失われた遺稿

 予測は当たって、調べ始めて三冊目で目的のものにぶつかった。七年半前の仕入れ帳だ。六十ページある大学ノートの後半が、全て谷堂からの購入で埋まっている。さらに続きの仕入れ帳も、最初の十ページ分まで谷堂の分だった。一ページあたり五冊が記入されているので、四十ページとしたら二百冊。ここでは、個人でそれだけの本を所有する人はごく少ない。プノイマと物品の変換コストは生活必需品ほど低いかわりに、娯楽や教養の品となると呆れるほど高くなるからだ。さすがは作家先生といえる。

「仕入れの記録がありましたよ」

 二冊の大学ノートを持って私は店先に戻り、棚の本を眺めていた尾形氏にそれを渡した。

「ありがとうございます」

 尾形氏は真剣な表情になってページをめくり始める。

「十年経ってないですから、どの本も店にあるはずです。読みたいものがあったらお探しします」

 十年とは、ここで定められた物の保存期間だ。市役所に預けられた遺言状を除いては、どんな物であっても十年使われないでいると陰府に回収されてしまう。

 本ならばページをめくるのが使うことに当たる。この店では引取りの際に丁寧に全ページを確認しているから、誰にも読まれなくとも購入後十年まではどの本も残っている。

 私の言葉に黙ってうなずきながら尾形氏はゆっくりページを繰っていた。だいぶ集中しているようだから、私はそれ以上話をせず、店の雑事をして待った。


「ない」

 しばらくして、小さな声が聞こえた。顔を上げると、尾形氏は硬い表情でノートを見つめている。

「お探しの本、なかったですか」

 そう聞くと、尾形氏は眉間にしわを寄せた。

「あるはずなんです。知りませんか、『蝉の雨』という作品なんですが」

「『蝉の雨』ですか……。黒田谷堂なら私もいくつか読みましたけど、そういう名前の作品は聞いたことがないですね。もちろんこの店で扱った記憶もありません」

 私の答えを聞くと、尾形氏は目を伏せて息をつき、それから話し出した。

「ご存じないですか。祖父には幻と呼ばれる作品があるんです。晩年の祖父は人間嫌いになって、未完となった最後の作品の原稿を誰にも見せず、結局出版もしないで、遺言で自身の棺に入れて燃やしてしまった。それが『蝉の雨』です」

 尾形氏は仕入れ帳を横に置いて、店内を眺め回した。

「生前だけじゃない。死んだ後もなお祖父はここで『蝉の雨』の執筆を続けたんです。私が探しているのはその最終稿です」

「それがこの店にあるはずだと? ですが、仕入れ帳は今お見せしたもので全部です」

「本当ですか?」

 尾形氏はジャケットの内ポケットを探ると、封筒を一つ取り出した。

「見てください。この街に来た日に、役所で受け取ったんです」

 宛名には「尾形信宛」とある。信は尾形氏の名前なのだろう。差出し人は黒田谷堂。

「父は作家の息子のわりに文学に興味がなくてね。私は若いころ小説家を目指したこともあったから、祖父には目をかけられてたんです」

 話しながら尾形氏は封筒を逆さにした。二つ折りになった小さな便箋がはらりと出てくる。

――蔵書は全て、槙島という書店に引渡し済み。完成した『蝉の雨』の最終稿あり。

 便箋にはそれだけ書かれている。私は唸った。

「おかしいですね。この店で買い取った本なら、必ず仕入れ帳に載せるんですが」

「本ではなくて、原稿のままだったのかもしれない」

 尾形氏の意見に、私は首を振る。

「いいえ。もし原稿を引き取ったとしても、仕入れ帳には必ず書きこむはずです」

 尾形氏は無言で腕を組んだ。しばらくそうした後で、もう一度店内を眺め回して言う。

「失礼ですが、この店の在庫はこれで全部でしょうか。もしここ以外に書庫があれば見せていただきたいんですが」 

「申し訳ありません」

 私はすぐに答えた。

「書庫は確かに別にありますが、プライベートな預かり物もあるので、お客さんにお見せするわけにはいきません」

「どうしてもですか」

 尾形氏は背をかがめ、私を見下ろすようにした。最初に感じた頼りなさが消えて、顔つきに焦燥感のようなものが見える。正直に言って、少し怖かった。

 けれど私は尾形氏から目を背けなかった。私はこれでもこの店を預かった身だ。ちっぽけだが責任感とプライドがある。

「ごめんなさい、どうしてもダメです」

 尾形氏はそれでも視線をゆるめず、しばらく睨み合いが続いた。誰か別のお客でも来ればと願ったが、こういう時に限って表には人の気配もない。

 尾形氏の表情から次第に険しさが消え、懇願するような目つきに変わってきた。どちらかというとこっちの方がキツい。童顔なのもあって、年下の子の頼みを無下に断っているような気分になる。それでも私は、心の中で責任、責任と唱えて目をそらさない。

 屋外から蝉の声が聞こえる。ヒグラシだ。単調な音で、聞いているとだんだん頭がぼうっとしてくる。

 雨のような、蝉の声。なんとなく、真っ赤な夕方が頭に浮かんだ。夕闇を前に、その音ばかりに耳を澄ませていた人間の心情は一体どんなものか。知りたい? ならばそれは――

「それは」

 無意識に口から言葉が出た時、閉め切っているはずの奥の部屋から急に冷たい風が吹いた。首筋がぞくっと震え、私は我に返った。

「できません」

「――失礼しました」

 尾形氏はやっと折れた。私は気づかれないよう静かに息をついた。

「書庫に入ることがあったら谷堂の本には気をつけます。ただ、仕入れ帳にないものがあるとは思えませんが」

「お願いします」

 頭を下げてから振り返る尾形氏を、店の外まで見送る。

「ご期待に添えなくて残念です」

 余計な期待を持たせないよう、最後にそう声をかけてから店に入った。

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