第五話

「すごい」


 ほこりと熱に浮かされた声がして、胸元を見下ろす。つぶらな瞳を子どものように輝かせている雪がいた。マジか、と天を仰ぐ。

 しっかりしているのはしっかりしているが、夢見がちなところがある。そして、変に肝が据わっていて知的好奇心が強い。さっきまで少しビビっていたくせに、今はもう興味が勝っているようだった。


「本物?」

「そうですよ! 雪さんは素敵な方ですね!」


 雪を褒め称えながら、こちらに同意を求めるような目を寄越す。いちいち仄めかさなくたっていい。雪が素敵だなんてことは、言われるまでもなく分かっている。こんな一部分を取り上げて、分かったつもりになって欲しくない。


「すごい。他にも何かできるの?」

「残念ながら、地球でできることはこれくらいが精いっぱいです。千里眼みたいなものもありますけど、雪さんと共有はできませんからね」

「学校は見える?」

「図書室の本の背表紙までバッチリ見えますよ!」


 なるほど。道理で人を追いかけようとしてこないし、こんなにも簡単に家バレしたわけだ。逃げたところでまったく意味をなさない。だとすると、ここでユマを拒否したところで、どうにもならないのではないか。

 とんでもない暴露をされている気がしたが、雪には心を弾ませる情報だったらしい。引き続き、目を光らせてユマを見ている。


「どこまで見えるの?」

「富士山も見えてますよ」


 雪はもう、俺に寄り添ってはいない。ごく自然に正面のユマと対峙して、会話を楽しんでいた。マイペースはこんな不測の事態にも対応していたらしい。たくましいと言えばさまにもなるが、脳天気と呼べなくもなかった。

 千里眼の実力に夢中になっていた雪が、不意にこちらを仰ぎ見る。意見があるのは瞭然で、嫌な予感に身構えた。小学生のころ、子猫を拾いたいと言い出したときもこんな顔をしていた気がする。


「ユマさん、うちなら」

「ダメだ」

「問題ない」

「雪が問題ないならウチだってないだろ」

「清楚系」

「いい加減離れろよ! 俺を疑うのか」

「心配」

「雪」

「いやだもん」


 浅紅の唇が尖る。目の毒だ。理屈抜きの感情論ではどうしたって分が悪い。けれど、雪の家に二人きりにするのが感情論で嫌なのはこちらだって一緒だ。


「……分かった」


 俺の言葉に、雪はすぐに機嫌を直す。引きずらないと言えばありがたいが、単純と言えば単純だ。


「今日だけここに置いてやる」


 雪の表情が一気に曇る。分かっているからそんな顔をしてくれるな。今から告げることのほうが、正体不明の生物を置くことを決めるよりも、よっぽど覚悟のいることなのだから。


「雪も泊まっていけばいい」


 露骨に晴れた表情には苦々しい。

 女子二人が、にこにこと顔を見合わせている。いや、女子なのか。何にせよ、いつの間にそれほど仲良くなったんだか。まったく理解不能な乙女心だった。この場合、違う何かだろうか。


「ユマは客間。雪は俺のベッド使え」

「佳臣は?」

「ソファ」


 雪の表情が難しくなる。今日はやけに変化が激しい。ユマのことを容認し、いっそ楽しんでいるようにも見えるが、やはり調子は崩しているようだ。


「客間と近すぎる」

「あのなぁ」

「部屋」

「無理だろ!?」

「今日だけ特別」


 何が!? 大体、俺の部屋なんだから、それを言うとすれば俺だ。口が裂けても言うことはないだろうが。


「では、そういうことに致しましょう! 雪さん、客間というのはあちらで?」

「そう。押し入れに布団が入っているから、必要なら使うといい」

「話を勝手に進めるなよ!」


 家主はすっかり置いてけぼりだ。

 ユマは実に気兼ねなく、客間の扉を開けていた。行動力がずば抜けている。俺はその背を追って、腕を取る。ひんやりとした肌触りは人にしては体温が低く、天使であることを補強するみたいだった。


「俺が準備するから、雪を説得してくれ」


 俺は自分が折れることを知っている。雪にねだられてしまったら、本能すらも置き去りにするだろう。他人に任せたほうがいくらか勝算があった。しかし、ユマは怪訝に首を傾ぐ。


「なぜですか? またとないチャンスではありませんか」


 一応、気は遣っているらしい。理由は知らないが、雪に俺の願いと判断しているものを直接聞かせるつもりはないようだった。ユマはいくらか声を潜めて、俺に詰め寄ってくる。


「見たところ、お二人ともとてもいい感じです。きっと願いを叶える日も遠くありません。チャンスは生かしてきましょう。あたしがいるからには、必ずものにしてもらいますよ! ほら、雪さんと両思いになって、わくわくの交際を開始させてください。そうすれば、あたしも無事に任務を終えてハッピーです。ここから去ることも可能ですよ。さぁさぁ、雪さんとめくるめく一夜を過ごして大進展し、カップルになってくださいよ」

