2-25

「ロットーさん……えっと、あの、うー、……少しは楽になりましたか……?」


 片手に一握りのキャンディーチョコレートを持ってきた愛煙家さんは、僕がずこごごごーとストローで葡萄ジュースを吸いあげてる前のデスクにそれを置いて遠慮がちに隣へ腰掛けた。なにか言いたそうにもじもじ縮こまる。童顔で自信なさげで二十九歳には到底おもえない彼女は、たっぷり数分悩んで若干半泣きになり、彼女にしては比較的はっきりした声量で言った。


「死のうとしないでください」


 真っ赤になったり真っ青になったりして余計に中肉中背を縮こまらせる。


「うお。いきなりだね?」


「……い、いきなりじゃ、ありません。……約束、してください」


 おおう。


「わたしが支えます。ラクロワ先生もだと、おもいます。う……支えるから、相談してください。弱音を、えっと、吐いていいんです、泣いても大丈夫です、わがままを言ってください。ほんとうは個人的に、ええと……ロットーさんにとって顧問は少し、少しですよ、悪影響な気がしていて、その……言いかたは悪いかもしれませんが、死を羨望する人とおんなじ方向に、行ってしまわないでください」


 あー。


 僕は答えに窮した。


「自力でこちら側にくるのがどんなに難しいかは、その……解っているつもりです。そういう人を、わたしは……知っていました」


 愛煙家さんがうつむいて、茶色いミディアムヘアに顔が隠れ、此処からは表情が分からなくなった。


「生きてくれるなら、わたしは……死にものぐるいでどんなことでもした。なんでも。なんでもです。だけど届きませんでした。わたしが元気づけようとやったことはどれも裏目にでて、『理解してもらえない』と失望させてしまうばかりで、自分と似た境遇の人しか仲間と認識できず、いつでもそばにいたわたしのことを『自分はそうじゃないけどあなたは幸運だったからよかったね』と言っていました……」


 愛煙家さんは膝のあたりに載せた手を爪が食いこむほどにきつく握りしめる。


「そばにいたのに。なんでもしたのに。苦労して、努力の末になんとか元気づけて、笑顔になってくれて、やっとのことでわたしの願いが伝わったんだと安心すると、数日後にはリセットされ、悪夢のごとく『あなたには解らない』と吐き捨てられる。ゾッとしました。何百回と崖から突き落とされた気分ですよ。わたしの言葉は届きっこない。ロットーさんも彼女と同じです。……でも」


 愛煙家さんがちいさく怒鳴った。


「――なにがなんでもあなたに救われてほしいわたしは、じゃあ、どうしたらいいんですか……!」


 特に理由の無い新入職員歓迎会の陽気な喧騒がフィクションみたいにのっぺりと遠のいていく。


「頼りないかもしれないけど、ちからになります。どうしてほしいのか言ってください。なんでもします。ロットーさんはとても価値のある人じゃないですか。術紋に証明された『魔術師』という不動の才能、嫉妬したくなるほどのおおきな目や白い肌、濡れたような艶やかな黒髪、支給服がブランド品のようにさまになる強烈な容姿。優しいし博識だしユーモアもあるし、一生就職やお金の心配は要らない唯一無二の存在、そうでしょう? …………どう言ったらいいのか難しいな、ごめんなさい……」


 なんと返したらいいのか僕のほうも分からなくて途方に暮れながらキャンディーチョコレートのビニールをむいたりとかする。


「う、ごめんなさい……申し訳ないけれど、今日ロットーさんと顧問が二人でいなくなっているのに気づいたとき、わたし、…………二人で自殺でもしに行ったのかとおもいました。こわかったです」


 いったん言葉を切って、愛煙家さんはまっすぐに僕へ視線を向けた。


「わたしをはじめ、普通に生きている人にとって、ロットーさんたちは繊細すぎて底無しの穴です。想像の範囲を超えてしまう。暗くて、深くて、もろい。おそろしいです。どう声をかけたら楽になってくれるか、傷つけずに済むのか、分からなくて、いつもひやひやして……お願いです。今、此処で、金輪際死のうとしないって誓ってください」


 弾ける笑い声。


 オペラの歌声。


 白熱した論争。


 泣き上戸の涙声。


 歓声。


 乾杯の掛け声。


 声。声。声。


 ――声。


 三七〇四年十月二十一日火曜日二十一時三十六分現在、僕は死のうとはおもってない。


 でも一時間後は分からない。


 一秒後も。


 自殺の衝動は自分でコントロールできるようなものじゃなく、強制的に地雷原でタップダンスさせられてるみたいに数多に、唐突で、なので僕は即答できない。


 ワカメ先輩をおもいだした。死ぬと解ってる任務に赴いて、予定どおり死にかけて、それで魔術師からの「本気で守るよ」という提案を蹴って、遠まわしな自殺に九年を費やした先輩。


『――――――死にたくないよ……!』


 検閲されてるみたいだとおもう。僕はブラックホールのまんなか、無限大のただ一点、死にたい気持ちというものにすべてを吸いこまれちゃったあとだ。そうじゃなかった人間には戻れない。わしづかみにされて抜けだせず、凝縮され、今さらもう二度と無傷の笑顔にはなれない。


 ――君は恥ずかしげもなく無知な発言ができる側の大人なんだね。幸運でよかったね。……教えてあげる。あのね、希望とはエネルギーを喰らうブラックホールだよ。減るの。際限なくだよ。静止した絶望のほうが楽だ。あはは、この世すごーい!


