第三話
思いついた途端、ユマを置き去りにして公園に向かって駆け出す。もう傘は役に立っていなかった。ユマがついてきているのかも把握せずに、一直線に突き進む。
すぐに公園にたどり着くと、ぬかるんだ地面を踏みつけて中に入った。一見できる箇所に雪の姿はない。公園は広いものではないから、普通なら一見で見つからなければ見逃すところだろう。だが、俺は分かっている。ベンチの裏。そこに茂みがあるのだ。
近づいて覗き込もうとして、茂みの中から飛び出す金髪にざっと血の気が引いた。がさりと草を掻き分ける。隼人のブレザーを頭にかぶせられた雪の姿を見て、引いた血が一気に頭に上った。血液の激流に目の前が明滅する。
いちもにも考えるまでもなく、雪の手を引いていた。落ちたブレザーがぬかるんだ地面に落ちて、濡れていく。呆然としている隼人の顔はフィルターがかったようにぼやける。
雪の肩を抱くのに、傘を投げ出していた。雪の華奢な身体がひんやりとしていて、それを温めるようにきつく抱き寄せる。こんなことなら、少しでも濡れないように気を遣えばよかった。
「佳臣?」
久しぶりに名前を呼ばれて、ただそれだけのことに胸が満たされる。不覚にも泣きそうになって、誤魔化すように肩口へ鼻を埋めた。雨水の匂いに混ざって、雪の華やかなシャンプーの香りがする。
「雪」
呼び返しただけで、もう通じ合ったような気がした。けれど、そいういうわけにはいかない。気持ちを伝えなければ、元の木阿弥だ。息を吸おうとしたところで、雪の手が背中に回ってきて、息が止まった。ぎゅうと抱きつかれて、胸元に顔を埋められる。
「ごめんなさい」
か細い声は土砂降りの隙間を縫って耳に届いた。雪の声なら、どんな場面でもきっと逃がしはしないだろう。丁寧な口調が胸に染みた。
「俺も。ごめんな」
「ううん」
「雪だけだからな」
こうして触れているのだって、考えているのだって雪だけだ。他のなにものにも代えがたい愛しい存在だった。
それをじっくりと満喫しているうちに、肌にぶつかる雨の勢いは弱まっていくのを感じる。今更そんなもので何が変わるわけじゃないけれど、雪がこれ以上冷えなきゃいいと考えていた。
「私も」
「分かってるよ」
「うん」
しっとりと二人で濡れていくのも、悪くないとすら思える。
「好きだよ、雪」
顔を見ずに伝えるのは、少し卑怯なような気がした。けれど、俺には精一杯で
「私も好きよ」
と答えを聞いたことで肩の荷が下りた。ここ一週間、靄がかかっていた心が瞬く間に軽くなる。
ようやく少しだけ抱擁を緩めると、雪の顔が赤く染まっていた。きっと自分も同じような顔をしているだろう。耳が熱かった。目が合うとはにかまれて、一息に照れくささが噴出する。
いつの間にか、雨も小降りになっていた。俺の心が晴れたことに連動しているようだ。まぁ、ただの通り雨という話だろうが。
「ちょっと、お二人とも!」
しとやかな時間に、奮い立った声が割り込んでくる。雪と抱き合ったまま、そちらに目を向けた。
小雨の中で、ユマが仁王立ちしてこちらを見ている。さっきまで謝罪をしたいなんてしおらしいことを言っていたのに、今やその面影はなかった。俺にアドバイスしてきたときのテンションだ。空気を読め、というのは言うだけ無駄だろう。
とりあえず、俺たちは控えめに距離を取った。そのままというのは気まずい。隼人の存在も思い出して、友人に抱擁を見られる気恥ずかしさに襲われた。それは雪も同じのようで、離れるタイミングも同じになる。下手に拒絶したようにならなかったことにほっとした。
「聞いてますか、お二人とも!」
聞きたくないな、というのが正直な感想だ。その心情も一緒だったようで、俺と雪は目配せを交わした。
「……何だよ」
勢い任せに一人でしゃべり倒せばいいものを、ユマは律儀に返事を待っている。俺が代表して返事をすると、ユマの表情が迫真になった。少し遠くにいた距離を一足で詰め寄られる。
思わず半歩を引いて、雪のそばへ寄った。ユマは俺の手を取ったりはしなかったが、威勢よく口を開く。
「どうしてそこまで言っておいて! 付き合ってくださいというお話にならないんですか! 雪さんだって、求めたっていいはずです。お二人とも欲がないんですか。是非、カップルに昇格してください。するべきです! こういうのは普通、そうすべきです」
手をグーに握りこんで喝破する。ユマはその勢いのまま、ぐりんと隼人を見据えた。すっかり蚊帳の外だったところを巻き込まれた隼人は、露些かも流れが読めていないようだ。
「隼人さんもそう思いますよね!?」
「あ、ああ、うん」
かぶりつくように叫んだユマに、隼人は勢いに飲まれたように肯定の相槌を漏らした。本心かどうか怪しいが、肯定は肯定である。ユマは同意者を得て、ほれ見たことかとばかりの表情で俺たちに向き直ってきた。
小鼻を膨らませた姿は得意満面で、失笑になる。
「だから、それは」
「だから!? またそれですか。だからじゃないんですよ! 何度言わせるんですか。そんなに否定することないじゃありませんか」
このヒートアップには、散々悩まされてきた。俺は嘆息して、それから雪と目を合わせる。雪が不思議そうに首を傾げた。雪は結局、ユマの最終目的は知らないままだったのか。それとも分かったうえでの疑問なのだろうか。
そりゃ、疑問も出るよなぁと額を押さえて項垂れた。
「佳臣さん?」
