第12話 香り屋

町の商店街から少し離れた森を少し歩いたところにその家はあった。

 オレンジ色の瓦屋根と砂糖細工のような滑らかな光沢を放つたくさんの大きな窓、そして栗や楢の色の明るいオーク材をふんだんに使った西洋風の家だ。

 木々の間から溢れる夕日に当てられたその家は文学書から出てきたかのように淡い印象を与えた。

 少女の手提げ鞄の中に入っていた子狸は、顔だけをひょっこりと出し、小さな鼻を動かす。

 熟れた果実と清涼な葉っぱ、そして舐めたくなるような甘い花の香りが辺りを漂う。

 子狸は、首を傾げる。

 家の周りには果実の木は無く、花々やハーブなんかは生えているがここまで入り混じった匂いは普通しない。

「ねえ、この匂いって?」

「ああっ気づいた?」

 少女は、にっこりと笑う。

「あれのせいだよ」

 冷たい男は、大きな正面玄関を指差す。

 分厚い木製の扉の横に置かれた黒いウェルカムボードが置かれ、西洋風の家には似つかわしくない和的な字体が書かれている。


"香り屋"


 ウェルカムボードには、大きく、達筆にそう書かれていた。


 冷たい男が正面玄関をそっと開ける。

 その瞬間、甘い、清い、苦い、強い、心地よい等の匂いが殴りかかるように子狸の鼻に入り込んできた。

 子狸は、思わず鼻を押さえる。

 それに気づいた少女が慌てて庇うように子狸を身体で包み込む。

「ごめんっ臭かった?」

 少女が子狸を覗き込む。

 子狸は、目を大きく瞬かせて鼻を押さえたままブンブンと首を振る。

 人間に化けたままなら明らかに顔を赤らめている。

「大丈夫。突然の匂いにびっくりしただけ。鼻を押さえておけば平気」

「気持ち悪くなったら言ってね」

 そう言って手提げ鞄ごと子狸を胸に抱えながら冷たい男の後に続いて中に入る。


 そこはとてもお洒落で綺麗な空間だった。

 

 正面玄関から入った一行を最初に出迎えたのは大きなテーブルを埋め尽くすくらいに並べられた色とりどりのドライフラワーだった。

 つい先ほどまで生花だったのではないかと疑いたくなるほどの生き生きとしたドライフラワーは、ゆっくりと左右にその身を揺らして甘く、柔らかな芳香を放っていた。

 天井に取り付けられたランタンから漏れる淡い灯りがドライフラワーの色を暖かく色づかせる。

 左右の壁際には黒塗りの大きな棚が置かれ、右側の棚には薬品を入れるような遮光を避ける為の茶色の瓶が千代紙のような艶やかなラベルを貼られて所狭しと並び、左側の棚は少し斜めに傾いており、その中にはアイスクリーム屋を想像させるような箱がたくさん並べられ、その中には緑、赤茶色、黒の茶葉や果物の皮を干したものが納められていた。

 カウンターの側に置かれた籠にはたくさんの種類の固形石鹸が詰め込まれ、コーヒーの豆の入った大きな瓶もある。

 子狸は、鼻を押さえつつも好奇心旺盛に家の、いや店の中を見回した。


「おや、珍しいお客さんだね」

 店の奥から人がやってきた。

 子狸は、慌てて鞄の中に隠れ、隙間から外を覗き込む。

 年は50代後半と行ったところか?白みがかった金色の髪、年輪の刻まれた切長の青い目に白い肌、少し尖っているが整った鼻梁、背は高く、黒いゆったりとしたワンピースを着ているがそれでもスタイルの良さが分かる。

「よく来たね。何年振りだい?」

 見かけは英国風の白人なのにとても流暢な日本語で話し、大きな笑みを浮かべる。

 彼女の言葉に2人は、少し呆れたようにじとっと目を細める。

「2ヶ月前に石鹸買いに来たでしょ?」

「オレもついこの間、会社で使う蝋燭やお茶の発注に来たと思うけど」

 ため息混じりに2人に言われ、彼女は素知らぬ顔で天井に視線を向けて頬を掻く。

「本当、おばさん客商売なんだから少しは覚えようね」

 少女が口をへの字に曲げて言う。

「あんた達は客とは違うだろう・・・」

 おばさんは、言いかけた言葉を止め、少女の持つ手提げ鞄をじっと見る。

「バケ狸だね。珍しいお客さんだ」

 手提げ鞄の中から子狸が鼻を押さえたまま顔を出す。その目は驚きに丸くなっている。鞄の下に隠れていたのに、なぜ姿も見ずにバケ狸と分かったのか?

