第6話 呼んでる
「こりゃまずいにゃ」
霊安室に入るや否や茶トラは言う。
エアコンを最大限に掛けているとはいえ冷たい男が悪寒を感じる冷気が部屋の中を漂う。
部屋の隅に置かれた盛り塩が黒く変色し、闇色のものがイソギンチャクのように蠢めき、触手のようなものを老女の遺体に伸ばしている。
茶トラは、闇色のモノに近づくと短いとカギ尻尾を振り上げて叩きつける。
空気の切れるような破裂音が霊安室に響く。
尻尾に叩かれた闇色のモノは、煙のように霧散する。続け様に茶トラは残りの闇色のモノもカギ尻尾で祓う。
闇色のモノが消えると冷気が治り、元の室温に戻る。
彼は、ほっと胸を撫で下ろす。
「まだ、終わってないにゃ」
そういうと茶トラは、無遠慮に祭壇の上に飛び乗り、白い布で覆われた老女の顔を覗き込む。
祭壇の上の水が溢れそうになったので慌てて押さえる。
「この人・・・誰かを呼び続けてるにゃ」
「呼び続けている?」
彼の脳裏に昼間に聞いた誰かを呼ぶ優しい声を思い出す。
「呼ぶって・・・誰を?」
「そんなの知らないにゃ」
茶トラは、吐き捨てるように言う、
「この人が会いたい誰かにゃ。
でも、そのせいで関係ないワタゲまで集まってきてるにゃ。そのままじゃこのお婆ちゃんのワタゲまで
ワタゲとは恐らく魂のようなもののことだろう。
つまり老女が誰かを呼ぶ声に成仏出来ない他の魂が引き寄せられて老女の魂を
「汚れるとどうなるんですか?」
彼は、恐る恐る聞く。
「さっきのドロドロみたいに苦しみ、恨みながら誰かを襲うようになるにゃ。あまりに黒くなったらミーにも祓う以上のことは出来ないにゃ」
それはつまり・・・成仏出来なくなると言うことか・・⁉︎
彼の背筋が震える。
「火車さん・・・」
「火車言うにゃ。言われなくてもちゃんと守るにゃ」
そう言って茶トラは、入口に顔を向けると獲物を狙う猛獣のように身を低く構えた。
「報酬は多めに頼むにゃ」
「分かりました」
入口のドアが激しく震える。
ノブが壊れた振り子時計のように何度も何度も上下し、木槌で殴られたような打撃音が響き渡る。
「相当、友達がいないのかにゃ?」
こんな時にも猫らしく空気の読めないことを言うもその声は震えていた。
本来は、臆病なのかな?と思ったがさすがに聞く余裕も茶トラの顔を見る余裕もない。
音が止む。
ノブの動きが止まる。
茶トラは、さらに身を低くする。
ドアがゆっくりと開く。
そこには何もいなかった。
ただ、暗い闇の空間がぽっかりあるだけ。
それなのに悪寒がして、冷や汗が出る。
茶トラも小さい唸り声を上げる。
闇が寒天ゼリーのように柔らかく波打つ。
波は、少しずつ揺れを大きくする。
小波から少しずつ少しずつ大きくなり、霊安室を揺らしていく。
耳を覆いたくなるような低く、暗く、吐き気をもよおす声が室内を飛び交う。
波の合間から蛸の足のような太く、暗く、長いモノが現れる。
何本も、何十本も。
その先端が醜く歪み、何かの形を形成していく。
顔だ。
男とも女とも判別できない苦悶の顔が浮かび、呪怨を経のように吐き出す。
膝が震える。
悪寒が止まらない。
しかし、跪く訳にはいかない。
彼は、目を逸らすことなく闇色のモノを見る。
「ウガガガガアアアアア」
闇色のモノどもは、声にならない呪詛を上げるとこちらに、祭壇に向かって襲いかかってくる。
茶トラの首の鈴が鳴る。
「ヒメ・・・頼むにゃ」
茶トラがそう言うとアクアマリンの首輪が青白く光り、炎色の鈴が燃え出す。
