第二話

     ****************



 くだらないことでへそを曲げている自覚があった。けれど、佳臣のそばにいることが当たり前になりすぎていて、自分以外がそこにいることはショックだったのだ。

 ユマさんが佳臣をどうこうしようなんて思っていないことは分かっている。佳臣にそんな気がないことも、信じていた。それでも、上手く気持ちに折り合いをつけられない。

 甘えていた。佳臣はすべてを口にしてくれる人ではないけれど、私には甘い。我が儘を言っても、おおよそのことは折れてくれるような人だ。

 同衾だって、最終的には折れてくれた。恥ずかしくって仕方がなかったけれど、昔みたいに温もりの中で眠りにつけるのは嬉しかったのだ。翌朝。佳臣が隣にいなかったことには少しほっともした。自分から求めておいてなんだけど、どんな顔をしたらいいのか分からなかったから。

 だから、ほっともしたけれど、やっぱり何もないのだなと少しだけ肩透かしを覚えた側面もあった。佳臣は、一体私を何だと思っているのだろうか。清楚系だと言う。好みのタイプだと憚らなかった。けれど、実際には何もない。

 大切にされているのは分かっている。助けるといったあの日の約束は、一方的なものじゃなくなっていることもだ。佳臣は私が困っていれば、どんな些事でも助けてくれるし、そばにいることを諦めない。

 今だってそうだ。私がどれだけ不機嫌でいても、佳臣は決して私を一人にしようとしない。真面目な佳臣は、決して約束を違えない。

 だから、ユマさんとのやり取りだって、きっとただの雑談に過ぎないのだろう。信じているし、頭では理解できていた。けれど、心がいつまで経っても納得してはくれない。

 多分、ダブルとはいえデートができて、水着の一件で距離が縮まったと感じたこともある。昔からアミューズメントパークにも何かと一緒に行っていた。家族ぐるみの付き合いだ。一緒に旅行をするような付き合いもある。

 だが、高校生になってパークに行って二人で遊び回ることは少なくなっていて、それが実行できたことが嬉しかった。

 水着の件は、含羞のほうがずっと強くて忘れたい出来事でもある。でも、最後に佳臣が見せた表情の変化には、ドキリと胸を高鳴らせたものだ。あんなにも真摯で色気のある顔をした佳臣を見たのは初めてだった。

 その場を壊したのは、ユマさんだ。もちろん、わざとじゃないと分かっているし、あのままでどうにかできるわけもなかったとも分かっている。

 だが、そこにはヘイトに近い感情が僅かなりとも発生していたのだ。それまでの二人の姿を見ていることもある。その前提があって、二人の仲睦まじい姿を見てしまったら、てきめんに気持ちが爆発した。突発的な衝動でしかなくて、それは逃げ出したころには消散している。その程度のものだ。

 ただ、それを素直に認めて改心することはなかなか困難だった。一度逃げ出してしまったばつの悪さもある。逃げ出さなければよかったのかもしれない。けれど、あのままあの場に居続けて、平常心を保ち続けることはできなかった。

 その折り合いのつかなさが、今でも続いている。

 そろそろ潮時だろう。佳臣がどれだけ心が広いと言ったって、何も言わずに逃げ出して、そのまま逃げ続ける人を相手にするのには上限があるはずだ。

 カーテンを閉じたままの窓を見る。

 佳臣はきっと知らない。私が普段どれだけ、佳臣に助けられているのか。食事だなんて実質的な話じゃない。佳臣は心の支えだった。多分、佳臣は気づいていない。あの日から、佳臣が私の手を引いて、色んな場所に連れていってくれていることに。

 ずっと、人の後ろをついて行くばかりだった私を導いて、隣に並ばせてくれた。昔はもっと人見知りで、佳臣の後ろに隠れていることもあったのだ。それがなくなったのは、佳臣が連れ出してくれたからだった。そのおかげで、怪我ばかりしていた時期もあったけれど。

 ヒーローみたいだった。

 やっぱり、甘えすぎているなとしみじみ実感する。今度もきっと佳臣が助けてくれると、どこかで期待をしている。そんなふうに待つだけの、足手まといのヒロインになんてなりたくはないのに。そういう張り合いで、私は背筋を伸ばして生きてきたはずなのに。

 不甲斐なくなって、小さくなってしまう。ベッドの中で芋虫のように丸くなって、窓の外を眺める。素直な気持ちを伝える気高さを持っていたかった。伝えなければと、いつまでもうじうじしている自分が鬱陶しい。こんな惰弱な自分とおさらばしたくて仕方がなかった。


    ****************


 ここのところずっと天気が悪い。自分たちの雲行きのようだと多情に浸るくらいには、よくなかった。

 天気ってこんなにも気分に影響してくるものなのかと、今更ながらに発見している。雪との距離感に参っているほうが、原因として大きそうであるけれど。日増しに調子が悪くなっていた。こんなにも心を削るものかと息苦しい。

 もはや、これは依存であって、恋心ではないのではないか。そんな思考に足を取られそうになるほどに参っていた。

 隼人に女性の話を聞いて、様々な系統の特徴に雪を宛がおうとする心の動きで気持ちを持ち直している。どんなに聞いても、雪以上はいない。冷静になってくると、どうして依存なんて考えができたのかと呆れた。

 ユマはもう、放っておいてくれたほうがいいと学んだようだ。近頃は姿を見かけることもなくなったし、見かけるときも見かけるだけになった。隼人と話しているのを見かけることはあるが、何を話しているのかも知らないし、どちらから声をかけているのかも知らない。隼人に任せて、関わるつもりはなかった。

