船出、そして残された人間

 三日後、場所は忘却の川の岸辺である。

 集まったのは、尾形氏と三淵くん、私、それからもう一人、いや正確には一人といっていいのかわからないが、とにかく全部で四人とする。本来、陰府に渡る人間には教導部の担当者が付き添うのだが、今回は特例として三淵くんが代理を務めている。

「皆さん、本当にご迷惑をおかけしました」

 尾形氏が深々と頭を下げた。ここに来る前、氏は住民登録の抹消を終えてきた。

「いいですよ、結果として呪物を一つ減らせましたし」

 三淵くんが答え、尾形氏の手元を見る。先日の燃え残りだ。

「それをあっちに送れば一件落着です」

「そちらが怪異に変じたコクドー氏の精神ですか」

 ややおかしなイントネーションでそう言ったのが、一人と数えて良いものか迷う、すなわち陰府の使者であり人間とは違う存在の、レタトリンだ。

「焼け残ったほんの一部分だけどね」

 私が答えると、尾形氏は軽く首を振った。

「これだけでいいんです。全然ダメですよ、他のところは」

「ずいぶんはっきり言うのね。あんなに読みたがってたのに」

 尾形氏は微笑んで話し始める。

「実際見てわかりました。祖父の描く風景は確かに美しい。だけど私たち読者がそれを美しいと感じるのは、風景と登場人物の心理が分かちがたく結びついていたからです。『蝉の雨』では、きれいな情景はあっても、それに心情を重ねる人間がいなかった。晩年の祖父は人間不信に陥っていたから」

「ああ、それで書割りみたいな人しか出てこなかったんだ」

 私はそれで納得が行った。

「その通りです。だから『蝉の雨』は駄作です。ただ一つ、原稿の一番最後を除けば」

 そこまで言うと、尾形氏は手に持った現行の切れ端をこちらに向けた。そこにはごく小さく、着物を着た可愛らしい女の子が、ほんの落書きのように描かれていた。

「これが『蝉の雨』に登場するたった一人の人物です」

 私は尾形氏の言葉を引き受けて続けた。

「谷堂の部屋で掛け軸に触った時、その子が私の中を通っていった。その時、私、わかったよ。谷堂の魂はほとんど怪異に変わってたけど、その子の中にだけ、本来の谷堂の心が残ってた」

 レタトリンがうなずいた。

「人間というものは一つの魂から二人とか三人とか矛盾する精神を生み出したり、おかしな回り道をしたり、自分の心を自分から隠したりするものです。むしろそういう合理的でないところを我々は求める」

 レタトリンは微笑した。それは慈愛の笑みにも見えるし、または冷笑であるようにも感じられる。陰府の使者の思考は私たち人間にはわからない。

「よろしいかな」

 レタトリンが手を差し出す。尾形氏は私たちにもう一度頭を下げると、紙片を持った手をレタトリンに預ける。

「それでは」

 尾形氏の手を引いて、レタトリンは忘却の川に分け入る。音もなく進むその後ろ姿が陰府の闇の中に見えなくなるのを、私たちは見送った。

「あそこに行く時はどんな感じがするのかな」

 既死者が辺土に留まって良い期間は最長で二十年と厳密に決まっている。私はここに来てまだ三年、それでも終わりまで残り何年と何日か、つい数えてしまう。

「まだ考えなくていいよ」

 私の心を読み取ったように三淵くんが告げ、肩に手を置いた。その手の感触で思い出した。

「そうだ、ありがとね。谷堂の部屋に行った時、三淵くんが助けてくれなかったら、私、あいつに取りこまれてた」

「えっ、いつのこと?」

「谷堂の世界から脱出する直前よ。空が裂けて三淵くんの声が聞こえたの。ここから出ろって」

「あの時か――」

 肩に置かれた三淵くんの手が、心なしかこわばった。

「どうかした?」

「帰ろうか」

 三淵くんの手が私を引き寄せて反対側を向かせる。それから二人並んで歩き出した。

 しばらく黙ったまま、三淵くんと足が引っかからないように気をつけて進んだ。

「アキちゃん」

 河川敷を過ぎて、街への一本道に差しかかったところで三淵くんが口を開いた。

「アキちゃんも、ううん、僕たちも、何て言えばいいのかな、尾形さんと似たようなものを抱えてるらしい」

 いつもはっきり物を言う三淵くんにしては曖昧な言葉だった。

「それ、地下にある本のこと?」

「……それだけじゃない」

「えっ?」

「谷堂の世界から君を助けたのは僕じゃない。あの時、僕以外の何かの力が谷堂の原稿を破ったんだ」

 私は急に、尾形氏と最初に会った時のことを思い出した。尾形氏から書庫について問われて答えそうになったあの時も、なぜか閉め切られた奥の部屋から風が吹いて私は我に返った。あの風も同じ力だったのだろうか。

「書庫の中に、本以外の怪異がいるの?」

 三淵くんは小さく首を振った。

「わからない。力を感じたのは本当に一瞬だったから。でも強いて言えば、そいつの気配は僕とアキちゃんが一緒にいる時に感じる雰囲気に似ていた」

 心の芯を風になでられたような気がした。不安、安心、どちらともつかない感情が膨れて息がつまり、だけど私は無理して強い声で、でも、と答えた。

「その力、私を守ってくれたんだよ。大丈夫だよ」

 三淵くんは歩きながら長い息を吐き出した。

「……そう、そうだね。少なくとも僕らに対する悪意は感じなかった」

 そう答えながらさらに肩を引き寄せたから足が絡まった。

「あっ」

「うわっ」

 土の道にどう転がったのか、気がついたら二人仲良く手をつないで、仰向けに空を見上げている。くくっ、と三淵くんが笑い出したので、私もつられてくすくす笑ってしまう。


 そのままずっと、次の陰府送りを先導する教導部の人が来るまで笑っていたのだから我ながらのんきな話だ。ついでに三淵くんの変人エピソードにも新しいのが加わってしまった。

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