思い込み望んで首を絞める私たち
時間とは何だろう、と考える日もあるわけだ。
人が名付けた。人が確立させた。
時間を計るとき、1秒の60倍が1分でその60倍が......となるわけだが、1秒とはなんだろうか。
先の法則を逆手に取るなら、1秒は1分の60分の1という認識になる。
もう少し遡って、1日に到達した。
1日。それは日が昇って、月が沈み、日が昇るまでの間の時間。太陽をもとに時間を計るものがある以上、太陽は時間を計る基準になりうる。
ここに、太陽を基準に時間を観測することに成功した。
そう。時間とは基準をもとに観測する事象なのだ。
日が昇りまた日が昇るという現象を基準に、1日を観測した。
時間とはすなわち、現象から抽出した概念なのだ。
それはもとより存在していたものではあるが、そのもののままで存在していたわけでは無い。人が、勝手に作った。
それに人の命を測らせて、勝手に終わりを悟り、勝手に苦しんでいる。
もしかすると、作り出した人は、生活をより便利にだとか、世界を知るためにだとかを望んで作り出したのかもしれない。
確かに便利になった。世界を――――――あくまで人の理解が及ぶ規模でだが――――――理解するのに一役買った。
しかし、原動力無しに人は先ず動かないものだ。原動力と言えば欲であり、時間の確立には何かしらの欲求が働いたのだろう。
よくあれと望んだのかはさておき、その産物は、「ああ、時間がない」と嘆く現代人の毒であり、文明発達のための秘薬でもあるようになった。
もはや時間とは、私たちにとって空気のようにそばにあるものだが、それはあくまで私たちが観測している事象、現象全てから時間を抽出することができるからであって、時間は言わば確信の思い込みなのだということだ。
人の生死に時間は関係のあるものでありながら、全くの無関係だ。
もしかすると、定命ではないかもしれない。あるいは定命であったとしても、全人類全く同じ期限の後死ぬわけではあるまい。
だから、死に対する恐怖心は人間の、寝ている間に見る夢への思いに似たようなものだ。
死は確約されたものでないかもしれないし、人間が観測している上では死とは私たちが想像するようなものであるかもしれないが、実際には違うかもしれない。
どうあっても、私たちは思い込みの中に立っているだけだ。もし、催眠術を自身の五感全てにかけられるようになったのなら、その思い込みの世界はとことん広がっていくだろう。さながら「ナーヴギア」から得られる思い込みの本当の現実のように。
だから私たちは、いいや私だけかもしれないが、より自身の望むがままの思い込みを手に入れられるよう励むまでだ。
死とは、生とは、時間とは、世界とは、そういうものであり、私の思い込みが永遠の物ならば私は永遠の思い込みの中に生きるのだろう。
苦しいのは、苦しいと思っているからだ。
楽しいのは、同様にそう思っているからだ。
痛いのも、こそばゆいのも、観測無しに得られるものではない。
無意識のうちに行ったことを、後の結果から推測することしかできないように、自身にとって世界とはそういうものなのだろう。
人類が楽しみを望むのなら、想像してみるといいかもしれない。その逆もまた。
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