第四話

 俺たちは四人揃って、絵に描いたような濡れ鼠だった。おばさんには雪を拾ったことを伝えて、俺の家に駆け込んだ。

 まず、雪を優先して風呂に突っ込み、男連中と雌雄同体はタオルでやり過ごす。道中、ユマが天使であることと、願い事の件が交際だと思い込まれていたことを説明してあった。

 隼人の混迷はちっとも引いていないようだが、ひとまず飲み込んではくれているらしい。とはいえ、アプローチをしていた気持ちはたちまち吹き飛んだりはしないようだ。寒くないか、と細やかに声をかけている隼人は、気遣いのあるいい男だった。しかし、扱い方に戸惑ってもいるらしい。


「つまり、ユマさんは佳臣の恋を成就させようとしてたってことか?」

「まぁ、そういうことだな」

「なーるほど。それで、幸せにします! か」


 ようやく納得いったようなのんびりとした声音だった。あのときは、結局隼人への説明も曖昧になっていたはずだ。腹に収めていただけで、本気で納得はしていなかったのかもしれない。その理解をたった今得たようだった。


「そうですよ。あたしが幸せにするつもりだったんです。それなのに~」

「また誤解を招くような言い方をするな」

「恨み骨髄ですよ」

「天使がそんな物騒な物言いするなよ」

「物騒にもなりますよ! あたし落ちこぼれちゃうじゃないですか」

「元々、落ちこぼれ」

「じゃありませんよ!!」


 その否定はどう考えても否定に聞こえてこない。ユマ贔屓の隼人でさえも、訝しげな苦笑いを浮かべていた。


「まったく。これであたしの二週間弱は無に帰したも同じではありませんか。この苦労をどうしてくれると言うのですか」

「苦労したのはこっちな」

「なんでですか!」


 自覚がなくって結構なことだ。迷惑極まりない。顔を顰めると顔を顰め返されて、睨み合う羽目になった。


「でも、本当にどうしてくれるんですか。カップルを成立させないといけないんですよ、あたし。お仕事なんですから」


 仕事と言えば何でも通るわけではない。そもそも天使の仕事という大義名分は、現世的に捉えればただのお節介焼きである。不貞腐れられても困るだけだ。


「自分がくっつけばいいんじゃないか」

「何ですか、その無理な提案は。天使は博愛主義ですし、そもそも天使に色目を使う人はいませんよ」


 俺は思わず隼人を見てしまったし、隼人は生気のない目をしていた。ユマだけは事情を知らずに何食わぬ顔をしている。これを不憫と言わずして何というのか。

 珍妙な空気が流れたところに、


「どうしたの?」


 と雪が戻ってきた。長い髪が湿っている。首にかけたタオルで水滴を拭っていた。貸したシャツは大きかったようで、下は履かずにワンピースとして着衣している。思わず目を覆って、天井を仰いだ。


「俺も大概不憫だなと思ったけど、天根も大概大変だなと思ったところだよ」

「?」

「共感してもらえて何よりだよ」

「何か大変なことがあったの?」


 当たり前のような顔をして、俺の隣に雪が立った。際立って大きいものを渡したつもりもなかったのに、よくワンピースにできたなと賛嘆する。かなり裾の際どい状態だった。


「雪、下は?」

「大きいんだもん」

「だからってな……」

「楽だから」

「それで済んだら理性はいらねぇんだよ」


 ぼうとした顔で見上げられて、頭を抱えそうになる。雪だって、俺に性欲があることも、雪相手に欲求を催すことも理解していないわけじゃないだろう。同衾のときに特別と言ったことはそういう理屈も含んでいたはずだ。

