第三話
結局、雪に追いつくことはできなかった。あの妙な子の相手をしていたせいだ。
ゆらゆらと揺れる金髪は沁みひとつない芸術品のようだった。綺麗な子だっただろう。いかんせん、意味不明さと摩訶不思議な空中浮遊ですべてを台無しにしていたけれど。少なくとも、一度見れば忘れることはないだろう見目だ。実際、俺も帰り道の最中、ずっと彼女のことを考えていた。
同時に、気持ちを伝えるということがぐるぐると脳内を回っている。
俺にとって、それは決して簡単なことじゃなかった。生まれたときから幼なじみの雪の存在は大きい。いつから思っているのかと聞かれても分からないほどに、そばにいるのが当たり前だった。
きっかけはあっただろう。けれど、それは端から気持ちがあってのことなのか。純粋にそれだけがきっかけなのか。判別ができないものだった。それくらい、俺にとっての雪は自身に寄り添っているもので、気持ちも重い。
あの子が促したように、おいそれと口にできるものではなかった。そこには愛情があれば、性欲もある。そのすべてをぶつけるには、幼なじみでいすぎてしまっていた。
益体もなく考えていると、見慣れた一軒の我が家が見えてくる。俺はその前を素通りして、隣家のインターフォンを鳴らした。ほとんど間を置かずに、玄関の扉が開く。
「おかえり」
「ただいま」
当然のように招き入れてくれる雪に挨拶を返しながら、玄関を跨ぐ。
幼なじみの関係が続くかどうかは自分たち次第だが、生まれながらの幼なじみになるには環境が大きい。うちは両親の仲がいい家族ぐるみの付き合いだった。お互いの家を行き来するのも日常茶飯事だ。
「これ」
「ありがとう。何もなかった?」
リビングに入りながら、こちらを窺ってくる。雪の瞳はいつも真っ直ぐで擽ったい。家の中でこれを向けられると、堪らない気持ちになった。
「変な子がいたよ」
「変な子?」
「うん。金髪白ワンピの美人」
荷物をソファに置いて、何気なく零す。隣に立った雪が、こちらを見つめていた。
「何?」
「清楚系?」
何が気になっているのか。眉を寄せると、同じように眉を顰められてしまった。何かろくでもないことを考えちゃいないだろうな。
「だったら?」
実際は電波系だが、当人の主張は天使だ。清楚系だろう、多分。
「佳臣のタイプ」
端的に突かれて、頭を掻いた。この心当たりはひとつだ。
「それ、やめろ!」
「どれ……?」
「忘れろって言っただろ」
「佳臣が悪い」
「ああ、そうだな! 迂闊だったのは認めるから、頼むから引き合いに出すな」
これだけプライベートを侵食している。家の行き来に抵抗もなければ、互いの部屋も同じことだ。エロ本を発見されたのは、一ヶ月ほど前のことだった。
雪は俺の好みが判明して、それを茶化しているだけなのかもしれない。でもな、とその姿を盗み見る。
黒髪ロング。着替えた私服は膝丈のシンプルなワンピース。飾り気はないが、元からの美少女はまごう事なき清楚系だった。
いや、仮に服装が清楚系でなくとも、エロ本の被写体と雪は雰囲気がよく似ている。そういうつもりで選んでいたし、そういう目で見ていた。雪に言えるわけもない。とにかく居たたまれなかった。
まだ何か言いたげな雪の視線を振りほどいて、制服の袖をまくる。
「ほら。夕飯は? どうする?」
「また冷蔵庫の中のもの使って」
「何が食いたい?」
「お肉」
「肉食女子め」
「意味が変わるでしょ」
「手伝えよ」
「いいの?」
石谷家のキッチン。そこに置かれてある自分のエプロンを手にしながら、遠い目になった。
「……テーブル拭いて、食器を出す」
「馬鹿にしてる」
「してねぇよ」
