物語の終着点へ
幸い、というべきか、落ちたすぐ下は水面だった。一瞬溺れると思ったが、すぐに足が底についた。砂地だ。ということは海?
あたりを見回すと、そこはごく小さな漁港だった。すぐ近くに漁船が数隻係留されたコンクリートの護岸がある。
いきなり海か――と思った途端に、目と鼻と喉が痛み出した。塩水を飲んだらしい。
げほげほ咳きこみながら護岸の階段を上り、近くの建物のわきにあった水道に向かう。蛇口をひねるとちゃんと水が出てきた。
顔を洗ってうがいをした後で、頭から水をかぶる。猛烈に冷たい。
「ひどい……。私が何したってのよ」
ぐしょぐしょの髪を絞っているとつい泣き言が出た。
シャツからもジーンズからも水がしたたって気持ちが悪い。それだけならマシだが、絶対後で肌が荒れてかゆくなる。本当は着ているもの全部脱いで洗っていきたいが、いつまた変なことが起きるかわからないからそこまではできない。
「ああもうっ!」
と、一人でわめいたところで気がついた。さっきまでは痛みを感じることも服が汚れることもなかったのに、どうして急に現実と同じようになったのか。
改めて周囲を見る。なにか空気が重くなったような気がする。この世界が私に与える影響が強まったのだ。それはつまり、ここが物語の核心に近いということだ。
「それなら好都合だわ」
鼻息を荒くして私は自分に言い聞かせる。きっともうすぐ、外の世界に出ることができる。
目指すべき場所は、と考えて思い出したことがある。谷堂は確か、海沿いの街に仕事場を持っていると随筆に書いていた。ここはその街ではないだろうか。仕事場は確かーー
「あそこだ」
少し先に、高度経済成長期に建てられたとおぼしきマンションがあった。
マンションは十階建で、施工当時はかなりの高級住宅として売られていたのだろうと思われた。しかし今では経年劣化であちこちひびが入り、どことなく陰鬱な雰囲気が漂っている。谷堂の仕事場は、記憶では確か最上階だったが、相手に妨害の意思があるだろうから密室になるエレベーターを使うことはためらわれ、階段で上らざるを得なかった。運動不足の私にはかなり辛い。
「ほんと最低だわ、これ」
さっき海に落ちたのが乾かないのに汗まで流しながら、なんとか十階の廊下に足を乗せる。と、その足元がやけに赤い。
「あれっ、もう夕方?」
違う。下の階にいた時はこんな夕陽は見えなかった。
「趣味悪い」
血のように赤く染まった廊下を踏みつけるようにして私は歩く。谷堂の仕事場は角部屋と読んだ記憶があり、廊下の最奥に進む。そこに「黒田」の表札のあるドアを見つけた。
ドアノブに手をかけると、意外にも抵抗なくノブが回った。それがむしろ不信感をあおる。開けたら何か飛び出してきそうだ。
だがいつまでも逡巡しているわけにもいかない。私は一気にドアを開け放った。
何も起きない。しかし、私を照らす赤い光が一層濃さを増した気がした。
部屋の中は照明もついてない。
「誰かいるの」
声は部屋に吸い込まれるように消えた。
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