私たちはどこへ行くのか

 店に戻った私たちは、奥の部屋の隣にある書庫に入った。

 板敷の床に手を当て、私しか知らない解呪の言葉を口の中で唱える。床の一部が音もなく持ち上がって、地下に繋がる階段が現れた。

 澱んだ空気と共に、真っ暗な階段の先から音にならない無数のささやき声が上がってくる。私は目を閉じた。

 地下への扉を開ける時はいつもこうだ。嫌な気分ではない。ただ、耳を澄ませて声に聞き入っていると、ここではないどこかへ連れていかれそうな気がする。


 私たちは一度死んで、それからここに来て生の上澄みみたいなことを繰り返し、そしてそれらを全部忘れて陰府に入る。どうしてそんなことが必要なのか? 私はここで何をしている?


「アキちゃん」

 三淵くんがそっと肩に手を置いた。

「あっ」

 少し息が詰まり戸惑ってから、私は肩の手に自分のを重ねる。

「アキちゃんは感応性が高いんだ。あまり声を聞いてはいけない」

「うん、ごめん」

 三淵くんの手は温かい。生とか死ではなく温かい。それで私は安心した。

「降りるよ。僕が先に行く」

「段差が急だから気をつけて」

 無言でうなずいた三淵くんが階段に足を乗せると、真っ暗だった地下室が全体にぼうっと輝いた。

 三淵くんは一歩ずつゆっくりと階段を下る。私は余計なことは考えないように、前を行く背中だけを見て後に続いた。

 階段の下は殺風景なコンクリートの打ちっぱなしの部屋だ。両壁と中央に本棚がある。本は、普通の本棚のように背表紙を前にして並べるのではなく、表紙を上にして一冊ずつ置かれている。

「ここでいいよ」

 私は本棚の空いた一角を指差す。

「わかった。じゃあ念のためにこれを」

 三淵くんの差し出した手には、封印紋の描かれた紙の紐があった。受け取った私は手早く本を十字に結んでから棚に載せた。

「おやすみ。ここなら誰もあなたの邪魔はしないよ」

 少しの間、二人で手を合わせる。その間だけは、地下のささやきも止まったような気がした。


 和田親子への家の引渡しが無事終わって数日後、美夜さんが店に来た。

「借りに来たよ」

「あ、いらっしゃい。来てくれたんだ」

 私が言うと、美夜さんは本棚をきょろきょろ眺めながら答えた。

「だってこの前の本、気になるもんね」

「それならこっち」

 古典関係を並べた棚から古事記を取る。

「ふーん」

 受け取った美夜さんは首を傾げた。

「これ、なんか違くない?」

「どうして?」

「書きこみが無くなってる」

「ああ、怪異と一緒に消えたみたいね」

 私はすっとぼける。

「ほんとかなあ」

 美夜さんは本をためつすがめつ見ている。

「怪異が抜けて印象が変わったかもだけど、重要なのは中身でしょ」

 うーんとうなりながらも美夜さんはうなずいた。

「じゃあこの本借りてくよ。やまとの国がどうのこうのってやつ、けっこう良かったし」

 良かったというわりに全然覚えていない。

「やまとは国のまほろばね」

「そうそう。あの歌ってさ、なんか私たちっぽいよね。いい意味でもそうでない意味でも」

「え?」

 日が陰ったのか、店内がすっと暗くなる。

「現世からも、陰府ってのからも離れて、なんか春に外が暖かくなってきたけど別にあんたはやることないよ、みたいな。置き去りにされちゃったような気分だよ」

 美夜さんは私の手を取って、指を一本ずつ確かめるように握っていく。

「私たちって幻なのかな」

 確かに、私たちは隔てられ、守られている。ここには病も、人間同士の戦争も、老いさえもない。だけどそんな私たちは一体何なのだろう。

「……考えても仕方ないよ」

 半ば自分に言い聞かせるように、私は答える。

「ここでの生活には期限がある。その時まで、あっちでできなかったこととかやって過ごせばいいよ」

「そうだよね。ごめん、考えすぎた」

 美夜さんは手を離してうなずいた。

「ちなみに一乗さんは昔やりたかったことってあるの?」

 私は胸を張る。

「古本屋になりたかった!」

 美夜さんは笑い出した。

「良かったじゃん、願いが叶って」

 そう言うと手を振って外に出ていく。

「またのお越しを」

「もちろん」

 店を出て美夜さんを見送り、それから曇り始めた空を見上げた。


 雲の合間から差す陽光に向かって、アゲハチョウが一羽、揺らめきながら飛んでいる。チョウはやがて方向を変え、昼でもびかびか星の輝く陰府の闇に吸いこまれていった。

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