 だが、どういった仕草や格好が男を刺激するのかは分かっていないようだった。彼シャツに情動が走るものだとあまり信用してこなかった俺ですら、ぐっとくるものがある。

 純真なのはどうにかしたほうがいいのかもしれない。この辺りも伝える必要があるだろうか。まさかこんな問題を真剣に考える窮地に陥るとは思っていなかった。


「雪ちゃん、俺もいるからね。もうちょっと気遣ってくれると嬉しいかな」

「そう?」

「俺がズボン履いてないと困るでしょ」

「うん」


 頷いた雪がふらふらと脱衣所に戻っていく。妙に幼い足取りに苦笑が零れた。こういうところは、どうも子どもっぽい。


「大変だったんだな」

「そっちもな」


 奇妙な連帯感で頷き合う。まさかこんなことで隼人と共感をすることがあるとは思っていなかった。


「何の話をしてらっしゃいます?」

「みんな大変だったなって話」


 適当にまとめると、ユマはまた自分が大変だという気持ちがぶり返したようだ。奮起したような顔になった。そして、難しい顔になって、隼人に目を向ける。一体何を考えたのか。やっぱり嫌な予感しかしなかった。


「隼人さんは叶えたい恋はないのですか」


 見たこともないような渋い顔になった隼人が、肩を竦める。それだけでもありあまる諦観を感じ取れたのは、俺だけだったようだ。

 ユマは物堅く返事を待っている。アドバイスになると留まることのないスピードを誇るユマだが、質問のときはその限りではないようだった。


「……なくもないかな?」

「それじゃ、それを叶えることにします! どうぞ、あたしにお任せください」


 前のめりになったユマが、隼人の手を取る。隼人の気力が根こそぎ吸い尽くされていくようだった。お気の毒にもほどがある。


「あー、うん?」

「ユマ」


 引きつった顔であやふやな返事をしている隼人との間に横入りした。視界の端に、雪が戻ってきているのを確認してある。


「シャワー行ってこいよ。まだ濡れてるだろ。タオルとか着替えとかは置いてあるから適当に使え」

「あ、はい。お借り致しますっ」


 隼人の恋を叶えることはユマの中では決定事項と扱われていそうだ。そんな危惧は消えなかったが、ひとまずは遠ざけることはできた。

 ユマが去ってしまったところで、隼人が思いきり肩を落としてずるずるとそのまま床へ座り込んだ。


「えー?」


 困惑を極めた呻き声には、肩を叩いてやるしかない。虚ろな瞳がこちらを見上げた。


「そこまでマジだったのか?」

「マジだったよ! いや、マジだよ!?」

「雌雄同体だけどな」

「はぁ!?」


 語気を荒らげられて、しまったと臍を噛んだ。天使だとは説明していたが、より混乱を招きそうな情報はそぎ落としておいたのだった。俺とユマの関係値を説明するのに、雌雄同体であることは無関係だ。

 口にしてしまったことに、雪が咎めるような視線を向けた。


「でも、どっちでもあるから」

「フォローになってんのか、それは!? ええ」


 隼人の軸がぶれるのが分かる。この男は、ヘテロの遊び人だ。差別をするようなタイプかどうかは知らないが、少なくとも同性は恋愛対象にはなっていないだろう。というかこの場合、差別がどうとか同性愛がどうとかよりもまたハイレベルな視点な気がする。

