雪はいつも通り読書に明け暮れていて、ユマは天井を見上げていた。何をしているのか。気にはかかるが大人しくしているわけだから、藪は突かない。
俺もカメラを片手に、時間を過ごした。ベランダに出れば、空を撮るのにも不便はない。抜群の写真が撮れるかは自然次第だから、場所にこだわりはなかった。もちろん、大自然のロケーションを求めるのも本心だけど。
けれど、何気ない日常の風景を切り取るのも好きだ。いくらか撮っては、データを確認する。雪の写真が圧倒的に多いのはご愛敬だった。俺の日常に何よりも寄り添っているものなのだから、仕方がない。
昨日撮れてしまったくだんの写真にたどり着いて、手を止める。羽根と光。これは昨日、リビングでユマが見せてくれたものだろう。それは他意なく美しい。
溢れる光の中に、ユマが立っていたのを思い出す。荘厳な光景だった。隼人が一目惚れするのも分かるほどの麗しさだ。ときめかなかったわけじゃない。
だが、そのときよりも、ずっと鮮明に残っているものがある。この写真を撮った瞬間。光の中で趣味に夢中になっている雪。そちらのほうが、よほど天使のように尊くて、純真な存在だった。ああ、と感嘆が胸に溢れる。
こんな子がすぐそばにいてくれるのだ。俺は恵まれていた。一緒のベッドで眠り、恋人繋ぎをしてくれる。ましてや、性癖に合致しているなんて暴露すら受け入れてくれるのだ。本当に恵まれている。
しみじみと眺めていると、窓越しに声をかけられてビクついた。今日もうちの親父は遅い。おばさんが食事を用意してくれるようだ。当然のように、隣家のリビングに降りていった。ユマがテーブルにいるのを横目に、キッチンへ入る。
「おばさん、何か手伝うことある?」
「佳臣君、いつもありがとうね。お箸とかグラスとか出してもらっていい? 雪、お味噌汁持っていって」
「うん」
返事は重なった。俺たちの夕飯はパターンが複数個ある。大体は二人だ。だが、時々こうして雪のおばさんが食事を用意してくれた。そのときの会話も手伝うのもパターン化していて、慣れたものだ。
俺に関していえば、むしろ日頃から使い慣れた台所である。手伝うのに迷うこともなければ、おばさんに収納場所を教えることもあった。そんなダイニングキッチン周りは、いつも通りと言える。
だが、今日はイレギュラーがいた。リビングテーブルに着席したユマだ。日常風景に溶け込もうとすると、違和感がすごい。昨日今日と違和感を抱く暇はなかったが、こうして冷静になるとやはり妙な存在感があった。
昨晩、ご飯を含め世話をかけない。そんなふうなことをユマは言った。しかし、どうやら今日はおばさんに押し切られたらしい。そりゃ、娘の友人がやってきて食事を出さないなんてことはしないだろう。
ジューシーなハンバーグを四つ。俺と雪が隣なのはいつものことで、おばさんの隣にユマがいる。おばさんとユマのツーショットは摩訶不思議でしかなかった。
とはいえ、食事が特別なイベントに変化するわけじゃない。ユマの箸使いが怪しいことが唯一の盛り上がりどころだっただろう。それ以外は、極めて淡々と……おばさんが俺と雪の関係をからかうことも含め、淡々と食事は進んだ。
幼いころから一緒だ。おばさんの攻撃力は強い。忘れてしまったような過去を掘り起こされて、冷や汗を掻くことも多かった。幼いころに、結婚するだなんて嘯いたことがないのは救いだろう。一緒にいようと交わした約束は、二人だけの秘密だった。
後片付けに手を上げて、食事の時間は無事に終了する。ユマが余計なことを言わなかったのは幸いだ。おばさんの話に便乗しなかったのは、ありがたいばかりだった。薄気味悪くはあったが、ひとまず安堵のため息を零しながら自宅へと戻る。
俺はまた、定位置となり始めている窓際に居座った。雪もユマも同じように戻ってくるのが見える。ユマは客間でいいだろ、とは思いつつ、おばさんが不審がるかと心にセーブをかけた。
雪とユマに会話の様子はない。時折、ユマが何かを話しかけている節はあるが、雪は緩やかに流しているばかりのようだった。雪らしい。
正直に言えば、ユマに対する警戒心はもうかなり緩んでいた。ユマの行動は一貫している。迷惑ではあるが、危害を加えるつもりはなさそうだった。もちろん、天使の常識でとんでもない行動を起こす可能性は否定できない。だが、雪がそれに惑わされるとも思えなかった。
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