無限の夕闇
谷堂の仕事場は南西の端だ。廊下はどこかから入った夕日と影で赤と黒のだんだらになっており、歩くと自分がそれに侵食されるみたいで気持ち悪かった。
少し進んで、私は立ち止まる。
目の前に、和室につながるだろうふすまがある。その中から声が聞こえた気がした。一瞬躊躇したが、覚悟を決めて襖を開けた。
足を踏み入れた瞬間に、無数の蝉の声が鳴り響いた。ヒグラシだ。向かって左、西側の壁は一面がガラスの引き戸で、今は開け放たれている。真っ赤な空と、逆光になってどす黒い山。蝉の声はその山から流れてくる。
部屋の中は黒と、外から来る夕日の赤とで塗り分けられていた。
「死のある世界は美しい」
窓とは反対側でつぶやいたものがあった。
「お祖父さん――」
尾形氏の声が聞こえる。
痩せた、しかし孫同様に背の高い和服の老人が、文机の向こうに座っている。その後ろは床の間になって掛け軸が掛かっていた。尾形氏は老人と向かい合って立っている。
「何故ヒグラシの声は美しいのか、それも同じだ。ヒグラシは夜と昼の境で鳴く。生と死の境界の、見知らぬ向こうを思うから美しい」
そこで老人、いや、黒田谷堂は長く息をついた。
「信、久しぶりだ。ここで会うということはお前も死んだか」
「はい」
尾形氏は答えて谷堂を見据えた。
「お祖父さん、ここは何ですか。どうして僕を招いたんですか」
「死、つまり終わりはなければならない。しかしお前――」
谷堂はくつくつと笑う。
「――お前、終わりなんてものが信じられるか。私の経験も、知も感情も、全て消え果てるなんてそんなことが。それはこの世の設計の不具合か何かだよ」
「お祖父さん、何の話ですか」
「お前の質問への答えだ。ここは、常に終わりを前にしながら永遠にたゆたっていることのできる場所だ」
「永遠なんてあり得ない」
私は部屋の中に進み、尾形氏の隣に立った。
「人間が辺土にいていい期限は限られてる。それを過ぎて留まったら、魂が怪異に蝕まれて自我を失っていくわ。それはあなたのいう死と同じじゃない」
「一乗さん、無事だったんですね。良かった」
尾形氏は私を見て笑顔を見せた。私はうなずく。
「闖入者か。まあかまわん」
谷堂は穏やかに言った。
「私がここを用意したのはまさに君の言った、辺土での期限を乗り越えるためだ。そのために、私は身体を捨て、己の作品そのものと融合した」
「そんなこと、どうやったっていうのよ」
「街の外に潜む怪異と契約していた。この身体はくれてやる、その代わり『蝉の雨』の中に、永遠に私を住まわせろ、とな。陰府に行く寸前に私は『蝉の雨』を貸本屋に預け、その後で契約が実行されて私の身体は消えた」
私は唇を噛んだ。谷堂の選択はある意味死よりもっとひどい。おぞましい、と思った。
そんな私の表情を読み取ったのか、谷堂は続ける。
「なるほど、今の私は怪異と区別がつかないかもしれない。辺土ではあり得ない老人の姿になっているのも、怪異を取りこんだせいだろう。だが私の精神は断じて怪異などではない。私の心は作品と折り重なって、ここで永遠になったのだ」
私はもう聞きたくなかった。
「あなたの自己満足なんてどうでもいいわ。さっさと私をここから出してよ。尾形さん、あなたはどうするの」
「お祖父さん、私は――」
尾形氏がその後を続ける前に、谷堂は文机をとんと叩いた。
「信を招いたのは読者が必要だったからだ。読む者がなければ作品は完成しない。信なら、私の意図を汲み取る最良の読者になるだろう」
そこで谷堂は私に目を向けた。
「悪いが君は余計ものだ。だが帰すわけにもいかん。さっきは失敗したが改めて、君の精神も作品の糧にさせてもらうよ。いいね」
「イヤに決まってんでしょ!」
「おや、残念だな。しかし同意は不要だ」
床に反射する赤い夕日がべろりと剥がれて足に巻きついた。
「何これ⁉︎ 離してよ」