 俺だって、とても考えが及ばない。雪以外を考えようという気持ちがないので、要らぬ要点だったが。


「大丈夫? 大内君」

「……多分な」

「叶えてくれるって言うんだから、いいんじゃないか?」


 励ますように捻り出した言葉は、我ながら軽率だった。それはまったく脈のない現状がどうにかなるだろうという甘い見込みだ。

 けれど、隼人は何かを思いついたかのように生気を取り戻した。


「……叶えるために力添えしてくれるんだよな?」

「まぁ、そうらしいな」

「ユマさんは、何をしてくれた?」


 腕を組んで、眉を顰めてしまった。そりゃ、そうだろう。ろくな記憶がない。提案はあったが、実行力はなかった。


「ダブルデートは隼人の案だろ?」

「あ、そういうことか。ユマさんもすごい乗り気だったから、あれもユマさんの成果だろ」

「そっからギクシャクしてたけどな」


 ちらりと雪を見下ろすと、ぐっと肩を縮めていた。別に責めちゃいないし、どっちもどっちの案件だ。俺はとんとんと頭を叩くように撫でておいた。雪の力が抜ける。


「でも、その結果そうなってるわけだろ」

「結果か?」

「結果なんじゃないのか? 知らねぇけど。今までそんな感じじゃなかっただろ。いや、俺が両片想いじれったいわ、と思ってたから違って見えてたのかもしれないけど」


 隼人の言葉に顔を見合わせる。そう言われれば、紆余曲折を経たが、雪に気持ちを伝えられたのは事実だ。少しは感謝をしたほうがいいのかもしれないと、急激にげんきんな気持ちが湧き上がってくる。手のひら返しもいいところだろうが。

 俺たちのアイコンタクトだけで、隼人は察するところがあったのか。天を仰いでぽつりと零す。


「でも、そうか。叶えてくれるんだな」


 しみじみとしたそれが、リビングに溶けていった。こう訳もなく……いや、一応手柄はあるが、それでもこう簡単に納得されると、途端に逆張りをしたくなる。ポンコツだぞ、と余計な言葉が喉元まででかかった。


「頑張るか」

「……ユマの何がそんなによかったわけ?」

「一目惚れは信じねぇって?」

「そういうわけじゃないけど」


 それでも、天使だなどと聞いてなおも執着するほどのインパクトがあるものかと疑念が拭えない。どちらかがどちらかを助けただとか。そういった劇的な出会いってわけでもなかった。否定するつもりはないが、理解も苦しいというのが本音だ。


「ユマさん、いい子じゃん。明るいし、無理なくはしゃいでくれるし。一緒にいて楽しいよ。ダブルデート、俺たちだって楽しんでたんだぜ?」

「……そうかよ」


 それを言われてしまったら、俺には反駁のしようがない。


「だから、アプローチしてこうかと思って」

「禁断の愛?」

「それか」


 雪の相槌に苦笑が零れる。そういえば、そんな気概があるのかどうかなんて失礼な話もしたものだ。


「そんな大仰か?」

「大変そう」

「でもまぁ……いいんじゃん?」

「お前、人ごとだと思ってるだろ」

「それはあるけど。本人が手伝ってくれるってんだから、いいじゃん」

「それが難問なんだけど」


 現在の不遇を思い出したかのように、隼人の顔が渋くなる。確かに、今の隼人に成功の勝ち筋は見つけられそうにもない。それでも、諦める気はちっともないようで、妙にあっけらかんとした顔色でいた。

 この覚悟は感服する。


「頑張れよ」

「手伝ってくれるよな?」


 当然のように見上げられて、眉を寄せる。拒否するほどのことではないが、かといって一切の躊躇なく頷けるかどうかは微妙なラインだ。何より、さも当然な言い様はいかんともしがたい。

 そういった心情を、隼人はある程度予測できたようだ。


「俺だって協力してただろ」

「ほとんどただユマとデートしてただけだろうが」

「頼むよ!」


 恥も外聞もなく足元に縋りつかれて、ぎょっとした。まさかここまでするとは思わない。恋は盲目。それにしたって、この執念には圧倒された。


「分かった! 分かったからやめろ」


 俺の家だ。別に人目があるわけじゃない。けれど、どうにも居心地が悪い。慌てて肯定を返すと、隼人の顔がにんまりとした笑顔になる。こいつ、図りやがったな。と即座に理解したが、


