第二話 迷える剣士の追憶に捧げる無限に透明な絵画
神獣と結澄さん現わる
その日は一年ぶりの、大規模な怪異の襲撃があった。
私はビールを飲んで寝ていた。行きつけの食材店にナンプラーなんて入っていたので紫蘇と鶏のひき肉でガパオもどきを作り、ガパオならタイのお酒だろうといつもの国産のから浮気して獅子のロゴの入った向こうのビールにしたら、軽いのでどんどんいってしまったのだ。
酔うと眠くなるのが困った癖で、まずいと思った時にはもう洗い物は無理、洗顔もそこそこに布団に潜りこんだ。麻痺するような睡眠の快楽に浸ると急速に感覚が失われ、このまま消えてなくなるんじゃないかという変な不安を覚えつつも私は夢に落ちた。
先に二回、防災無線で警報が鳴ったというが、私にはまったく記憶がない。飛び起きたのは三回目、最大音声で警報が流れた時だ。
『緊急警報、市内に怪異が侵入しました。市民の皆さんは家から出ないでください』
続いて特大のサイレン。私は布団を跳ねのけて、窓を開けて外を見ようとしてから開けてはいけないと考え直し、その時一階の店のシャッターを下ろしてないことに思い当たった。
慌ててプノイマ式携帯ランプを点け、その辺のものを羽織って階段に走る。途中でビールの空き缶につまずきそうになり、うわどうしてこんなところにこんな大量の缶がといぶかしみつつよたよた店頭に向かった。
引き戸の鍵を開けようと近寄った時、ガラスの向こうの地面を黒い影が映りこむのが見えた。実体がどこかわからず動けずにいると、今度はどすんと何かが落ちる音が聞こえた。それでようやく、さっきのが上空の何かの影だとわかった。
重い足音がまっすぐこっちに近づいてくる。店が狙われている、と思って頭の後ろが冷たくなった。私は勘定場に走ると、電話を引っ張り出して市役所のダイヤルを回した。ゆっくりとしか戻らないダイヤルも間延びした呼び出し音ももどかしい。
「はい比良坂市役所!」
知らない男性の声がした。
「あっ、槙島書店です
うっまずい、と男性が言って、おい警備部だ至急警備部を回せ槙島さんだよ妖怪本屋の、と電話の向こうの誰かに怒鳴るのが聞こえた。妖怪本屋って何だよと思ったが今はそれどころではない。
「すぐに人を寄越す、あんたヤバい本を外に出してないだろうね」
総務課の人間は、この店に怪異の憑いた本があることを知っている。
「怪異憑きのは全部封印した地下室です」
「そりゃ良かった。くれぐれも気をつけて――」
相手がそこまで言った時、激しい衝突音がして引き戸が倒れた。私は電話を放り出し、とにかくそこにあったほうきをつかんだ。
ぎいとかぴいとか甲高い鳴き声を上げながら店に入ってきたのは、四つ足で日本画の龍みたいな頭にねじくれた後ろ向きの角を生やし、背中に二枚の翼のある……麒麟? 首の長いのではなく、神獣の方のだ。
呆れる私をよそに麒麟は店内に入りこみ、入口前の本棚にぶつかった。大して本が入ってなかった本棚は簡単に倒れてばらばらになった。
「やめて!」
反射的に私は麒麟の前に飛び出していた。
麒麟の方は私の剣幕にたじろいだように数歩退がったが、そこで留まってガラスを引っ掻くような声で鳴いた。目の奥の方がゆらっと光る。火だ、と思うのと同時に手が動き、麒麟の頭にほうきを思いきり叩きつけていた。ごふっと音がして炎のかけらが飛び散る。さっき倒れた本棚の残骸に火がつきそうになったのを、店の端にあったバケツの防火用水をかけてなんとか消し止めた。
「来るな! あっち行け」
私はバケツを振り回した。だが麒麟は構わず向かってくる。振りかぶってバケツをぶつけようとしたが、麒麟はそれを簡単に顎で叩き落とした。足元に転がったバケツをひづめが踏みつけると、バケツはアルミ缶のようにくしゃっと潰れた。
麒麟が燃える目で私を睨んだ。悲鳴はかすれて声にならず、足ががくがく震えたが、それでも逃げるという選択肢は浮かばなかった。ただの本屋の私はやっぱり本が好きだ。この仮初めの命に替えても本を守りたい。
麒麟が一歩近づく。私はほうきの柄を握りしめた。なぜか三淵くんの顔が浮かんだ。
次の瞬間、麒麟が激しくひづめを蹴り立てた。私はほうきでめちゃくちゃに麒麟の頭を殴りつける。すると驚いたことに麒麟は二、三歩退がり、回れ右して店を出ていく。意外と効いた?
