2-11

       ◆


 ただの壁に見えても〈カバー〉で窓が隠されてるのは魔術師にとって陣が丸見えだったから分かってたことだった。ワカメ先輩は手際よくそのロックを外す。一人では立つこともままならなくて僕に支えられ、一緒にベランダへ一歩踏みだした。


 高層ビルのだいぶ上の階にいるらしく、ほかの建物は視認できなかった。狭いベランダだ。二人でからだを寄せあう。見あげるとこぼれ落ちそうなほどひかりが無数に広がり、何処までも視界を圧倒してる。雲ひとつ無い広大な夜空。月がぽっかりと夜の王者のように頭上で君臨し、まわりに星が恭しく侍って控えめな輝きを放つ。びゅうっと風が服の裾をはためかせた。


 僕は髪を払って星を見つめ続けた。声も出ずいつまでもそうしてる僕を、ワカメ先輩が微笑んで眺めた。


 静かだ。


 風の駆ける音だけが無遠慮にこの世をはためかせ、それすらもなにもかもこうであるべきという感じに調和して、僕は誰かに習ったわけでもないのにこの今の状況すべてを美しいと感じた。


「綺麗でしょう?」


 夜に照らされて先輩の髪がふわり風に舞う。〈変化〉装置で偽った先輩の容姿を、風が分け隔てなく僕と同じ方向に流そうとする。


「……人間はね、美しいものに惹かれるんだ。たぶん本能に刻まれているんだよ。魔法も機械も文明も無かったとき、腰に草だけ巻いて動物を狩って生きていた時代から、人間は星や花を愛で、絵を描き、音楽を奏でてきた。不思議だよね」


 言葉が、でない。


 かろうじて頷いた僕にワカメ先輩が肩を寄せた。


「少し話は変わるのですが、小説家に向いている人はどんな人物だとおもう?」


「……小説? うーん……頭がいい人、かなぁ?」


「それもそうでしょうね。答えは星のように数えきれないほどあります。ぼくの個人的な考えは、幸福を知りつつも自殺寸前まで追いこまれ、それでも死ねない理由を持ち、文章を書く程度のエネルギーがなんとか残っている人、です」


「えっ……」


 話の方向がよく分からなくて僕はぽかんとワカメ先輩を見つめた。


「ははは。地獄にしかいたことがないと幸せを描けないし、ドン底を知らなければ苦痛を描けない。両極端に激しく揺さぶられ、どちらも手放せず、なにかをどうしても叫びたくて、問題が解消されない複雑な状態のまま、悲鳴のように書き綴った文章。ぼくはそういう小説が好きです。何故なら」


「何故なら?」


「美しいからです」


「美しい?」


「はい」


 びゅううっ。ちょっと肌寒くて先輩にもっとくっつく。


「美しいですよ。直視できないほど汚く醜く足掻いてギリギリ生きていくしかない人を、ぼくは、美しいとおもいたい。おもわれたい。エゴでしかありませんが、傷の舐めあいでも構いません。ぼくたちだけはその美しさに気づきあっていたい」


「……小難しくて混乱してきたかも」


「ふふ。いいんです。言いたかっただけです。……ロットーさん」


 青い瞳が正面から僕をとらえる。その背後に満天の星が広がってる。風が吹く。吹きやむ。静寂のベランダ。大好きな、先輩のえくぼ。


「ロットーさんの生き様は狂おしいほどに愛おしく、美しい。そのロットーさんにぼくの人間性を、そこにいたる過去を、好きだと言ってもらえたことがどんなにぼくを救ったか、ロットーさんに一部でもいいから伝わってくれたらいいのに。無理だろうけれども。人間は解りあえない。それでも伝わったらいいのにっておもいます」


 息が詰まる。返事ができなくて固まってると、先輩が笑った。


「ようし、それではまたちょっぴり話を変えて、ロットーさんは政治家ってどんな人たちだとおもう?」


 え。政治家?


