2-08
沈黙がおりる朝の病室でワカメ先輩はやわらかくひとつ溜め息をついて、なんでも許してくれそうな温厚な声で「選ぶんですね、そちらを」と微笑んだ。含みのある言葉だった。
うん。選ぶよ。
視線をあげて先輩の背後の壁あたりにひっそりと隠された〈監視カメラ〉を一瞥する。そうだね。選ぶよ。君たちを選ぶよ。
「ロットーさん……ありがとうね」
「先輩を大好きだからいいってことだよ」
いっきにいろんなことを喋った僕に対して静まり返った病室でみんなおもいおもいの反応を見せてる。まずは医師さん。彼はこういうとき「医師は治療を行うだけですので」とどっちつかずの態度でとぼけておいてあとから都合のいい側につくタイプだ。ほらね、目があわない。顧問。無関心で読書してた。わはは、しょーもないな。愛煙家さんのみが、目まぐるしくなにやら重たい意味で変わってく状況についてくることができなくてきょとんと首を傾げた。
考えてもみてほしい。
あのね。機構って、未経験の新人に初年度の年収で五百十万だす職場だよ。言ってること分かる? 月給は三十万。そんなにもらえる職場へ半強制的に入局させられたあと一ヶ月間まるまる休暇みたいに放っておかれるなんて、ありえなくない?
業務らしいことを指示されず、検閲課の事務室に入ることもなく、自室と訓練室と病棟をうろうろして、ワカメ先輩に頼みこんで自主的な勉強をしながら一ヶ月が経った。せっかく規格外の魔力を持った魔術師が入局したのにだよ。僕は理解してる。魔術師にさせたい仕事が検閲課に無かったんじゃなくて、山ほど有るのに休暇状態にせざるを得ないほど僕を信用できなかったんだ。
魔術師には機構を敵視する明らかな動機がある。十五年間の監禁と拷問、装置制御システムへの取りこみ失敗。不死のSSランク戦闘職員をあてがっても充分に安心できるとは言い難い。というか、むしろ不死者も機構には制御しきれない反乱分子だもん。この人のせいで急遽予定が変わって、魔術師を装置制御システムに入れられなくなったんだから。
僕がのんきにワカメ先輩とお菓子を食べてるあいだ、機構職員たちは裏で慌ただしく魔術師対策に奔走し、準備が整うのにひと月を要し、そのかん今以上に機構の秘密が魔術師へ漏れぬよう細心の注意が払われてたことを、僕は知ってる。知ってて乗っかることに決めたのだ。
自分の行動範囲すべてに死角無く設置された〈監視カメラ〉や〈盗聴器〉に気がつかないフリをした。
魔術師を縛る契約系魔法への記名についていずれ要求されるであろうと分かってて、しらばっくれて待ち続けた。
言われるままおとなしく友だち作りに励み、敵意は無いよと意思表示した。
機構が用意したドッグタグを素直に受け取り、さっさと記名した。
そして、友だちになった優しい機構職員のことを助ける目的でもって検閲課の仕事をする、と宣言してみせた。
要するにだ。僕はワカメ先輩を引きあいにだしてオペラ課長とかもっと上の幹部たちとかを説得したかったのだ。魔術師は安全ですよ、って演説をして、現在進行形で〈監視カメラ〉に張りついてる人たちを納得させたかった。
早く外に行ってみたいし、世界を知りたかった。〈検索〉で画面越しに眺めてただけの街に行ってみたり、食べたことのないごちそうを堪能したり、ウィンドウショッピングでもして可愛い雑貨を買ったり、花や空や雨を全身で感じたり、したかった。身の安全の確保もだ。魔術師が外の人たちにも伝わるくらい活躍すれば、機構は安易に僕のことを装置制御システムに入れるとか殺すとかできなくなる。
自分のために先輩を利用しただけなんだ。
何処か遠くて時計の秒針の音が一秒ずつ鳴ってる。静かすぎるから聞こえてくる、一秒を、僕は自分自身のからだを刻みつけるような気持ちで耳にしてる。ワカメ先輩がぐちゃぐちゃになったままの左手を伸ばしてふっと笑みをこぼした。
「泣かないでください。ロットーさんには笑顔のほうが似あうよ」
頬をぬぐってくれる優しい手の温度が、熱くて、涙がぼろぼろ落ちた。
先輩を利用しただけなんだよ。かなしいんじゃない。〈変化〉の後ろのほんとうの顔も知らず、名前も知らず、隠しごとと嘘ばかりの先輩、出会って一ヶ月しか経たない先輩のために、胸が張り裂けそうなほどかなしくて泣いてるのでは、ないよ。
「泣かないで」
泣くもんか。
「心配させてごめんね」
心配するもんか。
「ありがとうね」
要らない。
お礼なんか要らない。
要らないからお願いだよ――……。
ぽん、ぽん、おおきな手が頭を撫でる。何故なんだろうか。記名式魔法でいったい何処の誰からなにをされて彼は死にかけてるの。そんなにひどい体調で、魔法の四大原則「利き手による媒介」を無視して〈記憶補助〉の高等魔法を使ったら、どうなるか分かってるよね。なんで諦めるの。
〈記名無効〉の文字列を確認する。読んでも読んでも、五回中の五回を使いきってる。
昨日までは四回だった。先週までは三回だった。
――黙りこんで泣き続ける僕の頭をワカメ先輩があたたかい手で撫でながら、僕のドッグタグを見つめた。ぺらっ、後ろのほうで紙版本をめくる音がする。
「あーあ。ロットーさん自身で書いてしまうとはね」
急いでたもん。分かってるでしょ。
「そうなるだろうとぼくはロットーさんの〈通過儀礼〉について前もってクォルフォア教官に頼んだのだけれども、結局はこうなりましたか。くれぐれもと、念を押したのですがね」
驚いたことにワカメ先輩にしては珍しく他人を責めるニュアンスの台詞だ。クォル……なに? 誰?
必死に泣きやもうとする僕の後方で壁に寄りかかった顧問が憮然と言った。
「……頼む相手を間違えている」
「そんなことはないとおもいますけれど、教官」
「依頼の折にもはっきりとお伝えした」
「ははっ。あの頃から変わりませんね。――ぼくが教官と知りあったのは学生時代でした。当時国立学園の魔法史を担当していらっしゃったのです。長寿なので定期的に別の偽名を使うんですが、新しいほうの名前をまだ覚えられていなくて。申し訳ありません。じゃあそろそろ、ぼくの自己紹介をしましょうか」
泣きやめない僕の頭を優しい右手が撫でる。
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