 アイスココアとか、拍手とか、「生まれてきてくれてありがとう」とか、抱きしめてくれる両腕とか、そういうのを処方されても一時しのぎにしかならなくて、いずれリセットされ、また繰り返す。処方薬は際限なく必要になり、周囲を疲弊させ、僕自身がブラックホールになっていく。


 死んじゃえって全世界から言われて、自殺したことを称賛してもらえたらいい。がんじがらめなんだよ。首と腕と腹と脚とほかにも全身に拘束具をつけられ、何個も、何個も、何個も何個も何個も何個も何個も、指先まで一本ずつ希死念慮へがっちり固定されてる。誰も僕を救おうとしませんようにって天体の中央で泣くのだ。


 だけど。


 きっと死ぬのって結構、大変だ。


 自殺とは、こんなにもどうしようもない願望の実在をはっきり自覚してても、でも何故だかいつもなにかしらに邪魔され、覆い隠されるもののことだ。純度が高くなることはあっても、完全に純粋な剥きだしにはならない。


 たとえば、死の直前ってどんなに痛いのかなとか。


 未遂に終わったら後遺症がこわそうだなとか。


 思い出は一色じゃないから、幸福な瞬間だって決してゼロじゃなかったよ、とか。


 死体の出現はみんなにとって臭いし気持ちが悪いしお金もかかって迷惑だよねとか。


 ワカメ先輩のほうから持ちかけた約束――食堂に行ったらなんでも食べたいものをご馳走してくれるって約束が、果たされるときは永久にこないだとか。


 約束を数え、涙を数え、優しさを数え、痛みを数え、死にたいのに大切な人たちはやっぱり大切なまま、そのことがかなしい。


 ね? 検閲されてるみたいだよ。星のつくりがずさんなあまり、人間たちはあっけなく自殺に恋をする。そのあと必ずいろんな懸念事項に邪魔される。ワカメ先輩の言葉を借りるなら、本能かな。人間が死に絶えないよう神様がそう設計したのかもしれない。死ぬのをこわいとおもうようにしておかなきゃ、無限大の重力のせいで星の数式は誤作動を起こす。破綻するのだ。


 あはは、この世すごーい!


 振り子時計のように揺られ落とされ引き戻されて温度差で風邪ひきそうだよ。


「……愛煙家さん」


「はい」


「僕は君たちが好きだ。頑張ってみるって誓うよ」


「は、はい……!」


 我ながらズルい返事だけど、君たちをとっても好きになったのだけはほんとうだ。もう少し此処にいたい。そうおもった。






 明日も仕事なのにみんななかなか寝に帰ろうとしなくて食べて飲んで笑ってどんちゃん騒ぎは二十五時過ぎまで終わらなかった。今日の分の日記は長くなりそうだ。最近ペンだこができて指がまあまあ痛いのに。


 ま、いっか。


 こんな経験を数々してみたくて僕は地下室であんなに泣いたんだもん。


 愛煙家さんは安心してめちゃくちゃ泣いてからお酒を持ってふにゃあってなった。医師さんは飲みすぎた職員たちを慇懃無礼な皮肉まじりに介抱しだした。ゼクーくんはアイスワインを配ってしばらく寡黙に飲んだらさっさといなくなった。


 僕が葡萄ジュースでみんなと何回目か分からない乾杯をして大笑いしてるとき、彼が部屋に独り帰りいつも持ち歩いてる手帳へ信じられないほどの悪筆で書き綴ってることをこのとき僕はまだ知らない。






 ――初対面の時点で感じていたが、彼女のコミュニケーション能力は異様だ。機構の効率的な情報操作による〈検索〉をとおして外界を学習していたとはいえ、他者と口をきかず十五年間過ごしたにしてはじつに自然であり、かえって不自然と言わざるを得ない。


・感情を声色で流暢に表現する。


・文法にさほどおかしな点が無く、話し言葉と書き言葉の違いも理解し、ほどよいテンポで返答をする。


・人間関係や自分自身の立場を的確に認識し、舐められぬようあえてタメ口を用いる。しかし相手や場面によっては敬語で接することもある。


・ジョークや皮肉を解し、使いこなす。


・あえて何度か怒らせてみたが、年齢のわりに冷静な反応を返す。


・装置制御システムの一件以降、魔術師が世間に恐れられていることを察し、気を配る。→魔法使用時に陣を読みやすいよう展開する。他人の名を呼ばない(自然な流れでニックネームをつけ、対象がそのニックネームを不快に感じていないか顔色をうかがいつついくつか呼び替え、決定する慎重さもある)。名を呼ぶ許可をだした私に対しては親しみ(?)をこめて愛称をつける。


