2-06
◆
「起きろ。新米」
知らない声が低くなにかを話しかけてくる。思考がぼうっとした。あっ。視界に強烈なひかりが飛びこんできて咄嗟に目をつむった。うわあ。なんか全身が熱くてぐったりする。
無理やり再び前方を見る。ひかりを混ぜあわせて無のようになった白色の髪が、荒れ狂う風に幻想的になびく。あれ? 長いまつ毛と深紫の瞳。ソファーに片膝をついて僕を伏し目で無表情に覗きこんでくる青年は不気味な美貌をしていた。知らない人だ。彼――たぶん男性だとおもうけど、二十代くらいのその人はひどく落ち着き払って僕をソファーに起きあがらせた。
「ふむ。早々に悪いが、魔力のコントロールが可能か否かを判断いただきたい。対応が異なってくるゆえ」
めっちゃ冷静沈着にしゃべってるけど君、血まみれだよ? 見まわせば壁は謎の斬撃でぼろっぼろになってるし机も椅子も原型を留めてなくてストームグラスが床で粉々に砕けてる。部屋中に散らばる焦げたり濡れたりした紙きれは紙版本だったものかな。無傷なのは僕とソファーだけだった。
ものすごい魔力が縦横無尽に駆け巡る。人間の支配から離れて無秩序に吹き荒れる魔力と、〈呪い〉のむせ返る濃密な秩序的気配だ。毎回ここで不意に気がつくのだ。
彼のファーストネームはグレイエス。名前はゼクン。顧問だ。綺麗で強いけど性格はまあまあ悪い。自分は魔術師ロットー・テナ。ホラー映画もどきの夢ごときにビビりまくって魔力を暴走させちゃってる。てへっ。
「……うっし、おはようこの世、おはようゼクーくん。返答は――」
ちょっと試してみた。
「――返答は、可能。制御できるよ。おめめぱっちりばっちり起きたからね。わはは」
「承知した」
魔力は正しい式に則って必要な手順で放出しなければ想定外の代償を支払うことになる。暴走を起こしたらまず死ぬとおもったほうがいい。術者も、近くの人もだ。
暴走を起こすことは通常ほとんどの者が一生に一度も無いのだけど、起こるときは寝たり気絶したりショックとかでぼーっとしたりしてるときで、多くの場合は術者の魔力が尽きて収まる。また、暴走時に近くで別の人が魔法を使うことはできない。暴走は感染する。引きずられるのだ。
一般的に、暴走への対処法はその場所が〈魔力遮断〉セキュリティー加工のあらかじめ施された空間なら一人閉じこめて放置、でなければ術者の殺害だ。
僕の知ってる限り、機構内はぜんぶの部屋が高度なセキュリティー完備だ。魔術師が暴走しても部屋の鍵を閉めて僕が死ぬか疲れきるかして自然に終わるのを待つことができる。なのにゼクーくんはそうしない。暴走しながらコントロールを取り戻すことが僕本人にとってよい訓練になるそうだ。機会が訪れるたびこの変人はあえて居座り、ぐったりしてる僕に無理難題をあれこれ要求してくる。
僕は自分のからだの感覚を確かめた。うん、やっぱり。歴代の魔術師のなかでも特に魔力量が多い僕にとって、代償の魔力を支払ってもたいした量じゃない。ピンピンしてる。ただ、魔力の奔流を即座に止めるのはちょい無理じゃねって感じだったので、出ていくに任せて方向性だけ〈修復〉に固定してみた。規則正しい魔法陣が広がる。
意思に、従わせる。
〈辞書〉検索。〈修復〉は五分以内に壊れたり怪我したりしたのをいっぺんにもとに戻すことができる魔法だ。便利だね。もちろん直せないものもあるよ。死んだ人や電動式機械などだね。よし、今回は間にあったらしかった。よかった。じゃないとゼクーくんにさんざん掃除をさせられる。ちなみに本人は手伝ってくれないで指示ばかりしてくる。ちぇっ。
壁の傷が消え、机と椅子が組み立てられ、ストームグラスが机にぽんっと乗っけられ、紙きれが本をかたちづくる。ゼクーくんの服もきれいさっぱり直る。
ソファーに置いてた左脚をおろして、ゼクーくんが注射器をポケットに戻した。暴走の最初数回使われた気つけ薬なんだけど、目覚め最悪だし数日まともに寝られなくなるくらい強いから、僕が四分三十秒までは待ってほしいと頼んだのだ。そのせいで四分三十秒〈防御〉とかもできないまま大怪我したり死んだりしなきゃいけなくなったというのに、ゼクーくんは変人だからそれでもなお居座る。
ほんとうに、訓練のためなの? ほんとうは、〈呪い〉が偶然破壊されたらいいと考えてるんじゃないの――?