「お祖父さん、止めてください」
尾形氏が光の筋を引っ張るが、足に張りついたそれはびくともしない。
「お祖父さん!」
「何を憤るか。作品のためだ。お前も見てきただろう」
「こんなものは作品でもなんでもない!」
尾形氏が怒鳴った。
「なんだと?」
谷堂は、そこで初めて動揺した表情を見せた。ヒグラシの声がやかましいほどに強くなった。
「胡乱なことを言うな。見なさい、この光を。私は終わる前の世界を永遠に留めた」
「そんなのは形容矛盾よ。作家らしくもない」
足から離れない夕日を思いきり引っ張りながら、私は仁王立ちになった。
「こんな、辺土なんてところにしがみついて、私だって他人のこといえないのはわかってるわ。でも、それでも終わりは来る。終わらなかったらこんなものは美しくもなければ醜くさえない。そこらへんのゴミと変わらないわ」
「言ったな」
谷堂が、よろけながら立ち上がった。和服の腹のあたりが黒い闇に沈んで見えない。人なのか、人の形をした怪異なのか、私には判別がつかない。
「ならばそのゴミに食われるがいい」
光の帯が足から上ってくる。尾形氏が止めようとするが、その腕の間を光はどんどんすり抜ける。私は必死になって両手で光の先端を押さえた。だが光を握りしめたその手にも、じわじわと赤い色が浸透してきた。
「やめて!」
その時、窓の外から何かが破れるような音が聞こえた。途端に絡みついていた光が弱まり、しおれて床に落ちた。
「空が裂けている」
尾形氏が呆然と西の空を見上げる。そこにはちょうど紙を切り裂いたようにまっすぐな割れ目ができていた。
「アキちゃん、聞こえる? そこから出ろ」
割れ目の向こうから三淵くんの声が響く。
「三淵くん、どこにいるの」
「書庫だよ。君たちは谷堂の原稿にとらわれてる。早く逃げるんだ」
「逃げるって、どうやってよ」
「物語は必ず終わる。どこかに終わりの印があるはずだ」
「終わりの印?」
私は尾形氏に目をやった。
「尾形さん、わかる?」
こっちを向いた尾形氏と私の間を、赤い裾が通り抜けた。尾形氏ははっとしたように目を見開く。
「今のです。着物の女の子だ」
「ど、どこに行ったの」
「わからない。でもこの部屋のどこかにいるはず」
私は素早く部屋を見回し、それで気づいた。この部屋で一つだけ、闇にも夕日にも属さない色。
「あそこよ」
叫ぶなり私は畳を蹴って文机の上に跳び乗った。
「無礼な。降りろ」
目の前の谷堂に笑いかける。
「無礼はあんたよ。か弱い乙女相手に何すんのよ」
思いきり突き上げた膝が見事に顎に入って、谷堂はもんどり打って転がった。
「尾形さん、出たいなら今しかないよ」
一瞬迷いの表情を見せた尾形氏だが、すぐに力強くうなずいた。
「行きます。ここは私のいる場所じゃない」
「了解」
私は尾形氏の手を取ると文机の向こう、床の間まで跳んだ。
「出口はここしかない」
私は掛け軸を指差す。赤い着物の少女が描かれた掛け軸を。
「待て、行くな」
谷堂の手が私の腕をつかんだ。
「しつこいなっ!」
振り返って谷堂の目を見た私は絶句した。
目の中で炎が、燃え盛っていた。永遠に消えないような劫火だった。
「一乗さん! しっかりして」
尾形氏が谷堂の手をつかみ、引き離そうとした。
「信、なぜ私の邪魔をする? 私の最良の読者だったお前が」
「お前はもうお祖父さんじゃない」
半分嗚咽しながら尾形氏は答えた。
「お前は自分が黒田谷堂だと思っている怪異だ」
「馬鹿な……」
谷堂の私をつかむ力が弱まる。私は空いた方の手を掛け軸に向かって思い切り伸ばした。
手が掛け軸に触れた刹那、絵の中の少女がこっちを見た。触れた指を伝って私の中へ、そしてそこを通り過ぎて谷堂の腕へ。
谷堂は悲鳴を上げて手を離した。
「今だ!」
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