 しかし、おばさんは、そんな子狸の思慮など気にもせずに近づくと尖った鼻が触れるほどに顔を近づける。

「貴方にはここは臭すぎるでしょう。ちょっと待ってね」

 そう言うと綺麗な紫色にマニキュアされた指を子狸の鼻元に近づける。

 そして小さく何かを唱える。

 子狸は、自分の鼻と口が熱くなるのを感じた。

 そして何か柔らかい、シャボン玉のような物に覆われているような感覚に捉われる。

「これはサービスだよ」

 そう言ってにっこりと微笑み、顔を離す。

 

 匂いがしない。


 いや、しない訳ではないけど先程までの頭を突かれるような強臭はしなくなった。逆に食欲をそそるような甘い香りと清涼感が鼻を包む。

「鼻と口の周りにマスクを付けたのよ。今は人間と同じくらいの嗅覚になってるよ」

 子狸は、口元を触るがマスクなどない。

 ただ、暖かい空気のようなものを感じるだけだ。

「店を出ると消えてしまうから安心して。所詮はサービスだから」

 そう言っておばさんは、ウインクする。

「ひょっとして・・・おばさんって魔女?」

 恐る恐る子狸が言うとおばさんは、びっくりして細い目を大きく広げ、そして冷たい男と少女を睨む。

「あんた達、何も言わないでこの子をここまで連れてきたの?」

 今度は、2人が素知らぬ顔で宙を見上げる。

「いや、言う暇なくてさ」

 冷たい男は、頭を掻く。

「急いでたもんで・・・」

 少女も小さく髪を弄る。

 言い訳も困った時の仕草も一緒でおばさんは思わず苦笑する。

「で、今日は何しに来たんだい?」

「先輩ってもう帰ってきてる?」

 冷たい男が聞くとおばさんは、天井を指差す。

「寝てるよ」

「夕方なのに?」

 相変わらずだな、と少女は肩を竦める。

「そこに関しては言い訳も出来ないよ。今日は大学も休講だからってずっとぐうたらしてるよ」

 おばさんも少し呆れているのか、声が少し小さい。

「はあっ早くあんた達みたいにリア充になって欲しいもんよね」

 そう言ってため息を吐く。

 2人の表情が夕日に照らされたように赤くなる。

「あの子を呼ぶってことは依頼かい?」

「はいっ」

 冷たい男は、頷く。

「私じゃダメなのかい?」

「おばさんだと高くてオレらじゃ払えない」

「なるほど」

 おばさんは、人差し指をくるっと回す。

 天井から何かが落下する激しい音がした。

 そしてそのままズリズリと引き摺られ、再びバウンドしながら落下してくる音が響く。

 それに合わせて小さな悲鳴が飛んでくる。

 冷たい男も少女、そして子狸は若干怯えた表情を浮かべる。

「今来るから待っててね」

 おばさんは、にこやかに言う。


 ぐうっつ。


 奥から唸るような呻き声が聞こえる。

 そして叩きつけるように走ってくる音。

「お母さん!何するんですか!」

 長い髪を乱雑に飛び散らした花柄のタンクトップとショートパンツを履いたスタイルの良い背の高い女性が切長の目を吊り上げて怒りの声を上げる。

「もう少ししたら起きるって何度言ったじゃ・・い・で・・す・・か・・」

 ダムの栓が締められるかのように女性の声が尻すぼみになる。

 釣り上がった目が重しを乗せられたように下がり、白い頬が青ざめていく。

「おっおはようございますチーズ先輩」

 冷たい男の頭を羽交い締めするように抱えて少女は小さな声で挨拶する。先ほどとは違う意味で頬を赤らめて目を逸らす。

 子狸は、少女の後ろに隠されて見ることが出来ず、おばさんは、大きな大きなため息を吐いた。

 女性は、あらぬ方向に飛んでいる長い髪を触り、霰もない自分の姿を見て・・・絶叫してその場を走り去っていった。

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