天使の願いは叶わない
めぐむ
第一章
第一話
あの日、俺の前に現れた少女は、紛れもなく天使だった。
屋上を吹き抜ける風が、静かに前髪を持ち上げていく。さらさらと揺れる黒髪が絹のように艶めいていて、目を奪われた。屋上で本のページをめくる幼なじみは、完成された風景画のようだ。
俺はカメラのファインダーを覗き込み、そっとシャッターを押す。シャッター音は静謐な空間にはひどく不躾で、けれど、指先が止まることはなかった。
幼なじみは物音にも介さず、なびく髪を耳にかける。露わになった首筋が白く眩しい。薄らと呼気を吐き出す唇が、差し色となってきらめいていた。かしゃかしゃと鳴り続ける怪音にもめげない集中力が愛おしい。
いつまでも見ていられる。一瞬を切り取ることを趣味としているくせに、矛盾したことを思う。けれども、この魅力には抗いがたい。俺はカメラを構えて、その姿を収めることに夢中になっていた。
画面の向こうに見る幼なじみは、キラキラと輝いている。幻視や錯覚であることは確定的だ。それでも、美しくて目を離せない。キラキラと背景を彩るきらめき。ふわりと舞い踊っているのは天使の羽根か。
自分の幻視もかなりきているな、と失笑が零れ落ちた。
そのうちに、幼なじみの顔がこちらへと向き直る。ファインダー越しに目が合って、カメラを下ろした。
「
桜色の唇がこちらの名を呼ぶ。それを聞きながら、カメラを確認した。そこに映し出された画像に手を止める。
「佳臣?」
再度、名を呼ばれただけだ。けれど、イントネーションで疑問を投げられているのは分かった。
それを分かりながら、返事もせずに写真を送っていく。そこには、キラキラと光るきらめきも、舞い踊る羽根もしっかりと写り込んでいた。そんな幻視までを収めるような能力に目覚めたつもりはない。
「どうしたの?」
カメラと睨めっこをしている間に、幼なじみはそばにやってきていた。下から小さく伸びをして、俺の手元を覗き込んでいる。幼なじみたる
近い。
「これ」
じっと見つめてくる視線を引っぺがすために、見つけた違和感を押しつけるようにカメラを渡す。雪はカメラを受け取ると、それをじっと見下ろした。
「また撮ってたの?」
「ああ」
「これどういう効果?」
ことりと首を傾げると、耳にかけていた髪がするりと落ちる。
雪が見せてくるのは、やはり俺が幻を捉えた画像だった。デジタルに弱い読書家は、カメラの機能か何かだと思っているらしい。スマホのアプリじゃねぇんだから、と突っ込みを苦笑でやり過ごすのはいつものことだ。
「俺がやったんじゃない」
「じゃあ、何これ? ホラー?」
「ホラーにしちゃ和やかすぎるだろ」
「綺麗ね」
「そうだな」
恐らく、雪の言う綺麗には自分など除外されているだろうが、知ったことではない。しれっとした顔で同意しておいた。
雪は不意にカメラを握り直し、先ほどまで自分がいた場所へと構える。釣られるように視線を動かし、その景色を漫然と見つめた。屋上は何の変哲もない。一面の青空を、二人揃って呑気に見つめる。
雪が一度だけシャッターを押して、その写真を確認した。
「何もない」
独り言のように呟いて、カメラをこちらに見せてくる。ぴたりとくっついた腕がほの温かい。
「鳩とか?」
「街中の鳩は鈍色でしょ? キラキラしない」
「……じゃあ、ホラーか?」
お互い、ホラーだなんて本気で思っちゃいないだろう。けれど、奇怪な写真であることに違いはない。雪はまた自分の画像に戻して、矯めつ眇めつを始めた。
「いいアングル。また、上手くなった」
題材がいいからな、とは胸に留める。
そうして、雪の手の内からカメラを受け取った。表示されていた雪の画像に変化はない。キラキラと輝いているし、羽根が舞っている。これを目にしているのが自分だけならば欲目を疑うが、本人にも見えているのだから幻ではないのだろう。
「なんだろうな、これ」
「でも、いい写真」
「まぁ、そうだけど」
まるで天使のような写真だ。いい写真であることは間違いない。
「怖くないの?」
「佳臣の写真が?」
きょとんとした顔には、まっさらな疑義しかなかった。あまりの無垢さに、自分の感性を見失いそうになる。いくら天使みたいな写真でも、分類的には心霊写真の類と一緒だ。気持ち悪いものだろう。不気味だ。
「自分が写ってんだぞ?」
「私のせい?」
「そうじゃないだろうけど」
原因は不明だ。屋上で撮影するのも、雪を被写体にするのも初めてじゃない。どちらかを原因にするには、理由たりえなかった。
「気になる?」
「当たり前だろ」
「もう一回、撮ってみる?」
雪の行動は素早い。俺がカメラを向けていたスポットに向かうと、すとんと腰を下ろした。そして、こちらを見る。その目が俺を促していると分かるくらいには、付き合いも深い。
断る理由もなく、導きのままにシャッターを押した。
「どう?」
風に攫われそうな声が揺れる。写っているのは等身大の雪だけだ。十二分に綺麗な写真だけれど、俺は首を左右に振ることで変化の無を伝えた。
些細なボディーランゲージだ。数ヶ月ほどの交友しかない友人ならば取り違えも起こりえるが、雪相手にその心配はない。案の定、雪はスムーズに戻ってきては
「不思議」
と謎について呟いただけだった。
「冷静だなぁ」
「ビックリはしてる」
そういった雪が、胸元のリボンに触れる。豊満な胸がぽよんと揺れた。視線を逸らして、カメラを弄る。
「帰るか」
「もう、いいの?」
「今日はやめとく」
「そう?」
「ビックリしてんだろ?」
雪は少し言葉足らずで、省略が多い。俺はもう当然のこととして受け入れているから、このビックリにドキドキやハラハラ、恐怖が含まれていることも分かる。だからこその退却だ。不安になると心臓付近に手をやるのも雪の癖だった。
「帰るぞ」
続けて促すと、雪はこくりと顎を引いた。シルクのような黒髪が陽光に照り映える。羽根や光の演出がなくとも、雪は綺麗だった。
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