第五章
第一話
あの日から、雪とまともに話していない。
核心的な話をしてくれないし、今までのように顔を合わせてくれなかった。怒っているというよりも、傷ついているのだろうと分かるから、俺は尻込みばかりをしている。
あの後、俺は雪を捕まえることができなかった。逃げた方向に追いかけた後は、すぐに更衣室の前を陣取って待ち伏せたのだ。だが、こちらは人混みの中に目をこらす必要がある一方で、雪は止まっている俺の目を盗めばいいだけだ。
上手く隙を突いたのか。それとも、単純に行き違ったのかは定かではないが、どんなに待っても雪と遭遇することはできなかった。
代わりに、後片付けをして駆けつけてくれたユマと隼人と合流した。そのユマに、更衣室を確認してもらう。荷物もなくなっていることを調べたうえで、俺たちはプールを後にした。雪はきちんと石谷家に帰っていて、ひとまずは肩の力を抜いたのだ。
ユマには、しばらく関わらないでくれと言いつけてある。気が咎めないわけでもない。だが、今ユマと二人きりになることは避けたかった。八つ当たりをせずにはいられない。
あのときのユマの言葉は、いつも通りのキューピッドとしてのそれだっただろう。実際、俺は聞き慣れすぎていて、何の感慨もなかった。だが、振り返れば意味深なことくらい分かる。隼人が確かめたくなるくらいには、特殊な関係を匂わすような内容だった。
そして、それは雪にとって大事なものだった。俺を助けるのも、一緒にいるのも、雪の役目だ。二人だけの約束。雪と俺の絆だ。
それと同じようなことを告げられて、平然としていた俺。あれは雪にとってみれば、裏切られたも同じだっただろう。
俺たちはお互いにとって、お互いが大事な存在だと重々承知している。幼なじみでいた時間が長すぎて、逐一気持ちを伝え合ったりはしないけれど、節々で互いに理解していたはずだ。
自惚れでも自意識過剰でも、なんと言われても構わない。俺たちには俺たちにしか通じないものがあった。今だってなくしているわけじゃない。けれど、やっぱりユマの発言は、雪の心を揺らしてしまうに十分すぎたのだ。
最近は、食事も一緒にとっていない。夕飯も弁当も準備をして置いてきてはいたが、それがどうなっているのかは分からなかった。そろそろ一週間だ。ちゃんと食べていると願うしかない。
毎日雪の部屋を訪ねて扉越しに声をかけているが、返事はなかった。カーテンも閉められてしまっていて、窓越しに様子を窺うこともできない。毎日学校で見る姿が変わりないことは救いだろうか。それとも、そこから自分だけが弾かれてしまっているのは悲報だろうか。
時間の流れが遅かった。俺と雪は常に一緒にいたわけじゃない。俺が校内の写真撮影に向かっているとき、雪は図書室で時間を潰していた。休日だって、四六時中一緒にいるわけじゃない。
それだというのに、今違う時間を過ごしているのは、いつもとは勝手が違った。心に隙間風が入り込んで寒い。どこか呼吸がしづらかった。
いつも以上に雪のことを想って生活している。恋わずらいとはこんなものなのかと、感傷に浸ったりもした。
隼人に雪の様子を見てきてもらったこともある。普通だったと言われて悲嘆に暮れた。雪は抜かりない。隼人相手に本心をさらけ出したりはしないだろう。それが俺に伝わるとバレているはずだ。
ユマは時々姿を現したが、まるきりスルーしていた。隼人に任せていると言ったほうがいいかもしれない。物言いたげな瞳がこちらを見ることもあったが、知らんふりをし続けている。
これ以上、雪に要らぬ誤解を与えたくなかった。不安にさせたくない。俺はいつだって、雪を一番に想っている。
それを体現するかのように、今日もまた部屋をノックして声をかけた。返事はない。また来ると言い置いてリビングに降りると、おばさんがいた。
「お邪魔してました」
「いいのよ。佳臣君はうちの子も同然でしょ」
「まぁ、そうだけど」
「今日も雪に会いに来たの?」
干渉はされていなかったが、俺たちの間に何かがあったのはお見通しのようだった。当然だろう。これほど分かりやすく家族ぐるみでの関わりを持っていれば、そんなものは筒抜けだ。
俺は苦笑して頭を掻いた。
「いいのよ。そんなに雪ばかりにかまけてなくても。佳臣君だって他にも色々あるでしょ。幼なじみだからって、いつまでも一緒じゃいけないってことはないんだから」
多分、そこに他意はないのだろう。俺が頻繁に様子を見に来るものだから、気を遣ってくれている。
