第四話
自宅に戻って、すぐに自室へと上がる。雪の部屋のカーテンはもう開いていた。風呂は明日の朝にしておくかと考えながら、電気をつける。
こちらの光を感知したのだろう。雪が窓越しにこちらに顔を出した。胸の前で手が振られる。ひとつひとつが可愛かった。緩く手を上げて答えると、多少は満足したらしい。
眠るには早いだろうから、窓際の学習机に腰を下ろしたようだ。読書に向かうのが見える。なんだかんだ言いながら、マイペースだ。本当に恐怖を感じているのか、と苦々しい。
けれど、まぁ……役得だろう。俺は雪の存在を確認しながら、夜更かしに身を落とす。あちらは物語だろうけど、こちらは写真集だ。こうして時間を共にしているのは、悪い気はしない。
雪も風呂は明日の朝に回すことにしたのか。二十三時を過ぎたころ、部屋の電気が落ちた。月明かりの中に浮かぶカーテンの向こう側は神聖な空間みたいで、いつまでも見ていられそうだ。
とはいえ、ずっと見ているわけにもいかない。こちらも寝る準備をしてベッドへ入る。静けさに身を横たえた。雪はもう寝入っただろうか。何かあったらすぐに起きられるように、と意識が眠気を遠ざける。
何もないだろうけれど。けれど、ユマなぞという人物に遭遇した記憶が警告を発していた。あれは俺の恋のキューピッドになると言っていたけれど、雪のことも見ていたはずだ。何かがないとは断言できそうにない。
こうして冷静になると、今更ながらに怪奇現象の異質性が際立ってくる。天使と会ったなんて頓珍漢もいいところだ。誰が信じるというのか。きっと雪は信じてくれるだろうけれど。だからといって、不安を追い出せるわけではなかった。
それに、雪を不安に巻き込みたくもない。やっぱり、一人にするべきではなかっただろうか。雪に触れ続けるのは、自分の理性が信用ならない。けれど、こうして心許なさを覚えれば、俺だって雪を求めてしまう。俺たちはお互いにそういう関係に慣れきっていた。
一人にさせたくないし、一人になりたくない。これは依存だろうか。大仰な発想には失笑が零れた。雪も一緒にされたくはないだろう。寝付けぬ夜のふざけた思考に振り回されるもんじゃない。ちょっとばかり、センチメンタルがすぎるというものだ。
現実問題、俺たちは各々の時間を持っているし、それがなくなることも考えられない。これを依存とまで言い切るのは、自意識過剰だろう。そんな思考を振り切るように、寝返りを打った。
閉じたままの瞼の中に黒い影が落ちたような気がして、ゆるりと目を開く。窓越しに浮かぶシルエットに、すわ雪かと俺はベッドを飛び降りていた。
しかし、改めて窓を開いたところで浮かんだ人影は雪ではない。シルエットこそよく似ているが、闇夜に流れるのは月光を吸い込んだ金髪。その持ち主であるユマは、俺と雪の部屋のベランダの間。その空中に浮かんでホバリングしていた。
「うわっ!?」
わざとらしいくらいの声が出た俺に、ユマが目を見開く。お前が驚いてんじゃないという苛立ちは、しかし次の瞬間勢いよく開かれた窓に意識を奪われた。
「佳臣」
俺の悲鳴を聞いて、颯爽と現れた雪のなんと気高きことか。紛れもないヒーローだった。
ひとまず、リビングにユマを呼び込んだのは、あんなところにいられて幽霊騒動なんぞ起こされては堪らなかったからだ。ユマは奔放に、あのまま会話を始めそうだったので、引っ張り込む他になかった。
ダイニングテーブルでユマと向かい合った俺の隣には雪がいる。椅子の距離が随分近くて、女子の――雪の香りがした。
雪は抗議するみたいに、ユマから視線を外さない。まるで縄張りを侵された猫だ。ついでに言うと、先ほどのまでの威勢のわりに俺にべったりなのも、高いところに上るだけ上って降りられなくなった猫のようだった。
腕に縋りついてくる弱腰っぷりが、可愛すぎてくらくらする。雪の態度ばかりに気を取られていたのは、現実逃避だったかもしれない。
「綺麗なお部屋ですねぇ」
「そりゃどうも」