「待たせたな」
突然、外から女性の声が聞こえた。麒麟が威嚇の声を上げ、道に出る。私も追いすがるように店の入り口に立った。
月明かりの中、白い筒袖の上着に胸当てを付け、黒い袴を履いた女性が立っていた。手には木刀を提げている。
「怪我はないか」
女性はこっちを見ると、白い歯を見せて笑った。
「は、はい」
私がこくこく頭を揺すると女性はうなずき返し、それから麒麟に向き直る。
「貴様、無辜の市民を狙うとは許せん」
女性は時代劇のようなセリフを吐いた。
「あの、あなたは一体――」
つられてこっちも時代劇の端役みたいな聞き方をしてしまう。
「比良坂市役所教導部教導特殊課特務係の
女性、いや結澄さんは一息で言い切った。
「同じく経理部運用課防災係の
その時初めて結澄さんの後ろに小さい男の人がいるのに気がついた。こちらは普通のワイシャツにスラックス、ネクタイまで締めている。その格好で巨大なスクールバッグ風の鞄を肩に掛け、さらに細長い布袋に入った何かを背負っているから、なんだか部活帰りの中学生のようだ。スクールバッグからは棒が何本も突き出している。結澄さんの持っているのと同じ木刀だ。
私が伊福くんに気を取られていると、目の端で光が飛び散った。慌てて視線を戻す。結澄さんの木刀が煙を上げていた。
「ふう、危ない」
結澄さんは木刀を放り捨て、麒麟を睨んだまま、次っ、と怒鳴る。伊福くんがスクールバッグから素早く抜き取って投げたのを、結澄さんは振り返らずに片手でつかんだ。そのまま背をかがめて走り出し麒麟の懐に飛びこむ。下から払い上げた木刀が麒麟の前足を一本、見事に断ち切った。
麒麟はぎええと唸って後退する。
「次だっ」
結澄さんが叫ぶのとぴったり同時に伊福くんが新しい木刀を投げた。受け止めた右手が大ぶりに振られ、麒麟の残った前足を粉砕する。
前足を失った麒麟は二本の後足だけで立ち上がり、結澄さんに向かって牙をむきながら翼を一振りした。突風が起こって結澄さんはたたらを踏む。と、麒麟は物理法則を無視して真上に浮かび上がった。数メートル上昇したところで羽ばたき、空を駆け上がる。またたく間にその後ろ姿が小さくなる。
「伊福くん、弓!」
「はいっ」
伊福くんは背中の袋の紐を解いて、長い和弓と矢を取り出す。結澄さんは流れるような動作でそれらを受け取り引き絞ると、狙いをつけたのかもわからないうちに放った。
矢が夜空に吸いこまれて見えなくなった――と思った次の瞬間、麒麟の背中がぱっと輝き、続いてその光が墜落した。結澄さんはふうと息をつき、弓を伊福くんに戻す。
「やったと思うが一応見てくる。刀、一本頼む」
「はい、いつもながら鮮やかでした」
木刀を手渡しながら伊福くんが言うと、
「そう?」
うふふ、と結澄さんはそこだけやけに女の子っぽく笑った。だが私を見てすぐに表情を引き締める。
「伊福くん、後は頼んだ」
一声叫んで脱兎の如く駆けていく背中を、私は礼を言うのも忘れてぼおっと見送った。
「……かっこいい」
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