第三話
そこに、どぼんとスライダーを降りてくる水音が耳を劈いた。がばりと起き上がってきた雪が、こちらへ寄ってくる。ずぶ濡れなことも気にしない雪は、水も滴るなんとやら、というやつだった。
乱れている髪を整えてやり、頬の水滴を拭うと、雪が擽ったそうに笑う。
「面白かったか?」
「うん。佳臣は? いかないの?」
「時間かかったし、混んでるんだろ?」
「そうだけど……」
小さく目を伏せて、語尾を濁す。分かりやすいと気づけるのは、俺だからだろうか。小さな優越感を胸に口を動かす。
「もう一回って?」
「一緒にいこう?」
「一緒って……」
いくらかカップルがくっついて一緒に降りてきているのは知っている。
「ダメ?」
「行ってくればいいじゃないですか」
雪からのお願いを断る気は更々ないが、横からくちばしを突っ込まれて目を眇めた。
「ドキドキチャンスです」
耳打ちをされて、ため息が零れ落ちそうになる。
じっとこちらを見つめる雪に負けるのは確実だ。耳打ちは関係がない。それなのに、この一手があるだけで、煩わしさが生まれるのはどういうわけか。素直な気持ちにさせて欲しいところだ。
「……分かったよ」
「ユマさん、せっかくだし俺たちも行きませんか」
「いいですね! 佳臣さんも雪さんも、全員で行きましょう」
ユマと隼人の噛み合っていなさは、見ていて頭を抱えそうになる。
雪と視線を交えようとした。呆れが交差するだろうと思っていたが、それはほんの少し具合が違う。違和感があった。しかし、それを確認するまでもなく、雪は進んで行ってしまった。三人とも向かっているので、こちらも追うより他にない。
すぐに追いついて、列に並んで順番を待つ。雪は前を向いて慎ましやかに待ち続けていた。代わりとばかりに、事あるごとにユマから煽られ続ける。俺はほとんど黙って聞き流していたが、時折雪の視線がこちらを向いた。
ユマの言葉を気にしているのは瞭然だ。願いの件だとか、その辺りはうやむやにしたままになっている。また要らぬ誤解を与えているかもしれないという不安が湧き上がった。
そんな不安を覚えているうちに、順番が回ってくる。スタッフに二人でと申し出ると、バックハグの体勢を求められた。
雪を腕の中に抱えて密着する。これは思った以上に危ない体勢かもしれない。そう思って腰が引けそうになってしまったところを、スタッフさんに見つかってしまった。
「ちゃんとくっついてくださいね。危ないですから」
「……はい」
従順に聞き入れるより他にない。安全は確保すべきだ。雪の薄い腹の上で腕を組んで、しっかりと抱きすくめた。雪の指が俺の手のひらに絡んでくる。
「……嫌か?」
尋ねる声を耳元に吹き込んでしまう体勢だ。雪の肩が跳ねた。何やらむず痒い気持ちになる。
「平気」
きゅっと指を握られて体重を預けられた。信頼を寄せられている。俺はしかと雪を抱き直した。
「行きますよー!」
と合図が出て、背中を押される。しっかりと抱き合ったまま、俺たちはスライダーを発進した。
スピード感に振り回されて、風が気持ちいい。しかし、周囲を見る余裕はなく、眼前の雪に目を奪われていた。
普段は見えない色っぽいうなじが、すぐそこにある。触れることもたやすい。腕の自由がないので実際には不可能だが、顔を寄せるくらいなら……と考えている自分に驚く。こんなにも堪え性がなかっただろうか。思わず近づていた顔を引き剥がした。
気がついたのはそのときだ。
首に結ばれていたビキニの紐が緩んでいる。一気に緊張感が走った。水面まではもうすぐそこだ。直す時間もないし、かといって水圧に耐えられるのかは微妙なところだった。気持ちが焦る。焦ったところで手はなく、俺たちは思いきり水中へと飛び出した。
勢い水に揉まれて離ればなれになりながら、ばしゃりと水面から顔を出す。雪は気持ちよさそうに、ふるりと頭を振っていた。俺はそれどころではなくて、すぐさま雪に近づく。しかし、それは手遅れだったのだ。
「雪!」
俺が声をかけるまでもなく、雪自身も違和には気づいたらしい。ぱっと乳房を捕まえる。すべてが開けっぴろげられることはなかったし、ビキニは布として雪の手で支えられていた。
周囲だって、遊ぶのに没入していて人の一挙手一投足に注意を向けてはいない。けれど、雪は人目を惹く。そんな人が首裏までを赤くして、肩までプールに浸かって動かない。そんな状態でいれば、いずれ不自然さに気づくものは出てくるだろう。
親切なやつばかりとは限らない。早くなんとかしなくては。思えば俺も、相当にパニックだったのだ。
俺は雪を前方からがっつりと抱きしめて、周囲の目から守った。
「よ、よしお、佳臣……」
こちらを見上げてきた雪の顔は真っ赤で、目元が潤んでいる。
「移動するぞ」
雪の瞳がどうやってと問うていた。水からは出たくないとばかりに、身体がぎゅっと水中へ落ちていく。確かに、外に出るほうが見える可能性は高くなるだろう。そこまで考えているのかは怪しいけれど、今はとにかく刺激しないほうがいいと判断した。
「端に行くだけだから、な」
すがるような目が見上げてきて、僅かに顎を引く。
それをきちんと見届けてから、雪の前を隠しながらプールの端へと移動した。今まですいすいとプールを進んでいた人とは思えないほどに、ゆったりとしたテンポで動く。じれったくて仕方がないが、すべては雪のためだった。