能面みたいな顔からはなんの感情も読み取れなかった。
「眠るなら薬を飲め。薬を飲んでいないなら眠るな。何度も言ったとおもうが」
「睡眠薬は部屋に置いてきたし、此処で寝るつもりじゃなかったんだよ。ちょっと居眠りしちゃった。てへ。……ごめんね?」
ぐいと顎を持ちあげられる。まっすぐに見つめられる。近っ。硬直してる僕を数秒じっくり眺めて、額を触り、どうでもよさそうに結論を述べた。
「微熱だな。暴走したわりに元気そうで呆れる。ヤブ医者を叩き起こすまでもないか。寝るなら寝室へ行け。明日ヤブ医者に診てもらうといい」
「君でいいや」
僕は軽い調子で言った。
椅子に向かいかけてたゼクーくんが振り返った。空中ディスプレイにはまだ陛下のドキュメンタリー番組が流れてる。部屋の沈黙にその音だけがやけにおおきく反響してる。
幼少期に
「君でいいや」
僕は繰り返した。
「……なにがだ?」
首にかけたドッグタグをひょいと取って突きだした。
「一刻を争うんでしょ? どっかの王女様が自殺しそうになってて、すぐにでも助けに行かなきゃなんない。でも僕が〈通過儀礼〉を発動しないと、任務内容が機密事項ばっかりでまともに話ができないんだよね? 今済ませちゃおうよ。これは人に書いてもらう慣習があるって医師さんが教えてくれたんだ。自分で書くのも味気ないしさ」
――ミレイニア王女は王守との婚姻に反対する国民を納得させるため、異例の「名乗り」を婚前に彼へ行い、その覚悟を世界中に知らしめた。現代では結婚相手に必ずしも名乗りを行うわけではないが、当時は結婚式で行うのが流行しており、しかし当時としても婚前の名乗りは極めて異例なものだった――。
「君になら、名乗りをしてもいいや。上司っていうか、先生っていうか? 名乗りをしようとしまいと君はいくらでも僕を殺せるし、どっちでも変わんない。この一ヶ月一番一緒にいたのは君だし。連絡取れる家族もいないしね。書いてくれる?」
ゼクーくんがこっちに向き直る。結構すごい告白をしたつもりだったのに青年は動揺ひとつ見せず淡々と答える。
「誤解の無いよう願いたいが、光栄だとはおもう。そのうえで丁重に辞退申しあげる」
「ふーん。なんで?」
「約束事や誓いなど未来を縛る責任のあらゆるものが私は嫌いだ」
「なんの責任もないじゃん。別に、今だけでいいんだよ? 君の名乗りを受けたお返しをするだけだもん」
「……名乗りには責任がともなう。慎重に扱うべき事項だ」
「君がそれを言う?」
「ふむ」
杖をつきながら向こうに歩いていき、ゆっくりと椅子に腰をおろした。脚を組んでしばし思案したのちに顔をあげる。
ドキュメンタリー番組はそろそろ終盤に差し掛かってて、王様業を引退してずいぶん経つ現在百歳ちょっとの品のいいおばあちゃんを映してる。ゼクーくんはちらりと画面を一瞥した。あっ、と僕は気づいた。さっき、ワカメ先輩の病室にみんなを集めてドッグタグを渡してきたあと、ゼクーくんはやたら急いで帰ってしまって、なんで監視役に僕のほうがあわせてやらなくちゃならないんだとおもいつつ慌ててついてった。ゼクーくんはドキュメンタリー番組を見たくて急いでたんだ。
「……えええ? 録画しときゃあいいじゃん……」
「手元に残したくない」
即答だった。