「いや、だから、それは」

「何を躊躇うことがあるんですか。気持ちを伝えたいのでしょう?」

「話を聞けって」

「いいえ、聞きません。ほら、雪さんを一人にするなんて言語道断ですよ。早く戻ってください。あたしのことは放っておいてくださって構いませんから、きちんとお部屋まで雪さんを送り届けて一緒にいるのですよ。あたしという不審人物から雪さんを守らなければなりません」


 どう考えても、要らぬ世話を焼くために自分を引き合いにしていた。そんな手法を使われても嬉しくない。ユマは力任せに俺を客間から追い出して、扉を閉めてしまった。

 リビングに戻ってきた俺を、雪が待ち構えている。


「佳臣」

「……ああ」


 別に、ユマの演説に影響されたわけじゃない。そうでなくても、俺は雪をスルーできやしないだけだ。


「勝手に入っちゃダメでしょ?」


 いつも勝手に入ってるだろ、と突っ込みたいところだが、それはつまり一緒に来いという含みだろうと気がついてしまう。全部を話さなくとも通じる土台があるのはいいことか、悪いことか。

 俺は観念して、雪を導くように二階へ上がった。ベッドは、雪のために飛び降りたまま布団が床に落ちている。それを拾って、軽く整えた。


「ほら、使えよ」

「……佳臣」


 呼びかけだけ。言葉はギリギリまで削られていたが、その指先は雄弁だった。シャツの裾を摘ままれて、背中に額を押しつけられる。伝播されてくる体温に熱が上がった。


「平気だろ? ユマと打ち解けてたし、怖いことはなくなったよな」

「特別でしょ?」

「だからだろ?」

「……お願いだから」

「大丈夫だって」


 あいつは何もしないだろう。それは信頼とは違うものだ。ただ、俺と雪がどうにかなればいいと思っている。こんなお誂え向きのシチュエーションをぶち壊しに来るとは思わなかった。信頼ではない。俺にとって都合の悪い方向に動くだろうという予測だ。


「佳臣とユマさん。相性よさそう」

「は!?」


 急な言葉に泡を食って振り返る。背中を剥がれた雪は顔を伏せていた。長い髪が影になって、顔色を窺えない。


「ユマさんに、願いを話したんでしょ?」

「あれは勝手に思い込んでいるというか」

「でも、否定はしなかった。……私も知らないのに」

「それは」

「いいの」


 どっちにしても、答えることはできなかった。台詞を遮られて、安堵していたかもしれない。卑怯だ。


「私に何もかも言わなきゃいけないわけじゃないから、それはいいの。でもやっぱり、悔しい。二人だけの秘密があるって聞いて何も感じないほどじゃないから」

「雪」

「一緒にいてくれるんでしょ?」


 雪は表情が薄いけれど、感情は人一倍豊かだ。そして、それを繕わない率直さもある。俺はいつだって敵わない。そんなことは分かりきっていた。惚れた弱みだ。


「……秘密にしてることなんかないから」


 見極めるように見つめてくる瞳を見返す。疚しいことは何もなかった。ユマとだけ秘密を共有しているつもりはない。あちらからの一方的な押しつけだ。視線を逸らさずに見つめる。黒く澄み渡った雪の瞳が好きだった。


「一緒に寝ようか」


 声は掠れていた。

 雪は緩く俯くように顎を引く。自分の意見をはっきり口に出せる。そのくせ、こういうときの仕草は気恥ずかしげで、こちらのほうがむず痒い。


「奥、いって」

「うん」


 あまり顔は見られなかった。雪が何を思っているのかを考えたくはない。先にベッドに入った雪の瞳が、俺を捉えているのが分かる。冷や汗が垂れそうなほどに緊張感が高まった。

 当たり前だ。異性と……それも想い人とベッドに入るのに、感情が揺るがないほうがどうかしている。幼少期に数え切れないほど雑魚寝をしてきたからって、関係がない。というか、あれはノーカウントだろう。

 セミダブルに二人は割とギリギリだ。雪が小柄で助かった。密着が免れない状態で助かったも何もないけれど。そもそも、二人で横になることができなければ、この状態から解放されるというのに、助かったなんていけしゃあしゃあだ。

 生殺しなのは分かっている。だが、俺だってラッキーだという感情が一ミリもないわけではない。進展させるチャンスだと思うほど積極的ではないけれど、こんなことになるチャンスはそうないという気持ちくらいはあった。

 ただ、それよりも緊張感や忌避感が強いだけの話だ。自分の理性が信用ならないとも言う。


「佳臣」


 背を向けてベッドに入った俺に、雪の声が届いた。近い。こちらを見ているんだろうな、とその視線を察知する。それでも振り向くことはしなかった。額を合わせるほど距離感は狂っているが、ベッドの上でも同じだなんてことはない。


「ありがとう」

「いいから。もう寝ろ」

「うん」


 恐らく、照れくさいのは伝わっているはずだ。雪はそれ以上は何も言わずに、身じろぎした。それが落ち着いて、背中同士がくっつく。これに離れて欲しいというのは、この狭さにおいては無謀な願いだろう。

 ぬるい人肌を背中に感じながら、身を横たえる。ユマのことは、もうすっかり頭の中から消失していた。

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