アクアマリンの首輪の形が崩れ、茶トラの首から外れる。
首輪は千切れて分離し、それぞれが青白い火の玉に姿を変える。そして燃え上がる鈴を中心に囲うように一つの形を取る。
目だ。
炎の瞳を持つ青白い目。
「火目・・・」
彼は、ぽそりと呟く。
ヒメの周りの青白い火が闇色のモノに向かって弾丸のように飛んでいく。
青白い火にぶつかった闇色のモノは断末魔のような声を上げて霧のように霧散していく。
圧倒的な光景だった。
ヒメの攻撃を避けて近づいてきたモノも茶トラの尻尾に叩かれ、霧散する。
「いつまで続くんですか?これ」
口を出してはいけないと分かっているのに思わず声に出してしまう。
「この人を迎えにくる何かが来るまでにゃ」
攻防を止めずに茶トラは言う。
それから1時間、2時間と時は過ぎていった。
闇色のモノは肺に溜まった膿ように次から次へと湧き出てくる。
茶トラとヒメは、その度に除去していく。
彼は、目を逸らすことが出来ないまま見続けることしか出来なかった。
永遠に続くと思われた攻防は突然に終わる。
入口を埋め尽くしていた闇が消える。
廊下の明かりが霊安室の中に伸びてくる。
ヒメの動きが止まる。
茶トラは、足を崩したら祭壇の上に身体を伸ばす。
彼は、安堵の息を漏らす。
「終わったんですね」
「そうみたいだにゃ。長か・・・」
茶トラが言いかけた瞬間、痛みを伴って悪寒が1人と1匹を襲う。
2人は、思わず天井を見上げる。
そして絶句する。
闇色のモノが天井全体に貼り付き、無数の苦悶の顔を浮かべて激しく波打ち、蠢いていた。
苦悶の顔が一斉に降り落ちてくる。
茶トラは、ヒメを呼ぶ。
ヒメは、即座に反応するも全ての苦悶の顔に対応しきれない。
闇色が霊安室を埋め尽くす。
断末魔の悲鳴が駆け巡る。
闇色のモノどもは煙となって霧散していく。
「間に合った」
彼は、心の底からの安堵の息を着く。
口の周りが白く凍てついている。
彼と茶トラ、ヒメと闇色のモノどもの間を断ち切るように白く、大きな膜が広がっていた。
氷だ。
氷のかべが彼と茶トラとヒメの、老女の柩を守るように広がっていた。
彼は、氷の壁を手袋を脱いだ両手で支える。
彼からの冷気を帯びて氷の壁は広がっていく。
「ヒメ!」
茶トラは、ヒメに向かって叫ぶ。
ヒメは、青白い火を燃えたぎらせ、闇色のモノどもに向かって飛ばす。
青白い火は、氷の壁を突き破り、闇色のモノどもにぶつかっていく。
苦悶の声を上げて闇色のモノだは、消え去っていく。
氷の壁が崩れ、床に散らばる。
今度こそ悪寒が消える。
彼は、崩れるように座り込む。
ヒメが小さくなり、茶トラの首に戻る。
茶トラは、感謝するように小さく鈴を鳴らし、祭壇から降りる。
そして散らばった氷のカケラを前足で蹴って舐め、吐き出す。
「塩にゃ」
そして祭壇を見る。
祭壇の上に供えられていた水がない。
もう一度、床を見ると封を切られた塩の袋が落ちていた。
「塩水を作って凍らせたにゃ?」
常備している塩をお供えの水に入れて口に含み、吐き出して凍らせて壁を作ったのだ。
「咄嗟だったので上手くいって良かったです」
そう言って彼は笑う。
「中々やるにゃ」
すまし顔でそう言うと彼の手を舐める。
あまりの冷たさに身体中の毛を逆立たせて飛び上がる。
「舌張りついちゃいますよ」
彼は、苦笑いを浮かべて言う。
温かい空気が流れ込んでくる。
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