Part.1 グラデーションのアイスココア
1-01
B621。星の一粒にも雨のかたちにもめったに人の訪れない悪夢にもなんにでも名前をつけたがる人間たちのこの世界で我々は自分の書いた文章にまで名前をつけてるんだね、それこそ、悪夢のようだ。
この手帳の名前は日記だ。書いてみるといい、って彼が言うからそうした。鉛筆はあまりなめらかな文章を作らない。僕はぶさいくな線をたどたどしく引っぱって今日という日の記憶の名前を忘れないよう紙製の文字列をこしらえる。
知らない人が低く自殺の方法を囁いてくれたような気がした。
◆
目が覚めたら季節の無い真っ白な部屋だった。ぼやけた思考で瞼を持ちあげる。まぶしい。物音ひとつしない慣れ親しんだ静けさのなかで、自分は検閲官たちから二十三時八分の空を手渡されてなんかないんだってことを知った。
今、今ね、時刻は二十三時八分です。今夜は晴れているので月と星がよく見えるとおもうんです。
はは。
ひどい倦怠感でじっと頭を動かさないでいても泥に沈むような重たさを感じた。沈んだまま浮いてるみたいな、そうしたら白い天井が緩慢にとけだしてこちらにごぽりごぽり流れこみ始めて僕はゆるやかに意識ごとからだぜんぶ溺れていくとおもった。吐きそうだ……。瞼をおろす。
……。
何日経ったか分からないけど目がまわらなくなるまで眠った。
目を開けてられるようになって三日くらいはふわっふわのベッドの感触にふわふわふわわわわ感動しながら微動だにせず過ごした。
二日間視線だけ動かしてシンプルな掛け時計やちょっとざらついた壁紙を遠目に眺め続けた。
一週間ほど経ったある朝そういえば此処では拘束されてないんだよなって気づいておもわずぽかんとした。
七時間ほど迷いに迷った。
緊張しつつそうっと右腕をあげてみた。
そしたら、なんと、右腕が持ちあがったのだ。
わあああああ。
二時間くらい右腕だけあげたりさげたり繰り返してそこからめちゃくちゃ勇気をだしてえいやって上半身を起こすと六畳の清潔で明るいいたって普通の小部屋が目に飛びこんできた。ベッドがあって机があって油絵の具の風景画がかかっててエアコンとテレビとサイドテーブルがあった。噓だろ。おおいに満足してその日はもう寝ることにした。
次の日は歩いてみた。走ってもみた。ジャンプも。スキップを習得しようとして転んだりして三時間半躍起になった。
ってな感じで僕が自分のからだを動かすことや家具を使うことに慣れたのは七月下旬がすっかり八月下旬になっちゃってる頃でいろいろ吸収し終わって体調もよくなったし独りこんなちっちゃな部屋に放置されてる現状が退屈になってきたから木製のしゃれたライティングビューローにぽいっと乗っかった白い電話機へ手を伸ばした。
電話は、繋がらなかった。
◆
ぴっ。
現在、
ぴっ。
世界中に活動拠点を構える巨大組織「反魔法主義団体」が死傷者を多数だした先日のデモで……ぴっ。
学園都市に今月オープンしたばかりのココア専門店には連日たくさんの学生が訪れ……ぴっ。
僕はテレビのスイッチを切ってふわっふわの布団の上にからだを投げだした。さっき寝ぼけてベッドから転がり落ちたとき肘とふとももをおもいっきり打ちつけてしまって痛かった。痛いのはどっちかというと好きじゃない。嫌いかも。嫌いっていうのは選択肢を狭める種類の思考停止のことだとおもうのであんまり軽率になにかを嫌いになりたくはないけど〈治癒〉しようとおもった。
魔法は、使えなかった。
◆
――電話が鳴ったのは夕方だった。
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