けれど、おばさんの言葉はあまりにも的外れで苦々しくなってしまった。
「違うよ、おばさん」
きっと、おばさんにもいつかもっとちゃんと伝えなきゃならないんだろう。そう思いながら、真実を口にする。
「俺が雪と一緒にいてやってるんじゃなくて、雪が俺と一緒にいてくれてるんだ」
実際に口にするとこっぱずかしくて堪らない。
「だから、気にしなくていいから。また来るって伝えといてよ」
俺は早口で付け足してリビングから抜け出し、自宅へと戻った。
雪と俺が約束をしたのは、俺がまだ自分のことを僕と称していた幼少期のころだ。まだ四歳で、保育園に通っていた。
そのころ、母さんが亡くなった。
病気だ。最期を看取ることもできたし、こればっかりはどうにもならないことだっただろう。ただ、俺はまだ小さくて、人の死というものが身近ではなかった。分かっていなかったわけじゃない。けれど、理解が足りていなかったのだ。
母さんが死んだのは、四月の末。五月に入って、母の日がやってきたときに俺は思い知ることになる。
俺にはもう母さんがいない、と。
別に親父は俺の世話を投げ出していたわけじゃない。普通に俺を育ててくれていたし、寂しい思いをさせられたこともなかった。自分の最愛の人を亡くしたことを鑑みれば、親父はとてもよい父だっただろう。
けれど、子どもの視野は広くない。何かが気に食わなければ我が儘を言うのと同じように、母の日をきっかけに俺は母さんがいないことに絶望していた。そのことだけに視野狭窄していて、この世に独りっきりにされてしまったような寂しさを抱いた。
俺は公園の茂みに隠れて、寂寞を噛み締める。そういういかにも、な行動を取っていた。もう少し大きくて分別もつけば、かまってちゃんな行動だと思ったり、そうして落ち込む必要はないと考えたりできたのだろう。けれど、子どもは直情的だ。
とにかく、俺は一人で殻に閉じこもるような行動を取った。
そこにやってきたのが雪だ。
暗い影になった茂みに差し込んだ光の中。颯爽と現れた雪は、それこそ天使のようだった。
頭に葉っぱをくっつけていた雪は、きっと俺をかなり探し回ったに違いない。そんなことに気がついたのは、ずっと後になってからのことだったけれど、雪が来てくれたことはとても嬉しかった。
雪は何も言わずに俺の隣に腰を下ろして、投げ出した手をぎゅっと握りしめる。まだまだ子どもの手だ。性差なんてほとんどなかったけれど、それでも雪の手は小さくてすべすべしていたのを覚えている。
それから雪はしばらくの間動かずに、隣に居続けてくれた。体温がじんわりと手に馴染んで、ひとつになるようだった。それだけでも、俺は雪の存在に癒やされたのだ。
けれど、雪はもっともっと尊い存在だった。
「だいじょうぶ」
穏やかな声は、心に染み入る。
「よしおみはひとりじゃないから」
「うん」
「ゆきがそばにいるから。よしおみを助ける」
俺と雪は誕生日がほとんど一年違う。四月生まれの雪と三月生まれの俺では、そのころには大きな差があった。雪はほんの少しだけ、俺よりもお姉さんだったのだ。
「ずっと一緒にいるからね」
「一緒?」
「ゆきとよしおみは一緒」
「うん」
「ゆびきり」
手を離されて小指を立てられる。俺は温もりが離れてしまったことが寂しくて、小指を絡めた。雪が歌う指切りげんまんで約束を結んで、今日までやってきたのだ。
思えば、幼少期によく手を繋いでいたのは、このときがきっかけのように思う。俺は雪と触れ合うことで安心した。
そして、多分これが俺が雪に恋した引き金だ。
健気に約束を守ってくれる雪を、俺も守ってあげなくちゃと思っていた。きっとずっと一緒にいて、俺が雪を支えるんだと。雪が寂しい思いをするときは、今度は俺が助けるのだと決めていた。
今もって、気持ちに変化はない。少なくとも俺は、あのころよりも確固として雪のことを想っている。そのくせ、このざまだった。
雪の隣は俺のものだし、俺の隣は雪のものだ。ユマに取って代わられるつもりは毛頭ないし、ユマにだってないだろう。天使の使命と距離感からの勘違いでしかない。でも、傷つけたのは事実で、俺だって雪が隼人にあの距離を許したらへこむ。
ベッドに横たわりながら、カーテンを開いたままの窓へと目をやる。雪の部屋は、相変わらず閉ざされたままだった。
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