「うーん。尊敬してるの? 陛下のファン?」
「いや。彼女が十八のときから数年間部活の顧問をした。文芸部だ。惰眠を貪る部活だと彼女は言ったが、非常に聡明で、面白いものを書く学生だった。――そんな教え子が懐かしくてな」
僕は言葉を失った。
「さて。はっきり伝えておこう、魔術師」
改まった様子で言い渡し、ゼクーくんは脚を組みかえた。
「私が久々に機構に戻ったのは、歴代の魔術師の魔力を軽く凌駕する貴方を支配したいと機構から連絡があったからだ。知ったことかと無視したが、報酬として〈呪い〉の破壊の可能性を提示された」
平板な低い声が朗々と響いてる。
「不死の魔法の成功例は私一人だ。現代魔法ではこの濃度の〈呪い〉をかけるすべが無いため、金輪際現れることはない。それを破壊することは機構にとって貴重な魔法の実例を失うことを意味する。苦渋の決断だっただろう。不老不死を夢見て巨額の研究費をだしてくださる資産家や政治家の皆様をまとめて敵にまわすわけだからな。私は条件をのむことにした。実際に貴方と会ってみると、装置制御システムへ入れるより本人の意思で魔法を使わせるほうが効率がいいと感じた。システムに組みこまない方法を模索し、自由にやらせてもらうことにした」
ゼクーくんがつけてる古い腕時計がチクタク鳴ってるのが聞こえてくる。
「報酬はあくまで『可能性』だ。そして、その可能性は結局のところ皆無であることが判った。無駄骨だったわけだ。だが報酬を受け取った以上は仕事を放りだすつもりはない。貴方がある程度業務を行えるもしくは一般社会で暮らせるようになるまで数年面倒を見る。終わったらまた機構から出る予定だ。貴方は」
いったん言葉を切って僕を冷たく見据える。
「貴方は私を便利なように利用し、適当なタイミングで忘れろ。以上。寝室に戻っていただけるか」
寝室は明るかった。僕は暗い場所がこわくていつも明かりをつけっぱなしにしてて、それで、えっと、あー、ええと、なんかわけ分かんないな、ふわっふわのベッドにどさっと座って、ちょっとぼうっと考えこんだ。別になにか期待してたとかじゃなかった。ううん、違う。この期に及んで自分に嘘をつくのか。
――教え子が懐かしくてな。
五百年以上生きてきた時間のなかでいったい何人をああやって見送ったんだろう。ああ、駄目だ。僕は醜い。
自分の汚さに吐き気がする。
――教え子が懐かしくてな。
涙がこぼれた。
醜くて汚いのは分かってるけど、でも、でもさ。魅惑的だった。どうしようもなかった。喉から手が出るほど欲しいとおもってしまってた。
「う」
あとからあとから涙が落ちる。静かに、涙だけ流し続ける。僕はゼクーくんの人柄を好きになったんじゃない。容姿を気に入ったわけでもない。優しいとか頼りがいがあるとか信頼してるとかそういう気持ちからでもない。友情も恋ごころもない。僕は、この汚い人間は、暴走を繰り返して幾度も彼を殺し、グレイエス・Zという人間が確実に自分より先には死なないことを確信して、だからこそあんなふうに陛下と同じに彼に時折懐かしんでもらえたらどんなにいいだろうってそのことに、狂おしいほどに惹かれてるだけなのだ。
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