「大通りより裏道がいい」

 走りながら尾形氏が、店と店の境に細く延びる道を指した。私たちは方向を変え、何回か服の端をつかまれながらもなんとか振り切って小道に入った。

「ここ、大丈夫かな」

 左右を見ると壁が間近に迫って思ったより狭かった。商家の通用口のための小道のような感じで、だとすると袋小路かもしれない。といっても後ろからは書割り人間が追ってくるから進むしかない。

 しかし思った通り、少し入ったところで井戸のある広場に出て道は終わってしまった。広場から出る道は今来た一本しかない。

「まずいな」

 後ろを見ると書割り人間たちがゾンビみたいに追いすがってくる。

「なによこの月並みな展開は。これで大作家?」

「仕方ないですよ。祖父はホラーなんて書かなかったですから。しかしさっきも感じましたが、この世界はありきたりすぎる……」

 尾形氏は腕を組んだ。しかしのんびりしている場合ではない。喫緊の課題は逃げ道だ。井戸にでも飛びこむか、けれどかなり深そうでいくら小説の中といってもあまりやりたくない。

「見てください、そこ」

 尾形氏が商家の一角を指差した。勝手口のような小さな扉が開いている。

「うーん、いかにもここに入れって感じ。罠っぽくない?」

「でも他に行く当てがないですよ」

「仕方ないか」

 私が先、尾形氏が後に立って扉をくぐる。店の中は薄ぼんやりと暗い。とりあえず落ちていたつっかい棒で扉を固定した。

「狭い部屋ですね」

 床は土間で、左手に上りの階段、正面には奥につながるらしい引き戸があった。

「さて、階段と扉とどっちが正しいか。尾形さん、どう思う?」

「えっ、私に聞かれてもどっちとも……」

「頼りないなあ」

 そう言いながら一歩踏み出した時だった。

「こっち」

 女の子の声が階段の上から聞こえた。急いで階段を見上げると、白い何かが一瞬目に映ってすぐ消えた。

「今の聞いた、尾形さん?」

「今の? 何のことですか」

「聞こえなかったの? 声がしたのよ、階段の上から。探してる女の子かも」

 私は急な階段を駆け上がった。出たところは廊下で、向こうには明かり取りのはめ殺しの窓、その反対は白い壁。誰の姿もない。

 廊下に一歩踏み出した時、背後でばたんと音がした。見ると階段についていた蝶番式の蓋が閉じている。

「尾形さん、蓋、閉じた?」

 声をかけながら蓋の取っ手に手をかける。全然動かない。

「一乗さん、どうしたんですか。開けてください」

 蓋の向こうから尾形氏の声がした。

「引っ張っても開かないのよ。そっちからも押してみて」

「こっちもやってますよ」

 尾形氏の声が急に小さくなった。

「尾形さん、どうしたの、尾形さん!」

「聞こえ……何か……一乗さん……」

 蓋に耳をつけて聞き取ろうとしても尾形氏の声はどんどん遠くなって、やがてまったく聞こえなくなった。代わりに、何か低い振動が近づいてきた。

 顔を上げた私の目と鼻の先に、廊下の向こうに見えたはずの白壁があった。壁の位置が変わった?

「嘘っ⁉︎」

 私は思わず声を上げた。壁が迫ってくる。押しつぶすつもりだろうか。私は反対側の壁まで走った。

「やめてよ。誰か止めて!」

 声もむなしく、壁はどんどんこちらに近づいてくる。この世界に入って初めて、私は身の危険を感じた。

 逃げるところは。見回すと、廊下の右に木の引き戸がある。手をかけたが開かない。鍵がかかっている。白壁はもう手を伸ばせば届くくらいに迫っている。

「開け!」

 叫びながら私は引き戸に体当たりした。戸は開かない、が、がこっと何か外れるような音がした。もう一度、全身の力を込めて肩から扉に突っこむ。引き戸が倒れ、勢いのまま私は向こう側に倒れこんだ。

「た、助かった……」

 危なかった。多分、罠だったのだ。私にしか聞こえない呼び声で尾形氏と離ればなれにして排除しようという。尾形氏はこの世界に必要な人間だが、私は邪魔者だから。

 だとすれば、危機はまだ続いている。どうにかしてここから脱出するか、少なくとも尾形氏と合流しないと。

 それで、ここは一体どこだろう。手がついているのは、古くなって黄ばんだ畳だ。和室だろうか。

 顔を上げた私は茫然となった。和室には違いない、だが壁が見えない。地平線の果てまで畳が敷き詰められた床と、板張りの天井。

 後ろを振り向くと、今入ってきたはずの戸もなければ壁もない。前後左右どっちを見回しても畳だけの空間に、私はぽつんと放り出されている。

「ここで餓え死にでもさせる気?」

 私はつぶやいた。だが、餓死ならまだいいかもしれない。このままずっと死ぬこともできず、いつまでもさまよい続けることになるかもしれない。

 吐き気が込み上げてきたが、私は強く首を振って追い払う。最悪のケースばかり考えてどうする。絶対にここを出る方法があるはずだ。

 とりあえずは歩いてみたが、三十分ほどで挫折した。いくら進んでもまったく景色は変わらないからだ。前後左右はおそらく何かの仕掛けがあって、歩き続けてもゴールには辿り着けないらしい。それなら残り、上下はどうだろう。

 天井は、和室にしてはかなり高かった。思い切りジャンプして手を伸ばしても届かない。ならば下だ。畳には何の変哲もなさそうだが、そのさらに下は。

 畳の縁に手をかけて引っ張り上げる。意外に軽かった。めくれた下は板敷きの床だ。畳を放り出し、床に膝をついて、拳で叩いてみた。普通の木材の感触、叩いた音も密度のある感じで、板の裏側に隙間はないようだった。

「困ったな」

 私は畳の上に寝転んだ。前後左右は無限で、上は届かない、下は進めない。出口なしか。

 いやいや、出口は絶対ある。それはきっとここを作った者が想定してない場所だ。だとすると……唯一触れることのできない、天井しかない。どうにかして手が届かないか考えながら私は畳に手をつき、それから起き上がった。

「畳があるじゃない」

 いくらでもある畳を積み上げて足場にすればいいのだ。

 それからしばらく肉体労働にいそしみ、日ごろ大して数もない本を扱う以外に体を動かさない私にはけっこうこたえたが、なんとか畳のピラミッドを作り上げた。少し上ってみると安定感がある。よし、と一人でうなずいて、一番上まで行って、天井を押してみた。

 天井自体は木だが、その向こう側に何かぶよっとした感触がある。やっぱり想定外だったらしい。希望が湧いてきて、私はさらに力を入れて天井を押し上げた。すると、がたっという音と共に天井板が外れた。

 天井板の向こうには、白地にます目が入った変な模様の平たいものがあった。何か見覚えがある。

「……原稿用紙だ」

 紙だったら破れるに違いないと思って手を当てると、原稿用紙はさして抵抗もなくびりっとさけた。

「よしっ!」

 両手を原稿用紙の切れ目にかけ、左右に広げる。大きくさけた空間の向こうに、なんだか青いものが波打っている。それを見上げたつもりが、いつの間にか上から見下ろしている――と思った時に足が畳から離れ、私は頭から落下した。

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