最上級に空気の読めないらしいユマは、のんびりと目を巡らせている。雪からの熱視線も意に介していないようだ。
「……あなた、何?」
だんまりを決め込んでいた雪がおもむろに口を開く。いくらかトーンの低い声は、どうやらお怒りのようだった。
「何、とはまた随分直裁ですが、気持ちのよい端的さですね。話が早いのは嫌いじゃありません。あたしは天使。天使のスタリィ・ユインティグ・ラギュサンス・ユマと申します。そちらの……佳臣さんとは数時間ぶりの再会です」
雪の目がこちらをなぞる。どうにも落ち着かない。浮気を責められているような気持ちになった。
「言っただろ。変なやつがいたって」
「変だなんて失礼ですね。あたしは立派な天使だというのに!」
「清楚系」
「やめろ」
心なしかジト目な気がして、身を捩る。雪は手放してはくれなかった。
「清楚系とは何のお話でしょう? そちらの雪さんのことを言っておられるんですか?」
「それはいいから! 何しに来たんだよ、お前は」
強引に話を逸らす。雪が清楚系だなんて暴露話に加担するわけにはいかない。エロ本を持っていることには鷹揚でも、自分がその対象にされているのでは話が変わってくるだろう。俺は雪に幻滅されたくはない。
「行くところがなくてですね。佳臣さんを頼ろうかと思いまして」
「意味が分からない」
「いえ、あたしは野外でもちっとも気になりませんし、問題はないのですが、そういうわけにもいかないというのが上からのお達しでして……こちらにいる間は人間に紛れて当たり障りなく生きるように言いつけられているのです。ですから、そのために頼れそうな方のところにやってきた、という次第であります」
「助けないぞ」
人であるなら、もう少し考えた。俺はそこまで非道ではない。だが、天使なんて未確認生命体――幽霊の類か。とにかく、そんなものを家に匿う趣味はなかった。
「夕方のお話は覚えておられますか?」
「は?」
「佳臣さんの願いを叶えてさしあげますというお話です」
「頼んだ覚えはない」
「ですけど、肝心の部分を否定もされませんでした」
何が楽しいのか。満面の笑みを浮かべて雪をチラ見する。意味ありげにも取れる視線の運びに嫌気が差した。
「だから?」
「ですから、手助けしてさしあげようと決めました。そのためにも、ここで匿っていただければ幸いだという考え、こうして馳せ参じたのです。近いほうが都合がいいですので」
「ダメ」
俺が頭を抱えるよりも先に、雪が即応する。ユマは拒否される理由がまったく分からないとばかりの顔をしていた。
「雪さんは佳臣さんの願いが叶って欲しくはないのですか?」
「……どんな願いでも幸せならいい。けど、ここに匿うのは了承できない。迷惑」
まったくもって、頼りがいのあるヒーローだ。情けないながら、俺は雪の言葉に相槌で加勢した。
「匿っていただくといっても、食事などは不要ですし、お金がかかるようなことは一切ありません。迷惑行為は致しませんし、そのうえ願いが叶うのですからいいこと尽くめかと思いますけど、一体何の問題があるというのですか?」
一体も何も匿うことが普通に迷惑だ。ユマはそのことには少しも思い当たっていないようだった。天使の常識はどうなっているのか。もはや、天使であるのかないのかというのとは別の点で、問題のある少女だった。
「男女がひとつ屋根の下。問題しかない」
「しかし、先ほどまでお二人は一緒にそう過ごしておいでだったのでは?」
「私たちは特別」
「おい」
突然のことに、思わず突っ込みが口から出てしまった。だって、そうだろう。よりにもよって、その文脈はどう聞いても特別にしか聞こえない。
「佳臣さん、鼻の下伸びてますよ」
「うるさい。黙ってろ」
横柄な言葉遣いにもなる。雪にみっともないところを見られたくはなかった。もう既に散々見られている気もするが、だからこその見栄でもある。
「そんなにムキにならなくてもいいじゃありませんか。特別扱いは大抵の場合、誰にしてもらえたとしても嬉しいものですよ」