 肝心の雪は相変わらずの姿勢だったが、目が合うようになってはいる。もう少しの辛抱かもしれない。そうした希望を胸に、俺は今日も石谷家を訪ねた。

 帰宅した玄関に靴はない。そんなことはこの一週間で何度かあった。俺は気にせずに家に上がり込む。勝手知ったる我が家も同じだ。リビングに腰を下ろして、雪の帰りを待つ。いつも持ち歩いているカメラを取り出して、時間を潰した。

 しばらくそうしていると、奥の部屋からおばさんが出てくる。おばさんも慣れたもので


「おかえりなさい」

「ただいま」


 と当たり障りのない挨拶を交わしただけだった。おばさんはそのままキッチンに入って、夕飯の準備をするみたいだ。


「手伝う?」

「いいよ。カメラやってなさい」

「うん」


 俺がカメラをやっているのは、母さんの影響だった。あまりよく覚えていないけれど、母さんはずっと写真が好きだったらしい。おばさんもそういう事情を知っているし、雪と一緒に写真に収めた数も数知れない。

 これもまた、俺と雪を繋ぐもののひとつだった。それに触れて気持ちを保ちながら、閑静な夕刻を過ごす。

 部屋の薄暗さが気になり始めるころ、唐突に何かが爆発したかのような音がした。それは止まることなく続く。バケツをひっくり返したような豪雨が、地上に叩きつけられていた。

 時計に視線を走らせたのは反射だ。そろそろ雪が帰ってきてもいいころだった。


「おばさん。雪、傘持ってってないよな?」


 比較的準備はいいほうだ。だが、どうだろう。ゲリラ豪雨に対応できるほど万全かは怪しい。そう思ったのはおばさんも同じのようで、難しい顔になる。


「折りたたみ傘を持ってるかどうかね」

「俺、迎えに行ってくるよ」


 すぐに止むかもしれない。雪のことだ。雨の中を帰ってくるなんて強硬手段にうって出たりはしないだろう。でも、道すがらはその限りではない。

 俺はいてもたってもいられなくなって、おばさんの返事も聞かずにリビングを飛び出していた。傘立てにある傘を借りて、見覚えのある雪の傘を持つ。


「いってきます」


 返事も聞かなかったことを身勝手だという感情はあったらしい。かろうじて挨拶を残して、俺は石谷家を出た。

 外は篠突く雨に、空気が煙っている。踏み出すのを躊躇うほどの雨脚に負けずに突入した。

 雨が傘を叩く音が聴覚を鈍らせる。通い慣れた通学路を疾走した。スニーカーが雨粒と同時に泥を跳ねて、ズボンの裾を汚している気がする。スニーカーはあっという間に水没した。

 傘は意味をなしていない。ポケットに突っ込んだままのスマホも水没するかもしれないな、と懸念が浮かぶ。それでも、俺は走るのをやめなかった。周囲に目をこらしながら、雪を求めて進む。

 そうして見つけた人影に、盛大に顔を顰めた。


「何やってんだよ」


 傘も差さずに立っていたのはユマで、その頭上に傘を掲げながら声をかける。ユマはししどに濡れそぼっていて、見るからに寒そうだった。俺を視認したユマが、きまりが悪い顔を浮かべる。眉根はますます寄った。


「雪さんに」

「は?」


 雨音の中、小声で落とされた声は拾えない。ただその唇の動きで雪と読めた俺の声は、勢い込みすぎていくらか剣呑だった。


「雪さんに謝罪しようと思いまして」

「余計なことすんなって言っておいたよな」


 これは俺と雪の問題だ。確かにユマも当事者の一人かもしれないが、関わられるとこじれる未来しか見えなかった。だから、何もして欲しくないと要望を伝えておいたはずだ。

 しかし、ユマはめげることのない目つきをしていた。


「隼人さんに相談したんです。あたしのしたことは二人の間を土足で踏みにじるような行為だったんじゃないかと言われました」


 隼人がそんなことを言ったのかと、驚きを隠せない。隼人は、俺と雪が幼なじみであることは知っている。けれど、特別な約束を伝えたこともほのめかしたこともなかった。まさか俺たちをそんなふうに見ていたとは気にしたこともない。少しだけ、擽ったい気持ちがした。


「だから、あたしはあたしの目的と意図をしかと説明して誤解を解こうと思います。お二人がギクシャクしているのはこれ以上見ていられません」

「……それで、なんでこんなところにいるんだ」


 反省のうえで謝罪をしたいという意志を、俺がどうこう言えた義理ではない。ひとまず、今重要なことに話を戻した。

 ユマは、我に返ったように周囲へ目を巡らす。


「隼人さんが雪さんの目撃情報を集めてくださって、この辺りにいるらしいという話を入手したのです」

「それ、いつの話だ」

「雨が降り出す前のことです。隼人さんも一緒に探してくださってます」

「千里眼はどうした?」

「千里眼はお天気に左右されるんですよ。天からのものですから。曇りからの雨空では上手く使えません」

「雲の上は晴れてるんじゃないのか」

「地上のノイズがありますから」

「本当にこの辺りなんだな?」


 目的が一緒となれば、立ち話で時間を浪費している場合じゃない。俺はユマに声をかけながら歩を進め始めた。ユマも素早くついてくる。


「隼人さん情報では、この辺りとのことでした」

「その大内はどの辺を探してるんだ」

「通りの施設や公園を見て回ってくれてます」

「公園……」


 この辺りの地図を脳内で検分する。この辺りは俺たちの庭だし、雪との思い出の場所もある。すぐそばにある公園は、何かあるたびに二人で立ち寄った場所だ。

 俺が幼いころ隠れた茂みがあるのも、その公園だった。

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