端にたどり着いて、プールの壁と自分の間に雪を閉じ込める。今朝の電車でも同じような体勢ではあったが、今ほどの緊張感に襲われたりはしなかった。自分と雪の間で潰れている胸の存在に、頭が真っ赤に染まり上がっている。
「雪、そのままな。後ろ結び直すから」
「うん」
繊細な声は壊れてしまいそうで、雪の心が不安になった。少しでも早く、と背中に腕を回して紐を掴んだ。どうしたって密着度は増す。心臓が破裂しそうだったが、四の五の言ってはいられない。雪のほうがよっぽど羞恥に炙られているはずだ。
雪の頭越しに状態を確認しつつ、紐を結んでいく。なんとも心許ない形状だ。よくこんな格好で、という気持ちが強まる。
「よしおみ」
崩壊してしまいそうな声が腕の中からした。結びきれない状態で見下ろそうとすると、
「待って。こっち見ないで」
と焦った声に止められる。雪の声は揺らいでいて、泣き出すんじゃないかと不安になってしまった。
「どうした?」
「水着、直すから、そのままでいて」
「直す……?」
直してるのはこっちだろ、と疑問が渦巻く。胸のそばで、はくりと息を吸う気配があった。
「か、っぷ、から、ズレてるから……そのままね」
「あ、お、う」
理解した途端に、舌の回りが覚束なくなる。胸の中でもぞもぞと動く雪の気配を敏感に察知せずにはいられない。胸元で触れ合っている肌触りが、手のひらではなく胸触りかもしれないのだ。目の前がチカチカした。
ぐにゅりと弾力性のあるものが擦れるたびに、腹筋が震える。柔らかい中に微かに掠めた芯のあるものが何かは考えないようにした。頭の中が熱砂をぶちこまれたように熱い。
「もう、大丈夫」
「ああ」
ろくな返事ができずに、雪にはきちんと見えていないことも忘れて頷く。結ぶのを再開させた。しかし、手元が見えづらいうえに、気持ちが急いて上手くいかない。
なかなかに手こずって、時間だけが無作為に過ぎていく。それがまた焦燥感を高めて、一段と不器用になっていた。
「佳臣? 大丈夫?」
「わ、るい。焦ってる」
「落ち着いて」
「落ち着けるかよ!」
思わず本音が零れ落ちる。こんな状態で冷静沈着にビキニを着せるなんて、童貞には荷が重い。妄想が脳内を駆け巡って、視界が桃色に染まり上がっている。
「大丈夫だから」
「俺が大丈夫じゃないんだよ」
「……どうして?」
羞恥心に溺れているから、他のことに気が回っていないのか。いつもなら、俺の感情を察してくれそうな雪が気楽に問いを投げてくる。こちらはそんな場合じゃない。多分、雪だってそんな場合じゃないが、だからこそ抜けているのかもしれなかった。
「お前今、どんだけ無防備か分かってんのか」
「分かってる」
「俺が男だってことも分かってるよな?」
「……ドキドキしてる?」
「当たり前だろ」
平常心でいられるほうがどうかしている。雪は何を思ったのか。俺の心音を確かめるみたいに胸板に頭を預けてきた。
「おい、雪。近い!」
ただでさえいっぱいいっぱいなのだ。許容量はとっくに超えてしまっている。
声を荒らげた俺に、雪は涼しい調子で
「こっちのほうが見やすいでしょ?」
と嘯いた。
「煽るなよ」
地を這うような声が出る。雪はぴとりとくっついたまま動かなかった。その衒いのなさが苛立たしい。その衝動に任せて、遠慮は捨てた。
雪の背に手を這わせて、抱き寄せる。水中で足が交差して絡んだが無視した。頭を倒して、横側から覗き見るように首元を確認する。俯瞰すれば、俺が雪を襲っているようにしか見えなかっただろう。
小さく息を飲む声は聞こえないふりをした。吐息に肌を焼かれるようだ。感情を押し殺しながら、なんとか紐を結び直すことに成功する。
思いきりため息をつくと
「あ……」
と小さな吐息が耳朶を引っ叩いて心を揺さぶった。雪はすぐに俺から離れて耳を押さえる。見たこともないほど茹で上がった雪が、潤んだ瞳で俺を捉えた。
「わ、わすれて!」
か細い悲鳴が上がる。雪は弱点を隠すことに必死になっていて、腕が胸を挟み込んで強調してしまっていることに気づいていない。
つい今しがたまで、そのたゆんと弾みのある側面が素肌に触れていた。先ほどの吐息が喘ぎに近いものだった。それをこうして恥じている。それを意識すると、ぐわりと熱が上がって、矢も盾もたまらない感情に突き動かされた。
雪が離れたと言っても、所詮は数歩のことだ。壁際に追いやっていたのだから、手の届く範囲外にはそう易々とは逃げ出せない。そばにいる雪に近づいて頬に触れた。
「佳臣?」
赤く熟れた声に呼ばれて、体中の熱が下半身に集まるような気がする。
「雪」
「あ……っ」
人差し指を動かして耳裏を撫でると、甘い息が空気を染めた。楽しくなってしまった俺は、親指と人差し指で雪の耳朶を揉んだ。肩がぴくぴくと跳ねて、そのたびに胸が揺れて水面に波紋を作る。
そこに触れようとするほど理性をなくしてはいなかったが、抱き寄せれば肌に密着できると考えるほどには本能が目覚めていた。
「雪」
壊れたラジオのように名を繰り返した自分の声は、聞いたことがないほどに甘ったるく低い。媚びるような色がまぶされていた。雪が眉をへの字にしてこちらを見上げてくる。少しも逃げる素振りはなくて、俺はその身に触れようと腕を伸ばした。
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