馬鹿にならないのだ。雪の料理スキルは。暗黒物質を精製することが発覚して数年が経つ。雪の腕は一向に上達していない。おかげで雪の両親がいないときは、俺が石谷家の料理番になっていた。
俺たちが高校生になってからおじさんが単身赴任となり、おばさんがそちらに顔を出す日も増えている。そうなると、俺の出番も増えて、雪と一緒に食事をする回数も増えた。うちの父も忙しい。残された俺たちは肩を寄せて日々を過ごしているというわけだ。
冷蔵庫には、それなりの食材が揃えられている。この辺りは、親同士で折衝が行われているらしいので、俺は遠慮なく物色した。肉料理。生姜焼きと味噌汁。漬物の買い置きもあるので、これでいいだろう。
さくっと決めて手を洗っていると、雪がキッチンへ入ってきた。髪を取りまとめてポニーテールにする。白いうなじに後れ毛が垂れていた。普段目に入らない箇所に視線が吸い寄せられる。そこにほくろがあることは、きっと雪ですら知らないはずだ。
まじまじと見つめていると、ほくろが視界から外れる。雪がこちらを振り返って、腕に寄ってきた。とくんと呼吸が止まる。意識が逸れていた間に落ちかけていたシャツの袖を雪がまくってくれた。
「悪い。サンキュ」
「ご飯のためなら安い」
緩く笑う雪が、しっかりとまくり上げて離れていく。表情の薄い雪の笑みは、破壊力が凄まじい。不意を突かれると、未だに慣れない。永久に慣れないような気もしている。
募りゆく感情が、それを伝えろと迫ったユマを否が応でも思い出させた。苛立たしい。そして、その女の一番の特徴だろう浮遊について……天使という世迷い言について、俺は雪に伝えそびれてしまった。
重要とは思えない。いくら幼なじみでも、身に起こったことを一から十まで共有するわけではない。しかし、このときばかりは少しだけ、秘密を抱えたような気持ちになった。
夕食を取って後片付けを終え、一緒に宿題をする。なんとも健全な付き合いだ。
こうして九時を回るころ、俺は自宅へと戻ることにしている。本当はおばさんが帰ってくるまでいるべきなのだろう。しかし、おばさんは夜勤の日もある。その夜までも、ここに居続けることはできない。
こればかりは、いくら両家の親が納得していようとも頷けなかった。俺たちはもう高校生だ。性差なんてさほど感じずにやってきた小学生のころとは違う――思えば、俺はそのころから、もうとっくに雪を意識していたけれど。
「じゃ、帰るわ」
「うん」
雪は毎晩、戸締まりも兼ねて俺を見送ってくれる。律儀なことだ。
「おやすみ」
靴を履いて、いつも通りの挨拶を残した。しかし、雪の返事がない。振り返ると、雪が胸元を押さえてこちらを見上げていた。昔からの癖だ。成長するたびに、俺がどぎまぎしているのを雪は知らないだろう。
「どうした?」
「……写真」
「写真?」
「羽根の」
「ああ……あれが?」
「私、大丈夫だよね?」
分かりにくいやつだ。不安げな瞳が揺れていた。
「大丈夫」
根拠はない。特異体質を伏せたままのユマの姿がよぎらなかったわけでもない。けれど、要らぬ不安を与えたくはなかった。
雪は一人の夜に膝を抱えるほど寂しがり屋でもない。悠々自適に読書に興じて寝不足になるようなやつだ。何なら起こしに行った俺の前ですらマイペースに寝こけている。
だから、こんなふうに言うのは結構珍しい。支えてやりたくなるのが男心だろう。ましてや下心があればなおのことだ。
「なんかあったらすぐ呼べばいいだろ」
「なんか……」
「あったら! ないだろ」
「根拠ない」
不安ではあっても、冷静で参る。そう易々と支えさせてくれない程度にはしっかりしているのだ、雪は。
「しょうがないだろ。こっちにいるわけにもいかないんだから」
「どうして」
「あのなぁ」
