2-10
ごとっ。物が落ちるのが聞こえてうわのそらでぼんやり後ろのほうに顔を向ける。水槽を分厚いガラス越しに覗きこむみたいにピントのあわない歪んだ時空で時計は夜の十一時四十八分を指してる。脳がカチリ冷凍されて伝達されず滞る感情が永遠に救済されないようにおもわれる。視線は薄暗い床の上を緩慢にすべってく。
――一人の女の子として、幸せになってね。
現実感がまるで無い。悪い夢だ。どれも。握りしめたワカメ先輩の右手のまだちゃんとあたたかい温度と慣性で引き伸ばされた薄黒い鈍痛が病室中にうだるように満ちて呼吸困難だ。動く者はほかにおらず、自分だけが世界にひとり誰からも忘れ去られて灰色になる。
――一人の女の子として、幸せになってね。
いずれ風化していくんだろうか。
――一人の女の子として、幸せになってね。
それで自分もなんともなくなっていって灰色に埋もれたワカメ先輩のことなんか裏切ってまた笑えるようになるんだろうか。
――まだあたたかい。手を握りしめる。幸せになれなんて、なんで、そんなこと言うんだよ。
遺言みたいに。
ぼうっとしてても落ちた物はすぐ見つかった。整頓のゆき届いた病室の床には中途半端に開かれた紙製の単行本と白い花の絵のブックマーカーが転がってる。
脳が、外部刺激の認識を拒否する。僕には引き続き世界を理解できない。できないということを無罪にしておいてくれないだろうか。
理解を拒んだまま視線はわずかに持ちあがり因果を探ろうとする自分の遠い遠い自覚が浮遊。地に足のつかない停滞。現実へ駄々をこねてる。現実は容赦なく僕を無視する現象でしかないのにだ。いつだってそうだったじゃんか。
(――――あ……)
本が床に落ちてるのは彼が落としたためだった。そりゃあそうだ。不便な紙版本を読む変わり者は今時この人くらいしかいない。僕が何時間でもワカメ先輩が起きるのを待つと決めたのを見て諦めた感じでパイプ椅子に座って、それで黙って僕を放っておいてくれた。何時間経ってもなんにも言わないでずっと本をめくってた。
監視役は、背もたれに寄りかかって目を閉じていた。
思考がクリアになってく。驚いたのだ。僕はこの人が眠ってるとこを見たことがなかったし、夜中だろうがなんだろうがいつ部屋に突撃しても高そうなスーツをかちっと着こんだまま読書や書きものをしてた。僕が寝ながら魔力を暴走させても毎回必ず秒で駆けつけてきた。医師さんや課長などみんなからまともに寝ないって嫌味を言われ、本人もしれっと「常に起きているので用があるときはノックしろ」と言った。
そんな監視役がパイプ椅子へからだを預け左腕を横にだらりとぶらさげた状態で微動だにしない。
……死ん、でたり、する?
真っ先に浮かんだのはそれだった。急激に現実に引き戻された。もちろん僕の見てないときに多少は寝てるんじゃないかとかおもわないこともなかった。別に大騒ぎするようなことじゃない。でも真っ先に考えたのはそれだった。
記名式最終代償優先魔法、通称〈呪い〉。反対魔法は存在せず、術者のいのちと引き換えに発動するもので、術者の死後も効果が持続する唯一の魔法だ。呪われる人間がこころの底から渇望するものを、望んでいるあいだだけ絶対に叶わなくする。
――魔術師。あの子どもの〈呪い〉は解除可能か?
――一個だけある。本人が『魔法を使えるようになりたい』と願うのをやめること。誰でも知ってる方法。そうしたら〈呪い〉は解けるよ。
〈呪い〉は、なによりも勝る強力な優先魔法だ。しかし受けた側の気持ち次第では解くことができる。九九・九九パーセントの人は解けずに一生を終え、半分以上が一年以内に自らいのちを絶つけど、そうは言っても〇・〇一パーセントの人は解くことに成功してるのだ。そして。
大量の魔力にさらされ続けて完全にからだがおかしくなってる彼は、〈呪い〉が解ければ誰がなにをするでもなく――自殺を、するまでもなく。
即刻死にいたる。
「ゼクーくんっ!」
膝かけを跳ねのけて立ちあがった僕の手がくいと引っぱられた。
「寝かせておやり。疲れているようですから」
「でも……!」
「大丈夫だよ。あの人が〈呪い〉を解けるはずがないでしょう? 寝ているだけだとおもうよ。もし解けているなら祝ってあげなきゃですね」
「でもっ!」
「ロットーさん。彼に生きていてほしいから、彼にはずっと『死にたい』と渇望し続けろと、ロットーさんはそうおもっているの?」
「……っ!」
振り向いた先でなんでも許してくれそうな温厚なワカメ先輩がおだやかな微笑みをたたえて僕を見つめてる。ぐったり横たわった先輩は喋っていられるのが不思議なほど蒼白で今にも死んじゃいそうだ。どいつもこいつも。僕は歯を食いしばった。なんなんだよ。
先輩が上半身を起こそうとするので僕は慌てて背中に腕をまわして支える。「おや」先輩は怪訝な顔をした。