・自分にとって不利益な場面でも他人を慮った行動をとる。


 囮として連れまわしたあと用済みになり珈琲店「アナログアンブレラ」へ〈瞬間移動〉させようとしたが、その場に留まったのには内心驚いた。急遽予定を変更して彼女の記憶を覗いたところ、過去にかなりの人との交流がありそうだが、詳細は不明。〈封印〉が施された形跡が認められる。機構他部署(執筆課あたりか?)が関わり隠蔽したものと推測される。


       ◆


 雲一つ無い快晴だった。森にぐるり取り囲まれ、人里離れた超絶広大な敷地にひっそりと隠される感じで小国「月白市国」の王宮は建っていた。こじんまりとしつつも豪華絢爛な屋根たちが陽のひかりに照らされていくつも空へ向かって伸びる。そのなかのひときわ高く細い塔の最上階に、検閲課保護対象の王女は幽閉されていた。


 氏はツァヤク、名はミイア。十五歳。保護時に使ってもらうために機構が用意した氏はアリンシア。名はリィラン。生まれてから今まですべての人生を塔に幽閉されて過ごした王女だ。


 その高貴な少女を無事に機構へ連れ帰るのが今日の任務の内容だった。


 誰がどう見ても絶世の美少女である彼女は、うやうやしく身のまわりの世話をする召使いたちに神々しい微笑みをたたえて話しかけ、礼を言い、日常会話をする。すごく慕われてるのかな、話しかけられると召使いたちは目を輝かせて顔をあげる。


「……にしても、とある疑問が俺の頭にちらついているのですが、マーフィさん、ロットーさん」


 医師さんが人好きのする柔和な笑顔でドスの効いた声を吐いた。


 秋の快晴が広がる昼すぎ。寒すぎずあたたかすぎないぴったりの気候だ。あー、なんて気持ちのいい日なんだろう。僕はうんと両腕をあげて背伸びする。


「――いったいぜんたいあの意図的遅刻魔はいつになったらいらっしゃるのですか!?」


 医師さんはのちほど使うことになるかもしれない医療魔法を何個か確認しながらしょぼい動きで脚をばたつかせ、ぼすっぼすっと地団駄を踏んだ。


「えっ、と……その、えー、……まさかラクロワ先生、あの人が集合時間に現れると考えているんですか……?」


 さすがの愛煙家さんも呆れを隠せないのが言葉に滲んでる。


「〈瞬間移動〉は平均何時間かかる移動手段でしたっけ、マーフィさん!?」


「その……何時間というか、一秒くらいですね……」


 塔の最上階で召使いたちが深くお辞儀をしてさがってったあと、王女は何分かベッドに座ってじっとしていた。そして意を決してドアにそろそろと近づき、耳をあて、なにかを確認し、上品な仕草で後退してベッドに座り直した。


 僕は騒がしい二人を自分とともに〈防音〉〈透明化〉で隠しておいた状態で自分だけゆっくりと塔の窓に近づく。


 窓がひらいた。可憐な花のようなかんばせを歪ませる王女の、泣きぼくろがはらりと見えた。長いバターブロンドが風に舞う。彼女はいざというときの救命用魔法装置をからだから取り外し、ひとつまたひとつ床に落としていった。ベッドにロープを結びつけ、もう一方の端を首へ巻き、静かに涙を流しつつ窓から身を乗りだす。


「ねえ」


 僕は〈浮遊〉したまま〈透明化〉をといた。


「君の自殺は、世界情勢的には、正しくないよ」


「あら。ごきげんよう」


 ずいぶんと肝が据わった姫君だなぁと僕は舌を巻いた。空に浮く同年代の少女の出現にぜんぜん動揺しないどころか、挨拶までしてくる。うわぁ、変な奴。


「こんにちは、王女様。急にごめんね。僕は要人の死を阻止して未来史に介入する仕事をしてます。君を保護させてほしいのだけど、いいかな?」


「あら。現実離れした見目麗しいお姿なので、天使様かとおもいましたわ。お声がけありがとう。恐縮ですがわたくしのことは放っておいていただきたいのよ。お引き取りくださる? ……わたくしはもう疲れましたの。安っぽい言葉など欲しくありません」


 王守たちが動きだしたのだろう、王宮中でちっぽけな魔法がぱちぱちと炭酸みたいに弾ける気配がして、あらかじめ僕がかけておいた罠にはまってってるのが分かる。


 ははは。安っぽい、かあ。


 そうだね。


「うん。分かるよ。どこもかしこもプラスティック製の『自殺しないで』ばかりでウケるよね。無責任で、偽善にまみれて、傷ひとつ無い、美しくて反吐がでる安物だ」


 神様へ。聞こえてますか。


「……それでも僕は、君に死ぬなと言いにきた」


 快晴の空を。


 自由を、この子へ手渡すよ。

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