「……八方美人、嘘つき、権力のためになんでも犠牲にする、たましいだって売る、話上手でゴマすりにいのち懸けてる人かな」


 ほんと何処へ向かってるんだ、この会話。


 わけが分からないけど先輩はうんうんと首肯した。


「スポーツ選手は?」


「……えーと、んん、熱い気持ちがある人、ひとつのことに夢中になれる才能と、財力、家族を持ってて、勝利に貪欲にこだわれる人」


「地方公務員は?」


「安定志向で……『仕事は仕事』って割りきれる人?」


「はははっ。教師は?」


「…………子どもが好きな人? ねえワカメ先輩、これなんなの?」


「じゃあ、機構の職員は?」


「ぜんぜん人の話聞かないじゃん。いいけどさ。……魔法が得意な人」


 楽しげな先輩を少し睨んでみるとワカメ先輩は天然パーマの髪を掻きあげて頭上を見あげた。


「魔法が得意な人はどんなタイプかな?」


「えー? 人によるでしょ」


 軽やかな先輩の笑い声が聞こえてくる。


「厳密にはそうだろうけど、傾向はたしかにあるよ。ぼくの好きなタイプの小説家が、それだね」


 遠くに視線を投げかける先輩の横顔を凝視した。かなしいような嬉しいようななんとも言えない表情をしてる先輩の感情を、困惑しながら受けとめようとした。


「機構がたぶん情報を隠しているせいで確証は無いけれどもね。ロットーさんがあたたかい家庭で英才教育を受けて育ったのではなく、暗い地下室に監禁されて独り悲惨な育ちかたをしたのは、そのほうが魔法の才能が磨かれるから。負の感情は魔力を強める。ロットーさんはそのために機構によって残酷な人生を人工的に定められた。執筆課あたりが絡んでいるかもね。おそらく」


 人工的に、定められた……?


「現に、機構には悲惨な過去を持つ職員が圧倒的に多い。日々誰かしら自殺未遂しているし、鬱病や発達障害などの診断を受けた人がごろごろしている。元気そうに見えても、ラクロワ先生だってマーフィさんだってそうだよ」


「……よく理解できないかな。先輩、そもそもなんの悩みもない人間なんて存在しないよ?」


「あはは。ロットーさんはそれだけの過去を持ちながらそんなことが言えるんだね。すごいことだ。ぼくには眩しいなあ。そうだね……うーん、うまく表現できないけれども、そりゃ生きていれば誰にでも問題はある、そうじゃなくて、客観的に問題があることが明白なほど歪んでいるというのかな」


 人間ならば誰にでも歪みはある、と僕は言いさした。


「例えばね、犯罪の被害に遭った、虐待された、奇形である、正当防衛で殺人を犯した、壮絶ないじめで殺されかけた、幼少期に兵隊として戦争に行った、そういう誰が見ても明らかな経歴と、医者が診断するまでもなくなにかしらの精神病であることが一目瞭然な狂ったメンタル、そのどちらも兼ね備えた人物像が、機構職員だ」


「……難儀だね」


「うん。コミュニケーションを取れない人、自室に引きこもったまま仕事だけしている人、定期的に自殺しようとして病棟が自宅と化している人、そんなのばかりで、心底難儀だよ。ブルーノ課長がいつもオペラを流しているのも理由があるんだろうね。医学的には聞こえているはずの耳が聞こえずまったく不要な補聴器をつけていたり、いい歳したおじさんが女児向けのぬいぐるみにぶつぶつ話しかけていたり、個性豊かで面白いっちゃ面白いね。機構で精神科の薬を飲んでいない健常者はほとんどいない。検閲課はスパイみたいな業務をやるために比較的普通に見える人材が集まっているのだけれども」


 比較的、普通……? 僕は顧問をおもい浮かべて首を傾げた。


「あっ、今教官をおもいだしたね?」


「大当たりいい」


「さっきは笑いすぎておなかが痛いよ……ふふふ……」


「身を呈して僕たちの腹筋を鍛えてくれるいい上司なんだよ、ゼクーくんは」


 窓を振り返って件の人物がまだ眠りこけてるのを確かめる。爆睡の模様だ。よし。


 同時に同じことをしてたワカメ先輩と目があって、一緒に吹きだした。


「……あーおかしい! はははっ……まだ話したいんだけど、ふふっ……。…………ふー。ええとね、ロットーさん」


「ん?」


「どう足掻いても救われないものを抱える人は、自身のことで精一杯で気づきにくいけれども、同じような他者を救おうとしてみることで自分を少しだけ救うことができるんだ。覚えておきなさい」


「えっと……うん、分かった」


「なんでなんだろうね。本能かな。人間が死に絶えないよう神様がそう設計したのかもしれないね。だから――明らかに不幸な過去を持つロットーさんにぼくは何度でも近づこうとした。利用しただけなんだ」


 先輩の声が冷気を含んだものに変わって、僕はあえていつもの調子で冗談めかして答えた。


「……何度でも言い続けるよ? 僕がよぼよぼのおばあちゃんになっても、ワカメ先輩のこと大好きだもん」


「ありがとう。エゴでロットーさんを利用しただけの人間をそんなに慕ってくれて、申し訳ないやら嬉しいやら」


「利用じゃないよ」


「うん」


「助けあいだよ」


「うん」


「利害一致してるよ」


「うん」


「っていうかこれはギブアンドテイクだよ」


「うん」


「お返しがなくても僕は言うよ」


「うん」


「余計なお世話でも」


「うん」


「僕、ワカメ先輩のこと一方的に大好きだよ」


「うん」


「伝わってる?」


「うん。概ね」


「解りあえないなんて、言わないでよ」


「うん」


「伝わってるよね?」


「うん」


「なら」


 肌寒いベランダでくっついてた先輩から、一歩距離を置いた。身長差は約二十センチメートルだ。顔をしっかりあげて〈変化〉の青い瞳をまっすぐ見据える。


「――。アス先輩、名前を教えて。魔術師が全力で守るよ」

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