「よっぽど疲れているんですかね。栞をあんなふうに落としたまま放っておくなんて。機構の研究にでも協力しているのかな」
「研究?」
「ぼくも詳しくは知りませんが……」
前置きをして僕の差しだした水を一口飲む。
「開発部の知りあいから飲みの席で小耳に挟んだことがありましてね。機構は不老不死を望むお金持ちたちの多額の研究費で成り立っている部分もありますから、たまに教官は研究室に駆りだされるようです。死んでから生き返るまでに〈呪い〉がどのような陣を発動するのか調べるのだとか。臓器をあれこれ摘出して再生するまで放置したり、水槽に何日も沈め続けたり、魔法の干渉不可項目である猛毒を飲ませてみたり。ありとあらゆる死因を試しつつみんな大喜びで観察するそうですよ」
……異常だ。
「いのちは大切である、生まれてきたことを喜ぶべきである、親に感謝すべきである、自殺は悪いことだ、世間一般で言われているこのような考えに、ぼくは必ずしも賛成というわけではありません。言いかたはよくないけれども」
先輩が水を飲み干した。
「死にたい人はね、ロットーさん、死んでもいいとおもいます。絶対的な正しさも間違いもないことなんです。たとえ他人には些細な問題に見えても、本人にとっては生きたくない立派な理由なのですから。人を一人自殺させるのにおおきな絶望なんて必要ありません。幸せそうに見えても人間は案外簡単に死にたくなります。ぼくはできるだけ生きる手助けをしたいし、ほかの道も示してあげたい。でも本人が選択するならそれもまたよいのです。死ねば開放されるのだけはたしかな事実ですよ」
ワカメ先輩に返されたからっぽのコップを見おろす。
「検閲官は、様々な解釈があるなかで『世界情勢的に正しいかどうか』を基準に要人の死を検閲するのが仕事です。そこだけはくれぐれもブレちゃいけません。保護対象と接しているとこころが動かされるくらいいろんなものが見えてきますが、ロットーさんの個人的な解釈で彼らの生死を決めてしまったら、世界が壊れてしまう。もっと大勢が死ぬことになります。秩序のために悪役を買ってでるのがぼくたちなのです」
「……馬鹿みたいだね」
うつむく僕に先輩が笑いかけた。
「ロットーさん。お願いがあります。ぼくとともに星を見てくれませんか」
「……え、っと?」
「此処にはベランダがあるからね。つきあってくれますか?」
「行きたいけど……行けないよ」
無断で外に出たら契約違反だ。監視役もあのザマだし……。
「大丈夫ですよ。だって監視役さん寝てるじゃないですか。悪いのは監督不行届の彼です。それにすぐそこのベランダですよ。ロットーさんは〈通過儀礼〉を終えたので外に出る権利があります。ベランダのロックはぼくも解除キーを持っていますしね」
逡巡した。
「……よし。僕、〈通過儀礼〉やったもんね?」
「そうですよ、その意気です」
ほんとうに監視役が起きないか確認をしに行った。相手は戦闘力のバケモノだ、近づいたら気配とかで起こしてしまうかもと忍び足で行ったけど、青年は目を覚まさない。
ブックマーカーを拾いあげる。かなり古いもののようだ。水彩画用のちょっとぼこぼこした画用紙に丁寧なスノードロップの絵が描かれ、ラミネートと複雑な〈保護〉がかけてあった。そう長くもつ魔法じゃないから定期的にかけ直してるんだろう。本も拾って一緒に近くの棚に置く。
「そうそう、それね。面白い話をしましょう。なんでも若い頃に恋人が作って贈ってくれたものだとかで、栞を大変大事にしているんですよ。あの顔でねえ。意外でしょ? 学生時代にぼくが悪戯で盗みとって隠したことがあるんですけれども、ははは、ふざけていただけなのに殺されかけました。全治三ヶ月でしたよ。懐かしいなあ」
愉快に語っていい思い出なのか、それ。
監視役に耳を近づけるとかすかに寝息が聞こえた。ほっとして涙がでてくる。腹も立った。頬を突っついてみても起きなくて、「監視役のくせに寝てちゃ駄目じゃん……」呟いても無反応だ。寝苦しそうだなとおもいネクタイをゆるめてシャツの第一ボタンを外しておく。僕がさっき跳ねのけた膝かけを取りにいきそっとかけた。
それだけ触ったりとかしてもちっとも起きないのを確認してワカメ先輩が死ぬほど笑い転げてた。呼吸しなよ、先輩。しゃれになんない死にかけのくせにさぁ。しまいには笑い声を抑えることができなくなって爆笑し始める。……さすがに失礼じゃない? あんまりにも先輩が笑うから釣られそうになった。
「っ……ふ…………ワ、ワカメ先輩笑わないでよ……っ、起こしちゃうじゃんっ……」
「あはははっ、はははははは……ぶふう! あはははは……だって、だってですよ……あの教官が……熟睡……あっはははは!」
なにが面白いのか意味不明だけど二人で数分間大笑いした。
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