俺があまりにも呆れた態度を取るものだから、さすがのユマでも引っかかったらしい。勢いが削がれて、こちらの様子を窺う顔になった。ようやく聞く耳も持つ気になったようだ。
俺はやっとの思いで口を開いた。
「だから、俺たち既に付き合ってるし」
「はぁ!?」
ぽかーんと大口を開けたのはユマで、そこにアテレコするように叫び声を上げたのは隼人だ。二人で一人前みたいな驚愕の反応をした二人に、雪と二人で苦笑いをする。
「聞いてねぇけど!?」
「……言ってないからな」
「いつからだよ!?」
茂みの裏に半分隠れたままだった隼人が、立ち上がってこちらに詰め寄ってきた。そこまで発奮するものかと驚きが隠せない。
「……今年の三月?」
「まだ、二、三ヶ月」
「いや、それこそ言えよ!? それよりも前ならもういいかなと思うけど、俺と知り合った後じゃん。なんで言わねぇの!」
「いや、そんな重要なことじゃないだろ」
俺と雪にとっては、ある意味では自然な成り行きだった。
一緒にいようという約束は、いつまで経っても色あせることはない。そして、そこに恋愛感情が伴っていることも、変わりはなかった。そんな二人が高校生になってもずっと一緒にいることを目指すならば、新しい関係を結ぶくらいの発想はすぐに出てくる。
付き合う? と確認し合って、新しい関係が幼なじみに加わっただけのことだった。ただ、幼なじみでいすぎて、直接気持ちを伝えようにも照れくささがつきまとう。改めて感情を伝え合うという行為はできていなくて、恋人らしい接触もまともにできていなかった。
一緒に寝ておいて、というやつだけど。
「俺はずっとじれったい二人だなぁと思ってたけど!? え、何だよ。こそこそイチャイチャしてたんじゃねぇか。くそ~」
「イチャイチャはしてねぇけど」
「しとけよ、そこは!」
もうどこに発奮しているのか分からない。隼人は支離滅裂な主張を張り上げた。俺と雪は苦笑いを続けることしかできない。今更イチャイチャと言われても照れくさいうえに、具体的なことはそう簡単には実行に移せなかった。
その結果が、このすれ違いなのだろうけれど。やはり、気持ちはもっと早くに伝えておくべきだったのだろう。そこだけは、ずっとユマに同意できていた。
その当事者たるユマは、唖然と口を開けたまま石化している。隼人の大演説に便乗してくる様子もない。
「ユマさん、大丈夫?」
加熱する隼人に適当な相槌を打っている間に、雪がユマの顔の前で手を振る。ユマはゆっくりと瞬きをしてから、手を追った。それも意識がどうこうというよりは、目の前で動くものを無意識に追っているという感じだ。
どれほどの衝撃を受けているのか。そこまで付き合っているとは思わなかったのか、と自嘲が零れ落ちそうになる。まぁ、人の話を聞いてこなかったのはユマだが。
「どうしてもっと早くおっしゃってくださらなかったんですか……?」
失望したような瞳がこちらに向けられる。そこまでショックを受けられると、さすがに罪悪感を覚えた。けれど、やっぱりどう考えてもユマが人の話を聞いていなかっただけである。
「話を聞かなかったんだろう」
「もっと主張してくださいよ! 気持ちを伝えたいと聞いたら、交際もまだなんだと思うじゃありませんか」
「事情はそれぞれだろ」
「あたしの説得が何ひとつ響かなかった理由が今になって分かりましたよ!」
徐々に勢いを取り戻してきたのか。ユマが一気に隼人のような態度になっていく。それがユマの正常なので、我に返ったと思えば気は楽になった。だが、この勢いは面倒くさくなるという予感しかないものでもある。
「ていうか、彼氏なんだったらもっとがつっといったらいいじゃないですか。気持ちも伝え放題ですよ!?」
「だから、俺のタイミングで言うって言っただろうが」
「あ、タイミングってそういうことですか! 付き合うとかそういうんじゃなくて、愛してるよって愛を確かめるときってことですか!」
愛してるは俺じゃなくてもなかなか言わないんじゃないかと思ったが、その反論は半ば揚げ足取りになりそうだと自重した。ユマはぷんぷんと音が鳴りそうなほどに喚いている。
子どもか。
咄嗟に思ったことだったが、ユマの子どもっぷりは俺の予想を遙かに上回っていた。
「もう~~~」
だんだんと左右の足を地面に叩きつけて、分かりやすく地団駄を踏む。そこまでか、と遠い目になった。これには、さっきまでヒートアップしていた隼人も驚嘆したようだ。
これまでもこのテンションを相手取っていた俺だって、慄きを隠せない。だが、これもまだ序の口で、ユマはとことんまで駄々を捏ねるようになってしまった。
「堕天しちゃうじゃないですか~」
うわあああと感情を全壊させたように叫んで、泣き崩れて蹲ろうとする。
雪と隼人にしてみれば、まったくもって不明瞭な主張をしながら喚き散らす変人だったことだろう。俺だって、テンションが意味不明で難渋を隠せなかった。
「転生できません~」
完全に電波と化している。引き続き蹲ろうとするユマを支えたのは隼人だ。地面は濡れている。跪いていたら大層面倒なことになっていただろう。
その配慮を巡らせていたのかは知らない。そんな冷静な視点が隼人にあったとは思えなかった。実際、隼人は状況をまったく理解していなかったのだから、ただの反射だったのだろう。ユマはもっと隼人に感謝をすべきだ。
雨の止んだ公園に、ユマの涙が降り注いでいた。
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