妖怪係の懸念
尾形氏の姿が見えなくなるのを待って戸を閉め、鍵をかけた。奥の部屋に入ると、仕入れ帳の入っていた棚の、さらに向こう側にある隠し棚を開け、中に一冊だけ置かれたノートを取り出す。
これは裏帳簿だ。何か因縁があって怪異に取り憑かれた本が記されている。
ページをめくっていくと、果たして黒田谷堂の名と『蝉の雨 最終稿』の記載を見つけた。思わず額に手を当てる。
私は店に戻り、勘定場の下にある目立たない戸棚を開ける。中から黒い古風な機械を取り出して、しばらく眺めた。電気や内燃機関を使った機器の所有が禁止されたこの街でわずかに使用が許された例外、電話機である。
やけに重い受話器を取り上げてダイヤルを回す。呼び出し音が鳴った途端、がちゃりと受話器を取る音がした。
「はい、比良坂市役所総務課です」
聞き覚えのある事務の女性の声だ。
「お世話になります。槙島書店の一乗です」
「ああ一乗さん、こんにちは。三淵さんにご用ですね」
こちらが告げる前に向こうが先回りした。受話器の向こうから、三淵さんお電話ですよーアキちゃんさんです、と呼ぶ声が聞こえ、続いて笑い声が起きる。
「やあアキちゃん。何か怪異でも出た?」
軽い口調の返事が受話器から聞こえてきた。
「その、どこでもアキちゃんって呼ぶのやめてよ。みんな笑ってるじゃない」
三淵くんとはこの世界にたどり着いて以来の縁だから、下の名で呼ぶのは構わないが、時と場合はわきまえてほしい。
「誰にも覚えられないより、笑われるくらいの方がいい」
三淵くんはしれっと答える。
「ならあんたが笑われなさいよ」
「僕は既に大抵のことじゃ笑われないからなあ」
三淵くんは大げさにため息をついた。確かに彼はかなりの変人だから、いちいち笑っていたら周りがもたないだろう。エピソードにも事欠かない。演奏会の最中にピアノに怪異が宿っていると言ってステージに駆け上がったとか、勝手に民家の屋根裏に潜りこんで自分が怪異と間違われたとか、市役所裏の崖を調べているうちに川に落ちて陰府まで流されかけたとか。
「笑いの話はベルクソンにでも任せとこう。そっちは何かもっと重大な問題が起きたんじゃないの」
余計なことを考えていた私に、三淵くんは先を促した。
「そう、そうだった。帳簿にない本が見たいってお客が来たの。黒田谷堂って知ってるでしょ、作家の。その人の孫だって名乗って。気になって調べてみたら、その本、裏帳簿に載ってたのよ」
しばらくの沈黙の後で、真剣な声が返ってきた。
「裏帳簿か、厄介だな。まさかその本、見せてないよね」
「見せるわけないでしょ」
答えた後で、蝉の声が聞こえた時のことを思い出した。
「見せてないけど、ちょっと危なかったかも」
それを聞いて、三淵くんは何かを察したらしかった。
「直接そっちに行った方が良さそうだね。お客が来たのはいつ?」
「ついさっき」
三淵くんはうーんと唸った。
「この電話、盗み聞きされたりしてないよね」
私は閉じた戸の、ガラスの向こうを見る。もちろん誰もいない。
「大丈夫。店は閉めたし、のぞかれてもいない」
「そう。でも、急に店を閉めたのは見られたかもね。そうしたら不審感は抱かせてるな。もしかすると店の近くで見張ってるかもしれない。早々に僕が駆けつけるのを見たらますます怪しむだろう」
尾形氏が近くに隠れているかもと考えると嫌な気分になった。どこからか視線が粘りつくようだ。
「できるだけ早く来てほしい」
私は正直に言った。少しおいて受話器の向こうから、わかった、と声がした。
「少し時間をおいて、そうだね、夕方の六時までにそっちに行くよ」
「ありがとう」
「いや、いいんだ。扱いによっては危ないものを保管させてるこっちにも責任がある」
「良かった。ごめんね、急に」
そう言ってから、自分が三淵くんに頼りきった声を出しているのに気がつき、私は咳払いした。そのせいか、三淵くんの口調も軽いものに戻った。
「それじゃ夕ご飯はご馳走になるよ。魚、食べたかったんだ」
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