第10話

眠りは死に通ずる、という話がある。

人間が生きるというという現象は、何も血が流れていること、心臓が動いていること、呼吸をしていることという現象でのみ担保される訳ではない。

目が開き、己の意思で大地を闊歩し、手を動かす。そういった自由意志が発現していることにこそ、人間は何よりも生の営みを実感する。

で、あるならば。目を塞ぎ、穏やかに意識を断ち、呼吸するだけの静かな置物と人体が化す睡眠とは一体どのように捉えられるのであろうか。

端的に言えば、死、である。

ギリシャ神話では、眠りの神であるヒュプノスは冥界に居を構え、悠然とそこに佇んでいる。

アステカ神話において、眠りを象徴する夜の神であるテスカトリポカは、彼自身が死の神としても信仰されている。


目を閉じて、眠る。その行為は死と人間を深く結びつけるものであるに違いない。

さて、その点で考えるならばランケという生きた死体はどうなのだろうか。彼が眠る、ということはすなわち強く、深く、あの世と結びつくということに他ならない。

だから、きっとこれはマボロシなのだろう。ランケは、ふと目を覚ますとぽつんと闇の中に立っていた。


「……あ……?何処だ、ここは?」


右を見ても、左を見ても、透き通るような闇だけが広がっている。己の体は実体としてそこにあるように思えるが、ならばそれが本当にそこにあるか、と問われたのならば明確にそうだと言えるものでは無いほどの、深い闇。

ランケは戸惑う。先程まで己は親愛なる復讐者にして心優しい友と語らっていたはずで──。


「ああ、いや。そうか、俺は眠った……んだったな。ほんの仮眠ついでに、2時間ばかり……となると……」


ちょっとばかし考えて出した結論としては、一応のところ夢である、ということになった。しかし、夢なんてここ10年は見ていなかったはずなのに。家に帰って、安物のベットに身を横たえれば、直ぐに深い眠りについて次の瞬間には朝の光に照らされて目が覚める。息を吹き返す。うだつの上がらない運び屋にして、物好きな男はそうやって毎日を過ごしていたはずなのだ。


だからこそ、今己がいる場所が夢であると簡単には断定できない。もしかしたら、自分が何かをやらかして真っ暗な独房に放り込まれて目が覚めるまで残置されているのかもしれない。

それこそ、中途半端な──リビングデッドになってしまった己なら、暴走などということも有り得るのではないだろうか。

ほら、古典などではそういう話はごまんと存在しているし。

だから、それを確かめるべくランケはひとまず歩き出してみることにした。


1歩、1歩、恐る恐る地面を踏みしめるように歩き出す。数十も歩き出せば地面が突然抜けるだなんて言う奇天烈なことも起きないと分かった。

ざっざっざっ、あるいはかつカツカツ、と己が地面を踏む音だけが耳に響く。

不思議なことに呼吸音も、脈動の音も、耳には聞こえないのだ。ただひたすらに自分が歩いていく際に立てる音だけが闇の中にこだまし、聞こえてくる。

同じことを延々と繰り返すのはあまり好きでは無い性分のはずの自分が、ただただ歩き続けていくことを良しとしている。それもまたランケにとっては信じられないことであり、普通の事ではなかったが……


もしこれが夢であるならば、そういうこともあるのだろう、と割と達観した思考をランケは得ていた。

どこまで続くか分からぬ無明の闇の中をずんずんと突き進む。ただそれだけのことが、おかしなことに自分が今せねばならぬ事であるかのように思えてならなかったのだ。

また、それに酷く達成感を感じてもいた。1歩進む事に、まるで自分が何かに近づいているような感覚、と言えば分かりやすいだろうか。

目当ての場所に近づくにつれ、もうそろそろ目的地だなと感じてくるだろう。そうするとだんだんと安心感や達成感が心の底より喚起される。そんな感覚である。


そして、どれほど経っただろうか。もしかしたら一分かもしれないし、もしかしたら一時間かもしれない。いや、あるいは1日歩き通したかもしれない。否、1週間……ともかくとして、長かったような短かったような行脚の果てに、1つぽつんと篝火──いや、正確にはキャンプの際に起こすような焚き火くらいのものであったのだが──を見つける。