「私も協力するからね」


 と雪が口を出したところで、余計な文句を控えた。


「よろしくな、人騒がせバカップル」

「お前、面白がってないか?」

「そりゃ、そうだろ。だって、天使だぞ?」


 改めて、荒唐無稽な話だ。それを馬鹿正直に信じて、こうして関係を築いてしまっている。そのうえ、隼人は更なる深みに嵌ろうとしているのだ。

 確かに、笑えてくる。隼人の空笑いをきっかけに、俺たちはじわじわと笑いを綻ばせた。それはじきに堪えきれないものとなり、声を出して笑い合う。

 一体感のある歓談に、ユマが戻ってきてぽかんとしていた。


「あー、ユマさん」


 隼人がなんとも飾り気なく声をかけて立ち上がる。


「これからよろしくお願いしますね」


 恋に前向きなその発言の本当の意味を解していないユマの顔が輝く。状況を理解していないくせに、レスポンスだけは抜群だった。


「もちろんです! お任せください。あたしにかかれば隼人さんの恋もきっと叶えてみせますとも!」


 両手で拳を作って意気込む。その噛み合わなさに俺と雪は笑いが耐えられなかった。クスクスと声を上げて笑う雪は貴重だ。それだけで、すべてのことを許容できてしまうくらいに心が安らぐ。

 湿った髪に指を通して梳くと、雪はますます擽ったそうに笑った。本当にこれだけでいくらでも感謝ができる。たとえ迷惑がほとんどだったとしても、殊勝な気持ちになるものだ。


「ユマ」


 声をかけると、隼人に詰め寄っていたユマが邪魔立て無用とばかりの顔をする。苦言を呈するとでも思っているのだろう。それは日頃の行いのせいだろ。しかし、こちらが口うるさいと思われているのも日頃の行いの結果だろうと飲み込んだ。


「一応、お礼を言っとく」

「ありがとう」


 雪がすぐに続いてくれて、間が埋まる。

 ユマは一瞬ぽかんとアホ面を晒して、それからこちらに飛び込もうとしてきた。広げた両手の行く先は雪で、俺は額を押してセーブする。


「心狭いですよ、佳臣さん」

「言いたい放題、やりたい放題だって言ったのはユマだろ」

「今までちっともそんな素振りなかったくせに!」

「開き直ってきた」


 また時間が経過すれば、状態は変わっていくのかもしれない。でも今は、正直に雪を寵愛できることが心地よかった。もっと早くこうしていればよかったと、今になれば思える。気恥ずかしさなど、雪の笑顔を得られるのならば安いものだ。


「何なんですか。ずっと付き合ってたくせに」

「どういう文句なんだよ」

「解き放たれたことにもう少し感謝してくれてもいいじゃないですかね!?」

「だから、感謝してるって」


 そう感謝されていたことを忘れていたかのように、ユマの顔がまたしても輝き始めた。そして、また飛び出してこようとする。俺もすぐに半歩引こうとしたが、それを先読みしたみたいに雪に腕を引かれた。

 そのやり取りに、ユマも察したらしい。それから、ぐむむと一度言葉を飲み込んでから、わっと大口を開く。


「ラブラブで何よりですよ!!」

「ありがとう」


 今度こそ、ユマは言葉にならないような顔をした。


「複雑です~~。あたしの成果にならないのに~」


 それでも、喜んでくれているらしい。さすが天使と呼ぶべきか。ユマは善良ではある。


「次は頑張れよ」

「ムカつきますけど、頑張ります。隼人さん、絶対にあたしが幸せにしてみせますからね」


 俺たち二人に躱され続けていたユマが、隼人の両手をぎゅっと握りこんでいる。その言葉と行動だけで、もう十分隼人は幸せなのではないか。実際は困り顔半分だったので、その本心は探りようがないけれど。

 ただ、やっぱりすべてがズレているのがおかしくて、笑いが堪えきれなかった。釣られるように笑った雪と隼人から、ユマにまで笑いが伝染していく。

 ちっとも分かっていないくせに笑っている天使はポンコツで、やっぱりどうしようもねぇなと雪とアイコンタクトを交わした。

 雨上がりの夕暮れのことだ。

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