それはそうかもしれないが、だからって、やに下がっているところを見られたいとは思わない。隣から視線が刺さってくるのが分かって、思わず雪の顔を覆って遮ってしまった。
「何するの」
「見なくていいから」
余計な言い回しをしている余裕はなかった。だらしのない顔をしている自覚があったのだ。
「ダメなの?」
「ダメ」
「イジワルしないで」
「してないだろ!」
どういう思考回路なのか。慌てて手を剥がした。いくら長い付き合いがあると言っても、こればっかりは読み切れない。俺はエスパーでも何でもないのだ。
雪は自由になったことをいいことに、こちらをじっと見つめる。真っ直ぐなのはいつも通りだが、ときがときだ。ポーカーフェイスとは言わないまでも、顔面が少しは元に戻っていることを祈るしかなかった。
「ポーカーフェイス、下手くそですね」
「やかましい」
「でも、そうですか。ダメなんですね。あたしは天使で雌雄同体なので性別は関係ないのですが、断られてしまったら仕方がありません。それでは、雪さんのお宅にお邪魔するというのはどうでしょうか?」
「ダメに決まってんだろ!?」
「どうしてでしょう? 雪さんだって佳臣さんの願いが叶うのを喜んでくださるのですから、協力してくださるのでは?」
「雌雄同体のやつを雪の家に置けるか!」
つまり、ついてるってことだろ。ふざけるな。思わず下半身を中心的に睨みつける。ユマは相変わらず飄々としていた。
「いやですね。天使を何だと思ってらっしゃるんですか? いくらついてるからって手を出したりしませんよ」
有り体の文句に、雪がこちらに身を寄せてくる。肩を抱いて引き寄せた。
「当たり前のことを言うな」
「だって、佳臣さんがまるであたしのことを獣のようにおっしゃるので弁明しておかなくては、と」
「……とにかく、雪のところは絶対にダメだ。不審人物を置かせるわけにはいかない」
「ですから、あたしは天使だって言ってるじゃありませんか」
「身分証は?」
俺たちが天使を天使と暫定しているのは、流れに過ぎない。イリュージョンを使う不審者の線もまだ残っている。イリュージョンで空中浮遊できるかどうかは知らないが、天使を認めるよりはずっと現実的なはずだ。
「身分証ですか……?」
ユマがぐいーっと首を傾げる。そういう仕草が不審さを高めているのだが、ユマには通じそうにもなかった。少なからず、想定外の思考ロジックであることだけは、はっきりしている。
「証書はありませんけど、こういうのはどうでしょう?」
言うやいなや、ユマは黄金色の光をまとった。夜の帳を照らす光量に目を逸らす。肩に雪の体温が寄り添ってきた。
「いかがですか?」
問われて、光のほうへ目を向ける。一時の輝きからすれば和らいだものの、未だに眩しい。手でひさしを作りながら、様子を窺った。
光の中央に立つユマは、煌々と光の粉を散らす。そして、純白の羽根を広げて、頭上には光の輪を冠していた。ふわりと足元が浮いている。その姿は天使としかいいようがなく、俺と雪は唖然とした。
きらびやかで厳かな雰囲気に飲まれていたかもしれない。俺と雪が揃って使い物にならなくなった数秒。その間に、ユマを包んでいた光は収束した。じきに羽根も輪っかも消え去り、ただの人間に戻って床へ着地する。部屋も何事もなかったかのように、電灯が点るただの室内へと戻った。
「長くは持ちませんでしたけど、それでも信じていただけたでしょうか?」
お伺いのていは保たれていたが、その口調は確然としていた。信用されるに違いないという自信に満ちあふれている。
正直に言えば、信じられるものではない。それは信用ならないという意味ではなく、超常現象として受け入れがたいという意味だ。どこかで人間の可能性を信じていたものが覆されて、信じられない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます