第1話「大乱闘スマッシュブラザーズ」
まだまだ夏の暑さを引きずるような十月のある日、僕は殺人鬼と対峙する。
その殺人鬼は白昼堂々、僕の部屋の窓からやってくる。
「こんにちは知介。首尾はいかが?」
「ようこそリサちゃん。今日の僕なら、君に勝てる気がするよ」
リサちゃん――
色白で小柄、ツンとした大きな瞳、柔らかな栗色の巻き毛は前髪を編み込んで、肩ほどまでに嫋やかに揺れる。半年前に我が首塚家の隣の家、福岡県心臓郡終田町数多六六六番地四四四号に引っ越してきた、クラスメイトの女の子。
リサちゃんが引っ越しの挨拶にきた時、そのか細い声で「こんにちは」なんて首を軽く傾いで微笑んで、その瞳で僕を見たものだから、僕は彼女のことが一瞬で好きになった。一目惚れと言うとあまりに陳腐かも知れないけれど、それはそうなったんだから仕方がない。僕らはまだ中学二年生だし、そんな感情を全て制御出来るほど大人になりきれてはいないのだ。
僕はリサちゃんとどうにかなりたいから、そういう態度は隠さないようにしている。露骨にえこひいきするし、登下校だって一緒だ。休みの日はめちゃくちゃ遊びに誘う。
「いいわ、知介。わたしも、そろそろあなたに負けてみるのも一興だなんて、そんな風に思っていたところよ」
そんな行動が功を奏したのかどうなのか、お隣さんということもあり、僕とリサちゃんはすっかり仲良くなっていた。なんと言っても、僕の家の二階の部屋は、お隣の兵器さん家のリサちゃんの部屋と屋根伝いに行き来が出来るほど近いのだ。リサちゃんはしゃべり方も淡々としてるし、感情の起伏も小さくて反応も比較的薄い方だけど、それでもどうにかこうにかなっている。僕の部屋にはゲームも本も、リサちゃんお気に入りの巨大クッションもあって、彼女は当たり前のように僕の部屋に遊びにくる。生まれて良かった。この土地に家を建ててくれた両親に感謝しかない。
――窓から部屋に入ってきたリサちゃんに、僕はニンテンドー64のゲームコントローラーを差し出した。
「さあ、今日こそ僕は勝つ。僕の鍛え抜いたファルコンパンチはたとえ朽ちても、君のカービィに届くまで果てない」
リサちゃんの表情は相変わらずすんとして変わらないが、しかし挑戦者としての僕を受け入れる体勢は万全の様子だ。
「不死鳥のように蘇るというわけね、ファルコンだけに」
「……ん? ファルコンははやぶさのことだよリサちゃん」
「…………?」
「不死鳥はフェニックス」
「なるほど。いいじゃないそんなことは。はやくはじめましょう」
リサちゃんの表情は微動だにしないけど、僕には分かる、いまリサちゃんはかなり恥ずかしがっている。これは完全に勝機だ。
僕がテレビの前に腰を下ろすと、リサちゃんはお気に入りの巨大クッションを引っ張ってきて、そこにちょこんと座る。
その姿はなんと言うか、かなり恋だ。
――僕はリサちゃんが好きすぎるのだ。落ちて惹かれて狂いそうなのだ。告白をしたいし、彼氏彼女の関係になりたいと思ってる。リサちゃんも多分、僕のことを嫌いだとは思ってないだろう。いや分かんないけど、嫌いだったらわざわざ古くなったニンテンドー64のスマブラで遊ぶために僕ん家にはこないはずだ。だから僕はリサちゃんを好きで居続けるし、リサちゃんにも僕を好きでいてもらいたい。
でも……それはうまくいかないのかも知れない。
リサちゃんがそうしないし、はっきりとは応えてくれない。
僕たちの関係は、仲の良い隣人、同級生、それくらいのものだ。
なぜなら――それは彼女が、殺人鬼だからだ。
――殺人鬼。
彼らは他人に自らが殺人鬼であることが見つからないよう、息を潜めて暮らしている。
世の中、知ってることよりも知らないことの方が、はるかに多いはずだ。身近なことだってほとんど知らないまま、僕らは生きている。
この世のほとんどの人は、殺人鬼のことを知らないまま生きている。
「ねえ知介、殺人鬼って知ってる?」
半年前のある日、僕にそれを教えてくれたのはリサちゃんだ。知らぬ間に殺人鬼と関わりを持ってしまっていた僕に、リサちゃんはその秘密を教えてくれた。
しかしその殺人鬼は、もうこの終田町にはいない。
その殺人鬼は、リサちゃんが殺した。
――殺人鬼。
その言葉に連想されるより、殺人鬼の実態は複雑だ。
ごく当たり前の発想として、ひとは凶悪な殺人事件を起こした犯人のことを、俗に殺人鬼と呼び、忌み嫌う。
しかしもうひとつ、この世には殺人鬼たるべくして殺人鬼たる人々がいる。
それは、人の命を絶たない殺人鬼たち――。
殺人鬼は命を奪わず、人を殺すことが出来る。
――たとえばそれは、殺人鬼により気配に殺され、誰にも気付かれない存在になったりだとか。
――たとえばそれは、殺人鬼により声を殺され、喋れなくなったりだとか。
――たとえばそれは、殺人鬼により住処を殺され、気持ちが立ち行かなくなったりだとか。
人は生きながらにして、死ぬことがある。
殺人鬼たちはそうやって、人を生きたまま殺すことで静かに暮らしているのだ。
「いい、知介?」リサちゃんは淡々と、しかし言い含めるようにして僕に語る。「殺人鬼というのは、日本に二〇〇〇人ほどいると言われているわ。あなたの思う殺人鬼とは少し違うでしょうけど、おおむね『人殺し』だと思ってもらって構わない。――もしくは『殺人障害者』と、わたしたちはわたしたちのことをそう呼んでいるわ。いろんな意味で人を殺す、鬼に憑かれた病い人。それが殺人鬼なの」
「人殺しの病気?」
「そう。時々、人を殺したくて殺したくてたまらなくなってしまう、社会にいてはならない人々がこの世にいるのよ。殺人鬼がそんなにたくさんいることを、あなたは平和だと思える? わたしはそんな殺人鬼を殺す殺殺人鬼鬼、平和を脅かす殺人鬼を殺す、悪者よ」
「……ちょっと待って、リサちゃん。つまりリサちゃんも、その殺人鬼だってこと?」
リサちゃんが何を言っているのか分からず、僕はただ否定を求めるように聞き返した。
「そうよ」と、しかしリサちゃんは肯定する。
「わたしは殺人鬼、兵器最終。殺人鬼を殺すため殺人鬼組合に飼われた殺人鬼、殺人鬼の住処を追い立てる猟犬よ。わたしのナイフはたとえ欠けても、彼らの喉元から離れはしないわ」
それを話すリサちゃんの目は最初の印象よりも鋭く、殺人鬼然としていたけれど、僕はそれを荒唐無稽な話だと思った。
女子中学生が殺人鬼を殺す殺人鬼だなんて、そんな話があってたまるもんかと思った。殺人鬼組合なんて言う、うさん臭い名前の組織が存在してるわけないと思った。
しかしリサちゃんはそれを否定する。
「そうね、それはそうだと思うわ。でもね、それはもはや、そうなのよ」
リサちゃんの口ぶりは何かを諦めてるようにも聞こえたし、僕はリサちゃんが殺人鬼を殺すその瞬間に立ち会っていたので、結局それは真実なんだと受け入れるしかなかった。
僕はかろうじて言う。
「人を殺すなんてダメだよ、リサちゃん」
そんな面倒くさいことは大人にまかせておけばいいんだ。
しかしリサちゃんは言う。
「殺人鬼で、ごめんね」
うっすらと微笑むリサちゃんの顔に、その時の僕は何も言えなかった。
リサちゃんが訪れた半年くらい前から、この終田町には殺人鬼がふらっと立ち寄ることが多くなっているのだと言う。リサちゃんは殺人鬼を殺す「殺殺人鬼鬼」で、この終田町を殺人鬼による殺人から守るためにやってきた。
――それでは、リサちゃんは人を殺したことがあるのだろうか?
もちろんそれは、人の命を奪ったことがあるのか、という疑問だ。
僕はそうは思わないが、リサちゃんに直接聞いたことはない。
しかし殺人鬼として、殺人鬼を殺した瞬間は見たことがある。
僕が出会ってしまった殺人鬼のことも、殺人鬼としての気質を封じて、町から出て行ってもらっただけだ。そういう行為も、殺人鬼――殺人障害者と呼ばれる人々にとっては、殺人であると言われる。それが表沙汰になれば、つまり人が死んでいなくても、殺人鬼にとっては「殺人事件」というわけだ。
とは言え、殺人鬼が人を殺すというのも間違いではないらしい。リサちゃんは言わないけど、彼女もこの町ではない場所で、僕の知らない場所で、きっと人の命を奪ったことがあるのかも知れない。
でもそれは僕が知らないリサちゃんだ。そんな話は聞いていないし、とてもじゃないが彼女が人殺しだなんて思えない。だから僕はリサちゃんがうっすらと微笑んでくるだけで、彼女が殺人鬼であることを許しそうになる。
「油断してるわね、知介」
画面の中で、僕のキャプテン・ファルコンがリサちゃんのカービィに吹っ飛ばされた。僕らが遊んでいる大乱闘スマッシュブラザーズ、通称スマブラはキャラクター同士を吹っ飛ばし合って、ステージに残った方が勝ちになる。時間制の場合は、より多く相手を吹っ飛ばした方の勝ちだ。残り十秒、僕はもう十回もリサちゃんに吹っ飛ばされている。対して僕がリサちゃんを吹っ飛ばしたのは二回。うん。これもう無理なやつですね。
僕はなんとか抵抗してみるものの、結局リサちゃんから最後の瞬間にも吹っ飛ばされて、敗北を喫した。
ちなみにこれは五ゲーム目だけど、僕は一勝も出来なかった。
「あの自信はなんだったのかしらね、知介。たまにはあなたに負けてみたいわ」
リサちゃんは負けず嫌いだ。……いや、負けず嫌いと言うか勝つのが好きなのかも知れない。殺人鬼を殺す殺人鬼にとって、負けることは殺されることと同じなのだろうけれど、それでもリサちゃんは勝つことが好きなように思える。それが殺殺人鬼鬼たるゆえんでもあるのだろう。
「僕は一度くらい君に勝ってみたいよ、リサちゃん」
「わたしの方なら、負ける準備は出来てるわ」
「僕だって勝つ準備くらいしてるさ」
「準備不足も甚だしいわね」
「ぐぅの音もでないよ……」
僕はニンテンドー64のコントローラーを床に置く。時代はPS3だWiiだなんだと騒いでるけど、我が首塚家で最先端のゲーム機は妹が持っているゲームキューブだ。ニンテンドー64なんてもはやクラスの誰も遊んでいないけど、僕はこのゲーム機でずっと遊んできたわけで、それを準備不足と言われてしまうのなら、僕の人生はいつでも準備不足だと言われているのと同じだ。
「知介、準備もそうだけど、あなたに足りないのは覚悟よ。一〇〇回やれば一回は勝てるなんて思うから、負けてしまうのよ。負けたら死ぬくらいの気持ちでかけっていらっしゃい」
「そうだね、その通りだよリサちゃん。君はいつも正しい。……でも今日はちょっともう、ごめん、心と指が折れたから」
「あらそう、残念ね。ふふふ。指が治ったら、いつかわたしを負かしてね、知介」
「……いいともリサちゃん、準備しとくよ。覚悟もね」
リサちゃんがゲームで勝てて満足げなので、僕はとりあえずそれでよしとしておいた。
ゲームの時間はおしまいだ。僕はテレビを消して、小さいテーブルの上に置いていた駄菓子のBIGカツを一枚、リサちゃんに差し出す。リサちゃんはそれを受け取ると、すぐにあけて一口かじる。そして僕の方へ向き直り、改まって話しはじめた。
「知介、わたしは別に、あなたをスマブラでボコボコにするためにきたんじゃないのよ。わたしはあなたに警告をしにきたの」
僕はボコボコにされて折れた気持ちを切り替えて、リサちゃんの天使すぎる顔を凝視する。リサちゃんも殺人鬼だからだろう、僕から目線を外さない。
リサちゃんは少し事務的に言う。
「この町にまた、殺人鬼が訪れているみたい」
「…………」
これはリサちゃんの殺人鬼予報だ。
どういうわけだか、僕はよく殺人鬼に出会う。理由は分からないけれど、そういう星の下に生まれたのかも知れない。
そんなこともあって、リサちゃんはこうして僕に殺人鬼の情報を教えてくれる。殺人鬼のことは世間一般に広くは知らされておらず、殺人鬼の秘密は殺人鬼とその周りの人々の中だけで基本的に閉じているものだ。しかしリサちゃんはそれを僕に教えてくれる。曰く「殺される人というのは、殺される直前まで殺されることを知らない。でも殺されるかも知れないと思ってるのといないのとでは、当然殺されると思っていた方が生存率は高いはず」とのことだ。なるほどそうかも知れない。僕のそばに殺人鬼が寄ってくるというのであれば、その通りだろう。
つまり、殺人鬼予報ということだ。
なんでも今回の殺人鬼は、殺人鬼とは言うけど実際の被害者が出ていないと言うのだ。じゃあなんでそれを殺人鬼だと断じているかと言えば、その殺人は「夢の中」で起きているらしい。
「人が殺される夢なんて、ありふれたものにも思えるけど」
「そこが妙なところよ。同じような夢を見た人が、何人もいるの」
殺人鬼による殺人は、こんな風に突拍子もないことも殺人だと言われる。命を奪うことと必ずしも等号じゃないのがややこしいところだ。
その殺人鬼は夢の中で人を殺す。しかし夢を見た人は殺人鬼のことも殺された人のことも憶えていない。
ただ分かっているのは、それが「どちらも多分知り合いだろう」ということだけだそうだ。知り合いが知り合いを殺す夢を見るなんて穏やかじゃないけれど、しかしそれはどこまでいっても夢の話である。
「……へえ、なるほどなあ」
「『へえ』じゃないのよ、知介」と、リサちゃんは少し呆れたように言う。「あなたいま『ちょっと興味深いな』って思ったでしょう」
「まさか、そんなことは少ししか思ってないよ」
「思ってるじゃない。……あのね知介、好奇心旺盛なのは結構なことだけど、少しは危機感を持って欲しいの。いつも言っているけど、あなたはどうも、普通の人よりも多く、殺人鬼と接触する嫌いがあるわ。あなたが気付いていないだけで、それは知らず知らずにあなたが危険な目に遭っているということなの」
しかしながら、僕がこれまでに出会った殺人鬼は、全員が人の命を奪うことのなかった殺人鬼だ。
殺人鬼というのは世間的に認められていない病人のようなものだし、僕はむしろ、彼らが苦しんでいるように見えた。……リサちゃんだって、それは同じだ。彼女だって殺人鬼なのだから。
「――うん、気をつけるよ」と、僕はリサちゃんの言葉を心に刻んでおく。「僕も気をつけるから、リサちゃんも気をつけて」
「……まあいいわ。知介にはわたしが付いてなきゃ、ダメだものね。知らない人がいても無闇に付いていったらダメよ」
僕の返事がおざなりに聞こえたのか、リサちゃんは僕を仕方のないやつのように見ている。
彼女は僕のことを全然信用してくれないのだ。
試しに、僕はBIGカツを小さくかじるリサちゃんを見つめながら言う。
「愛してるよ、リサちゃん」
「はいはいありがとう知介」
ほらね。
★
翌日からリサちゃんは殺人鬼を探しはじめた。殺人鬼の対処をするということに関して、僕はリサちゃんの役に立てることが全くないので、それを手伝わせてはもらえない。リサちゃんは夢の中の殺人鬼を見つけようと言うのだ。僕は手も足も出せない。
仕方がないので僕は放課後、クラスメイトと遊ぶために、滑り台と砂場と広場とホームレスの住処しかない吊前公園にやってきた。
「知介お前さー、ツワノキにフラれたからってこっちに遊びにくるの、分かりやすすぎるだろ」と幼なじみの
「人聞きが悪いなノボル、僕はフラれてないよ。ちょっとお互いの距離を見つめ合う時期にきただけだ」
「……お前ら付き合ってないだろ」
「付き合ってないよ?」
「こわい……。何がそこまでお前の生き様を狂わせたのか……」
人生を狂わせてくれたのがリサちゃんで良かったと、僕は思うよ。
ノボルに怖がられはしたが、こいつがこの程度で交友関係を絶つほど薄情でないことも知っているので、今回はそれに存分に甘えておくことにして、僕は話を逸らす。
「ところでアッキーたちはまだこないの?」
ノボルはまだ何か言いたげだったが、リフティングをやめて僕の問いに答える。
「……アッキーとヒロヒロはもうすぐ来ると思う。でもなんかツゲちゃんは、かーちゃんが教育に目覚めたらしくて、塾の体験入学かなにかに行ってるってよ」
「塾? 塾って何するところ?」
「わかんね。学校でやるのより強い勉強してんじゃねーかって思ってる」
「強勉強か、ツゲちゃんすごいな。宿題さえ疎かにしがちな僕らのそれは勉弱ってところか……」
「弱勉強とも言えるな」
「強の打ち消しの弱を打つことで最終的には勉ということになるってわけね」
「力を免れると書いて勉だからな」
「なるほど免れずパワー系で行くか、ちゃんと頭脳系で行くか、悩ましいね」
「そうは言っても、俺らも来年は受験生だからなー。ツゲちゃんはそれだけ本気なんじゃね?」
「……そうか、秋が終わって冬休みにお年玉を貰ったら僕らも三年生だもんな。ノボルは高校ってもう決めてんの?」
「あー、東福岡のサッカー推薦とか貰えないかって思ってるけど」と言いながら、ノボルはリフティングを再開する。「知介は?」
ノボルからパスされたボールを、僕は胸でトラップする。サッカーのジュニアユースチームに所属してるノボルほどではないけど、昔からノボルの遊びに付き合わされているから、僕もそこそこはボールが扱えるのだ。
僕はトラップしたボールをどうにかこうにか落とさないよう、そのままリフティングをするけど、ノボルほどうまくは出来なくて、何度か地面に落としそうになり、それをノボルが拾って、いつの間にかボールを落とさないでリフティングをパスしあう遊びがはじまる。
「高校、僕は近いところがいいな。ツゲちゃんみたいに勉強がんばりたい気持ちはないから、まあ、普通に胸腔高校とか。家から自転車で行けるし。公立だし」
「無難すぎだろ。お前、勉強出来るじゃん」
「ボールを蹴るよりはね。――ああ、それかまあ、リサちゃんが受けるところだね」
僕は再びノボルにボールをパスしたが、ノボルはそれを手でキャッチした。
「……お前は徹底してんな」
「いや、当たり前のことだろ?」
「お前とツワノキがいいなら、俺から言うことは何もないけどよ」
「なんだよ、随分と持って回った言い方だな」
「ツワノキが女子校受けるって言ったらどうすんだよ」
「リサちゃんが女子校? 最高じゃないか。変なやつが寄ってくることもないし、学校帰りに待ち合わせが出来て楽しい。あと日中にメールのやりとりが出来る。いまは家が近すぎてほとんどメールを使わないからね。おいおいなんだそれ楽しくなってきたぞ。お前は天才だなノボル」
「……キモい」
「キモくない」
「キモいし恥ずい」
「キモくも恥ずくもない」
「…………」
ノボルは僕とのやりとりを諦めたのか、言葉を返す代わりにボールを高く蹴ってよこした。僕はそれをヘディングで受けたけれど、ボールはあらぬ方向へ飛んでいってしまう。
それを目で追うと、ボールの向かう先に誰かがいた。
誰だ?
背の高い、綺麗な女の人だった。
「ハロー、少年たち。おねえちゃんもサッカー遊びにいれてくんない?」
この公園では見かけない人に話しかけられて、にわかに空気が変わった気がした。
小綺麗なスポーツウェアを着て、格好も見た目も大人っぽいけど、大学生くらいだろうか、なんとなく大人びているようにも見える。しかし「おねえちゃんサッカー得意だからさ」と言ってへらっと笑う様は、少し子供っぽくもあった。
「……ノボルの知り合い?」と僕はノボルに確認するが、ノボルは「いやぜんぜん」と不審そうにしている。
「あんた誰?」
おねえさんはノボルの質問にすぐには答えず、足元のボールを慣れた感じで蹴り上げて、リフティングをはじめた。……なるほど確かにボールさばきはうまい。ノボルと同じか、リフティングだけならそれ以上にうまいかも知れない。
得意げにボールを扱いながらおねえさんは言う。
「私は通りすがりの家出少女……J。そう、誰が呼んだか、人は私を家出少女Jと呼ぶわ……」
「J?」
「JリーグのJ」
「JリーグのJはJapanのJだよ……」家出少女日本代表ってこと?「ていうかおねえさん、家出少女なの?」
「そうとも。そういうわけでちょっと身分は隠しがちにしてるからね、ごめんね。――そうだね、私のことはJ……J……ジョン……そう、ジョン・ドゥ子とでも呼んでね。ミステリアスな魅力を惜しげも無く発揮して申し訳ないなあ。ふふふ、男子中学生の君らには刺激が強いかも知れないね。おうちでおねえさんのこと、おかずにしていいからね」
地面に落ちたサッカーボールに足をかけ、身振り手振りも大げさに、おねえさん――ジョン・ドゥ子さんはさも自信ありげだ。
しかしノボルが「うちのねーちゃんよりおっぱいは小さい」と僕に耳打ちする。ノボルはシスコンおっぱい星人だから仕方がないだろう。ちなみに僕は胸の大きさで女性を選り好みするような不埒な真似はしない。どんな状況でも僕が選ぶのはリサちゃんだけだし、リサちゃんの胸がどんなにえぐれていたとしても僕は彼女を好きでいられる。おい誰だリサちゃんの胸がえぐれているなんて言うやつは、許さないぞ。
「なんだよ少年たち、大人の女性にたじたじかい?」
ノボルの耳打ちは、おねえさんには聞こえてなかったみたいだ。
「まあジョン・ドゥ子さんが何者でもいいよ」と僕は言う。「この公園、昔からホームレスの人がなんかたくさん住んでるしね。入れ替わりも多いし」
「そうみたいねー。昔からいるのも戦車さんだけみたいだし」
「あれ、ドゥ子さん戦車さんのこと知ってんだ。ってことは、おねえさんはこの町のひと? 随分と近場で家出するんだね」
戦車さんってのはこの公園に昔から住んでる老人で、年齢も男か女かも分からないけど、いろんなことを知ってる博識なホームレスのことだ。僕らが小さい頃からこの公園にいる。それを知ってるおねえさんは、多分この町のひとなんだろう。
「まあね。ちょっと親子げんかしちゃってさ。いまはホームレスのおじちゃんおばちゃん、おにいさんおねえさんたちにお世話になってるの。しばらくこの公園にいるからよろしくね」
「なるほどね。それなら早く家に帰った方がいいよドゥ子さん。そういうのは長引くと引っ込みがつかなくなって、謝りづらくなっちゃうから」
「……おねえちゃんも中学生に正論を突きつけられると、結構つらい……。はやく……はやくサッカーしないと……」
サッカー大好きかよ。
まあこの公園ではホームレスのおねえさんなんてそれほど珍しい存在でもない。こんなベッドタウンの片隅の公園でホームレス生活を営むなんて、みんなどうやって生きているのか知らないけど、昔からこの公園はそういうところらしい。
「変なひとだけど、サッカーうまいから入れてやるよ、ドゥ子ねーちゃん」とノボルが言う。それについては僕も異論はなかった。
それから丁度いいタイミングで他のメンバーもやってきて、結局おねえさん対僕たちでサッカーをすることになったけど、おねえさんにどうにか食らいついていたのはノボルくらいのもので、一時間経つ頃には僕もアッキーもヒロヒロも戦意を喪失していた。
「あのおねえさん何もんだよ……」とアッキーが天を仰いで言う。
おねえさんとノボルはリフティングで遊びながらなにか、サッカーの意見交換会をしているみたいだ。
僕たちは公園の隅のベンチに腰掛けてそれをしばらく眺めていた。が、突然、視界が何かに遮られた。
「ちょっといいかな、少年たち」
今度は目の前に、おっぱいがめちゃくちゃ大きい女の人が現れた。
……なんだ、今日はそういう日なのか? 綺麗なおねえさんに話しかけられるみたいな、そういう。
「おねえさん、誰?」
「私の名前は
「…………」
なるほどね、またやばそうなのが出てきたな。
ちらっとアッキーとヒロヒロを見ると、二人ともおっぱいを見て行動が出来なくなっていたから、この状況をどうにかするのは僕の役目らしい。
「えーっと、なにか用?」
僕がおずおずとそう切り出すと、錵さんは振り返らずに後ろを親指でさした。
「あの女は何者だ?」
その先にいるのは、ノボルと一緒にいるドゥ子さんだ。
「ジョン・ドゥ子っていう、ホームレスのおねえさんだよ。本人は家出少女って言ってたけど」
「いつからここにいる?」
「さあ……ここ数日のうちからだと思うけど」
「君たちは、あの女の知り合いじゃないのか?」
「まあ知り合いだけど、ついさっき知り合ったばっかだよ。あの人が何者かは誰も知らない」
「そうか……」
「おねえさんは顔見知りじゃないの?」
「いや――知り合いかも知れないし、そうじゃないかも知れない」
「え、どういうこと」
「分からない、ただあの女の顔を見ると、なんとなく心がぐらぐらするんだ」
「ふーん」
恋かな。
「悪いな少年たち、邪魔をした」
そう言うと錵さんはおっぱいを揺らしながら姿勢良く、僕たちの前から早足で歩き去っていった。
「あんなおっぱいが存在するとは……」
ドゥ子さんの方を見ながら、神妙な面持ちでアッキーがそう独りごちた。
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