さすがに、雪はそこまで鈍感だと思わない。それこそエロ本どうこうという年頃になっているのは分かっているだろう。そのうえでの発言は非常にたちが悪いとしか言いようがなかった。
そして、俺の良識はあっさりと一蹴される。
「問題ないでしょ?」
「あるだろ!?」
「ない」
「あるわ!」
淡々と繰り返されて、こちらばかりが声を荒らげる。
そりゃ、ここに残ったからといって、同じベッドで寝るわけでも、一晩中同じ部屋にいるわけでもない。客間があるのも、そこに予備の布団が用意されているのも知っている。それでも、万が一がないと言い切れるほど、俺は自分を信用していなかった。
俺がどれだけ――。
「ひとりにするの?」
思わず、ため息が零れる。
それを言われると弱い。一緒にいようと、まだ小さなころにした約束が蘇ってくる。大事にしたいことが多くて、雁字搦めになりそうだ。長い年月を共にするということは、こういうことなのだろうか。
「ベランダのほうが近いだろ」
俺と雪の部屋は、ベランダを挟んで隣り合っている。昔は糸電話を張ったりしたこともあるくらいだ。成長するにつれて、うっかり着替えなどを覗かないようにと気を張ったりもするようになった。それくらいに近い。
今の俺なら、その気になれば飛び越えて侵入することも不可能ではないだろう。もしかすると、運動神経が野生動物並みの雪も可能かもしれない。つまり、同じ家の自室と客間の距離よりも、隣家の自室同士の距離のほうが近かった。
雪は無言で目を伏せる。その指先がもぞもぞと動いていた。胸元を握りこむのも癖だが、その余波か何か。指先が動くのも、その一種だ。仕草を知ってるがゆえに、俺は思っている以上に雪に甘い。
「雪」
呼びかけると、視線が持ち上がる。その前髪を避けて額に触れると、腰を屈めて額を合わせた。近くで見る猫目は揺らめいている。まつげが長い。
「なんかあったらすぐに行くから、安心しろ。俺がこういうことで、嘘ついたことあるか?」
ふるりと小さく首が左右に振られた。些末な嘘や冗談くらいなら、談話の合間につくことはある。でも、雪を裏切るなんてことはしたことがない。
「大丈夫だから、ちゃんと戸締まりして部屋にいろよ。カーテン開けてろ。見ててやるから」
「覗き見」
「お前なぁ」
「嘘」
雪の目元が緩む。そして、また少しだけ目が伏せられた。至近距離でそうされると、あまりにも無防備で心臓がきゅっとなる。それだけで十分だったのに、雪は俺のワイシャツの腹部を緩く引いた。
無造作に額を合わせている俺が言うことじゃないんだろう。けれど、これは幼いころからのやり方で、俺が彼氏的な行動を気軽に取れるわけじゃない。無邪気な接触が多い雪には翻弄されていた。
「……ありがと」
「ドーイタシマシテ」
こんなふうに感謝されると面映ゆい。上目遣いでじっと見つめられて、俺は額を離して距離を取った。そのまま視線を逸らそうとしたが、乱れている前髪が気になって整えてやる。しなやかな毛触りが柔らかくて気持ちがいい。
「じゃあな。おやすみ」
「……おやすみなさい」
まだ少し、表情が冴えなかった。これを見分けられるのは俺くらいだろうな、と優越感に浸る。
最後に頭をぐりっと撫でると、僅かに頭を押しつけられた。こいつは。さらさらと何度か撫でて手を離す。頬に緩い桃色が滲むのを目視して、踵を返した。
謎のユマなんて生物と別れるのとは訳が違う。後ろ髪は大いに引かれた。それでも、これは互いの安全のためだ。こうした些細な接触だけでも、ドキドキさせられている。一晩中なんて、そんな無体なことは勘弁して欲しい。
半ば、自分の安寧のためかと失笑しそうになった。
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