第一話 亡き偉大な作家のすかすかな魂が憧れた光景
事件の始まり
お昼に天ぷらなどいただいて店に戻ると、鍵のかかった戸の前で店内をのぞきこんでいる男の人がいた。知らない顔だ。
「お店にご用ですか」
声をかけるとその人は慌てて振り向いた。
「失礼。後ろにいるとは思わなかったもので」
動揺を隠すつもりかジャケットのしわを伸ばして胸をそらす。元々の身長もあってそうやるとかなり背が高く見えるが、体格は普通だし童顔なのでちょっと頼りない感じだ。
「何かお探しの本でも?」
私はもう一度聞いた。通りすがりに寄っただけなら、あんなふうに店をのぞきこんだりしない。これと決めた要件があるはずだ。
「ええと――。こちらは貸本屋さんですよね」
木の板に横書きで『貸本槙島』と大書された看板を見上げながら、お客――と思われる人は尋ねる。
「はい。お客さんから買い取った古書を貸本に回してます。この街に出版社はないですからね」
出版社がないのに本がある理由は、「プノイマ」と呼ばれる一種の霊気を使って個人で作り出すことができるからだ。もちろん本だけではない。衣食住の全て、それどころか、私たちの身体や精神もプノイマでできている。ちなみにプノイマは陰府から決まった量が無償で支給されており、また通貨代わりにもなっている。つまり私のように店を営む者は、お金の代わりにプノイマをやり取りしているわけだ。
「古書店兼業の貸本屋ということですか? ……それならあり得るかな」
相手は独り言のようにつぶやいた。
「あり得る?」
「ええ。実はこの店に私の祖父が預けた本があるということで」
「はあ、お祖父さんの――」
気づかれないように少しずつ目をそらしながら、私は答える。面倒なことになるかもしれない。
お客は自分を尾形と名乗った。祖父の名は黒田谷堂、というから驚いた。教科書にも載るくらいの有名作家だ。
「その黒田先生がこの店に本を預けたんですね」
店内に尾形氏を招き入れながら私は聞く。
「ご存じなかったですか。祖父は七、八年前までここにいたそうなので、もしかしたら直接お話しされてるかと思ったんですが」
尾形氏の言葉にはいくらかの失望が混じっていた。
「ごめんなさい。私はこの街に来てまだ三年です。お店を継いでからだと、ほんの一年」
外見から年齢や経験がわからないのは、こういう時不便だ。
「いえ、失礼しました。私は少し前に来たばかりで」
尾形氏は頭を下げた。
「そうでしたか。ではまだここの暮らしに慣れないでしょう」
「ええ。もっとも、本当は慣れるほど滞在するつもりはなくて、すぐにも川を渡ろうと思っていました。祖父の本のことを知って、どうしても読みたくなりましてね」
川、というのは、街と陰府の境にある「忘却の川」だ。街はこの忘却の川と、それから生者と死者の世界を隔てる「嘆きの川」に挟まれた場所にある。
嘆きの川の水に触れると、二度と生者の世界には戻れなくなる。そして忘却の川に浸かると、その名の通りそれまでの記憶を全て失ってしまう。そうやって、人は全て純粋な魂に戻って陰府に還っていくのだといわれる。私たち街の住民は、嘆きの川を渡り、けれども忘却の川は越えずにたゆたっているわけだ。
「その辺でお待ちください。仕入れ帳に当たってみます」
言い残して私は奥の部屋に入る。向こうの壁一面が作りつけの棚で、何十冊もの大学ノートが収まっている。この中に、先代が店を始めて以来、全ての仕入れと販売が記されているのだ。――もっとも、表に出せる全て、だが。
私は尾形氏に声をかけた。
「黒田先生が街を出たのは正確に何年前か、わかりますか?」
「さっきお伝えしたように、七年から八年前だと思います。すみません、それ以上詳しくはわかりません」
尾形氏の答えが返ってくる。ありがとう、と答えて私はまだ読んだことのない仕入れ帳をまとめて取り出した。
ここでは本は貴重品だ。だから、所有する本が処分されるのは街を出る、すなわちここでの生活を終わらせ陰府に還る時と相場が決まっている。つまり七年前から八年前までの仕入れ帳に、黒田谷堂の蔵書の購入が書かれている可能性が高い。まずはそこに当たりをつけ、仕入れ帳を開いた。
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