第二話

「あ」


 下駄箱について、ぽつねんと落ちた声に顔を上げる。雪が靴を持ったまま立ち止まっていた。


「どうした?」

「文庫本を置いてきちゃった」

「持ってんじゃん」

「もう一冊あったの」

「分かった。取ってくるよ」

「そんなつもりじゃない」

「いいから」


 雪が本を忘れてくる。どうやら、思ったよりも動揺していたらしい。戻るのは気が進まないのだろうくらいは察せられた。

 雪が困り眉になる。人を引き留めるのに、その表情は逆効果だ。少しでも楽をさせてやりたい気持ちになった。


「先に帰ってろ。すぐ追いかけるから」

「佳臣」

「ん?」

「気をつけてね」

「大丈夫だよ」


 いじらしい言葉に心が癒やされる。なんて贅沢なのだろう。俺は雪に相槌を打って、屋上へと急いだ。

 夕日の差し込む校内に、ひとけは少ない。オレンジ色の影に飲み込まれるように先を行く。逢魔が時だとよぎったのは、雪が心配してくれた影響かもしれない。今更になって、じわじわと自分の撮ったものの不審が増長されていく。俺もそれなりに動揺していたようだ。

 屋上のドアノブに手をかけたときには、思わず一拍を置いてしまった。呼吸を整えて、扉を開け放つ。

 吹き込んでくる風に眇めた視界の中で、純白の羽根が舞っていた。その中央に、白いワンピースに身を包んだ金髪の少女が佇んでいる。スポットライトが当たっているかのように目立つ少女の手には、一冊の書籍が握られていた。美しい少女と本の組み合わせには、既視感を覚える。

 金髪少女の目がゆるりと移動して、こちらを捉えた。青色の瞳が妖しく輝く。後退してしまったのは、その厳かな雰囲気に圧倒されたからだ。一方で足があることを吟味する冷静さもあったのは、パニックだったかもしれない。


「あの」

「はい!」


 外国人のような見た目とは裏腹な快活な日本語。偏見があるわけじゃないが、驚きはする。勢いのよさにも面食らってしまった。


「その本」

「はい。これ、彼女の忘れ物ですよね」

「はぁ……まぁ」


 警戒心が跳ね上がる。さっきまで、ここには誰もいなかった。俺と雪がここにいたことを知っている人がいるはずがない。そもそも、どう見ても部外者だ。どうしてこんなところに、金髪白ワンピの少女がいる。


「あたし見てたんです!」

「は?」


 不審を留めておけなかった。思いきりドスをきかせた俺に、少女は太陽のような笑みを浮かべる。金髪が自然発光でもしているかのごとく麗しかった。


「あなたと彼女が話しているところを見てたんです。あそこで!」


 そうして少女が指差したのは、先ほどまで雪が腰を下ろしていたところだ。それはつまり、怪奇現象の現場だった。どうしたって非現実的な思考がもたげる。身を案じてくれた雪の声が耳朶に蘇った。


「……あんた、何者だよ」

「よくぞ聞いてくださいました! あたしは天使です。天使スタリィ・ユインティグ・ラギュサンス・ユマ。あなたの恋のキューピッドにやってきたものです!」

「……」


 は? と呟いたはずの声は音にならない。

 電波少女という文字が頭上に掲げられた。絶句の俺に少女ことスタリィ……ティグ? ユマ? は元気いっぱいに近づいてくる。幻惑するかのような甘い香りがした。

 しかし、ユマの足元……足裏が微妙に浮遊している。それに気がついてしまったら、惑わされるような気分は一気に干上がった。


「あたしがあなたの恋を叶えてさしあげます!」

「結構です」

「どうしてですか!?」


 鼻息荒く詰め寄られても困る。どうしてもこうしても、不審人物――生物だから、という以外に理由はなかった。文言も相当に胡散臭い。下手くそな詐欺師でも、もうちょっとマシな文句を使うだろう。


「あなたは先ほどの彼女のことが好きなんですよね?」


 ぐぅと喉が鳴ったのは無意識だった。得意げなユマの瞳がますますきらめく。星屑をちりばめたような光は、人外めいていた。


「そうなのですね! お気持ちを伝えて恋を成就させるべく、あたしが来たのです」

「……天使って暇なんすか」


 信じたわけではない。とにかく逃げ出したくて、適当に話を合わせた。よく分からん恋愛中毒者の相手はしていられない。


「まさか! 恋のキューピッドがお仕事なんですよ! ですから、あなた――そろそろお名前を伺っても?」

「……」


 胡乱な視線を向けると、ユマはぱちくりと瞳を瞬いた。まさかと思うが、この流れで名前を教えると思っているわけでもあるまいな。


「何を照れてらっしゃるんですか。それともアレですか。彼女以外の女性と仲良くしているのを見られて誤解されるのは困っちゃうとかそういうやつですか?」

「本、返してもらっていいですか」


 理由はそこではないし、いちいち恋愛ごとに絡められるのは煩わしい。俺は話をぶった切って、ユマの手に握られた雪の忘れ物に手を伸ばした。


「あ、ダメですよ。人の話はちゃんと聞いてください」


 ひょいっと軽い調子で避けられた手が宙を掻く。ユマは一メートルは浮き上がって俺を回避していた。大口を開いて、凝視する。豆鉄砲を食らった鳩よりも、よっぽど度肝を抜かれている自信があった。