光を見つけた。それと同時にそこがランケの行くべき場所まであり、そこに彼を”待っている”者がいるのだ、と直感していた。

そして、その直感通りに一人の人間がのんびりと木の棒を使いながら、そのぼんやりと灯っている火を突っつき回しているのが目に見えた。


「────あれ、意外と早かったね。もう少しかかると思ったんだけども」

「あんたは……?」

「うん、君が……ランケくん?死と生が近い者同士の共感覚ってやつなのかな?不思議なこともあるものだね」

「質問に答えろよ、あんたは一体何者なんだ?」


にっかりと笑いながら──顔は、これまたぼんやりとした印象の、記憶に残置しないようになっているかのように覚えることが出来ない──目の前の人物は、とぼけたようにランケに話しかけた。

ランケはその人物に素性を尋ねるものの、はぐらかすようにして答えない。それに僅かな憤りを感じながら再度問いかける。

それを聞くと、目の前の人間はにんまりと笑って──笑っているように感じたという意味で──それに答えた。


「僕は……私は……一人称で自分を表すのはこそばゆいけど便宜上私としておこうか。私は死者だよ。あー、いや違うな。半死体の方が正確な気がするね……とりあえずフランさん、とでも呼んでくれればそれでいいよ」

「……フラン、ね。分かったよ。そんで、フラン、あんたはここで何をしているんだ?」

「えーとね、うーん。なんて言えばいいのかな。そうだなぁ、端的に言えば君を待っていた、っていうことになるんだけど」

「俺を……?」

「うん、君を」


訳が分からなかった。戸惑いの感情がランケを襲う。まず、第一にランケとフランは初対面だ。初対面どころか、顔を見た事もないし、その顔に至っても欠片も認識できない。そんな相手から、君を待っていた、などと言われてもランケからすれば意味がわからない。

そして、それを言ったフラン某も、自分が何故ランケを待って居たのかということが分かっていないらしい。


「私は君を待たなくちゃいけない、って思って、待ってたんだ。顔も知らない君のことを、待ってないといけないってね。そして、君がここにたどり着いた一瞬のうちに、君が君だと分かった」

「何を言って……」

「私は君に伝えなければならないことがあるんだ。いや、謝罪かもしれない。感謝かも。とにかく、伝えたいことがあるんだ」

「……よく分からないが、なんだ。分かったよ、分からなきゃならない気がする。聞いてやるから、言ってみろ」


お互いがお互いをまるで知りもしないのに、お互いがお互いを待っていたと直感できた不思議な状況。ここまで来れば、理屈で説明したり詳しく追求することにはもはや意味が無い。

だからその先を促した。納得しなきゃいけないし、納得しているから。


「ありがとうね、ランケくん。君のおかげで助かった。そして、ごめんね。君を望まない状況に陥れてしまったことを謝るよ。そして、あの子を助けてあげて欲しいんだ。最後までどうか、見捨てることなく」

「……」

「お願いだ。同じ、半死人の交でさ」

「……あの子ってのは、誰のことだか分からないが、分かったよ。全部まるっと引き受けた。なあ、フランさんよ」

「うん」

「あんたの顔、次会った時は拝ませてくれや。それが駄賃だ」

「いいよ、分かった」


その言葉を聞くや否や、ランケはくるりと踵を返して元の暗闇へ歩き出す。

ああ、なるほど。こいつはつまり。謝罪と感謝と頼み事を、僅かばかり懐に収めてランケは歩き出す。



にはよろしく言っておくからよ。ゆっくりそこで火をつついて待ってな」

「うん、またね」


さよならは、言わなかった。

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