「……それで、天使がなんですか」

「ですから! 彼女に気持ちを伝えられていますか?」

「それ、あなたに関係あります?」

「大ありです! 成就のためなんですから」

「そういうのは、自分のタイミングで言うんで。返してください」


 きっぱりと言い切ると、少女はしょんぼりと萎れた。同時に、いくらか地面へと降下してくる。本にも手が届きそうだ。俺は少々乱雑に手を伸ばして、本をひったくった。少女は目に見えてへこんでいく。

 可哀想に見えるけれど、こんな頓狂な少女の相手はしていられなかった。雪に追いつかなければならない。俺はさっと踵を返す。廊下で教師にでもあったら、不審人物の報告をしておこう。

 不適切な態度だとしても、放置を決め込むつもりだった。後腐れなく、足を踏み出す。しかし、ユマは俺の頭上を飛び越えて前方に回り込んできた。ぎょっとして、たたらを踏む。天使なんて非科学的な存在を真に受けるわけじゃないけれど、やっぱりこいつは普通じゃなくて怯んだ。

 雪の背景を飾っていた羽根や光の正体がこれだとしても、変じゃないのかもしれない。突飛なことを考えている自覚はあった。だが、そうでもして納めなければ目の前にいる少女の謎性を飲み込むこともできない。

 飲み込む必要もないかもしれないが、どうにかして飲み込まないと訳が分からなかった。いや、全体的にすべて訳が分からないけれど。


「そんなつれないこと言わないでくださいよ! あたしのためにもお伝えください」

「おい」


 聞き捨てならない自分本位な発言に眉を顰める。元より世話になるつもりなど甚だなかったものが、輪をかけて関わり合いになりたくなくなった。


「天使はキューピッドとしてお仕事をこなすことで生まれ変わるんですよ」

「知らねぇよ!?」


 ついぞ、気を遣う余裕が吹っ飛んだ。ユマはそんなことに斟酌するつもりもないらしい。こちらの態度にうるさくないのは構わないが、別の問題が山積みされていて、何の安心要素にもなりはしなかった。


「知らなくても、そうなんですよ! ですので、あたしはあなたの恋を応援します」

「いらないって言ってんだろうが!」

「どうしてですか!? 伝えたいと思う気持ちはあるんですよね?」


 逡巡や情緒を解しない。気持ちがあれば伝えるに決まっている。そう決め込んだような口調にうんざりした。

 伝えることは大事かもしれない。しかし、他人に急きたてられるのは、どうにも釈然としなかった。それも、たった今出会ったばかりの得体の知れない生物に。俺はじとりと天使たる生物を睨みつけて、横にずれて突き進む。

 ユマは今度は眼前を塞ぎはしなかったが、周囲をふわふわと回りながらまとわりついてきた。


「大丈夫ですよ。あたしに任せてください! 悪いようにはしませんから。必ず叶えさせてやりますよ」

「胡散臭い。放っておいてくれ」


 必ず叶える、なんてどこの危ない商法だ。そのうち壺とかお守りとかペンダントとか買わされそうである。そんなものに吐き出すお金はないし、騙されるつもりもない。

 雪との間に他人が介入してくることも、我慢ならなかった。


「そう邪険に扱わないでくださいよ。あたしの力があれば百人力! 頼りになりますから、あなたは大船に乗ったつもりでいてくださればいいんです。そうすれば、彼女とのキャッキャウフフな交際があなたを待っているわけです! どうです? わくわくしてきませんか? 素敵なことでしょう?」


 どうしたらここまで信用ならない地雷ワードを組み込めるのか。次から次へと溢れてくる言葉が、着実に不審の城を立派に育てた。俺はその感情に従って、スルーを決め込む。

 扉のドアノブを掴むと


「あぁ!?」


 と悲鳴のような声がすがってきた。構わずにドアノブを回して、身を捻じ込む。


「待ってください! あたしのお仕事のためにも~」


 みっともないような哀願も、相手が相手では心も動かない。厄介ごとにしかならないのは目に見えていた。


「他を当たってくれ」


 せめてもの捨て台詞を吐いて、俺は屋上の扉を閉める。完全に閉め切るまでユマの声は聞こえていたが、耳が理解を拒んだ。

 宙に浮くような生命体だ。壁抜けでもしてくるんじゃないかとビクビクしたが、その様子はない。扉を開いて追ってくる様子もなく、謎が謎を呼ぶ。しかし、俺にとっては都合がいい。

 雪の本をしかりと握り直して、早足で撤退した。

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