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 魔力を帯びた文字列は、青を基調としたいろいろの色の精緻な模様が重なりあい、ゆっくり明滅しつつ、水面にただよう花びらのごとく気紛れに震えては、消え、生まれでて、流れ、そうしてゆらゆらりかたちを変えていく。


 水彩絵の具を滲ませたみたいな、七月下旬……。


 七月という時間はものの境界線を溶かしてしまう。じっとりと全身にまとわりつくうだるような暑さが、空気の動かない広大な薄暗がりで静かにふくらみを帯びる。このゆるやかな熱だけが、窓の無い牢獄で見つけられるただひとつの夏だ。


 僕は夏を見ることがないままだった。さみしいとおもった。でも今さらどうしろというんだろう。動かせない身体から脂汗が落ちて、とうに麻痺したばすの数々の激痛のことをおもいだした。


 死のう。揺るぎなく、今日しかない。


「ふい~、めちゃくちゃいいねこれ。肩こり完治だわ。よっ、エリート! それじゃ次の命令ね。暑くてたまらないからなんか涼しくなる魔法かけて! やらなきゃ殺すー。そんでそんで、次はそうだなぁ……よし、一発芸だ! 面白くなかったら死刑ね」


「よろしいですとも。ええ、よろしいですとも。俺にできることならとことんおつきあいいたしましょう?」


 魔術師とはいえたった十五歳の小娘から繰りだされるどうでもいい命令の嵐に十くらい年上の医師は超絶気持ちいい肩揉みをしてくれながら満面の笑顔で頷いた。そしてノリノリで〈冷房〉魔法を広げ始めた。僕はおおいに期待して眺めた。


 即刻興味を失ったけど。


 ……。


 …………だって、ひとつめの文字からしてえらく効率が悪いんだもん。効率というかもはや頭悪そう。選んだ字も、配置も、魔力の配分も、順も、色も、なにもかもセンスが無い。国際機関のエリートってこんなものなの? がっかりして目を逸らした途端に〈冷房〉は驚愕のテンポで様子を変えた。


 二度見した。めまぐるしくページがめくられ、まためくられ、そのたびに無秩序な文字列がずらずら挟みこまれ、予測不可能な方向からぶっ飛んだ展開を重ねる。〈冷房〉にはちっとも要らない要素ばっかり……いや、違うな。


 嘘みたいに緻密に計算し尽くされた独創性豊かな〈冷房〉がかたち作られていった。この部屋のための。面積やら湿度やら三人の立ち位置やらを条件に組みこんだ。わずかな魔力を最低限の字数でまるで機械のようにコントロールしたとんでもなく精巧な陣だった。しかも、即興だ。


 謙遜もいいところだった。


 なにが「単なる医師にすぎない」のかな。


「――あはははは! なにこれどゆこと!? 天才じゃん、すっごくアホっぽいのに⁉ ははは、あはははっ……息、苦しっ、自殺する前に呼吸困難で殺される……!」


「ふふ。どうやら死刑は免れそうですね?」


「えっと……あの、え……? ただの〈冷房〉のどこが面白いんですか……?」


 医師の一発芸が高等技術すぎて同業者には伝わってなかった。僕は爆笑した。涙でてきた。


 泣き腫らした彼女は借りたハンカチをたたんでぐすんと鼻をすする。医師はやればできる奴だった。大泣きしてる戦闘職員に寄り添い、ハンカチを手渡し、軽く肩を叩き、背をさすった。そのどれひとつとして僕にはできないことだった。


 あーあ。おっかしいよね。


 部屋にはなにも無い。客人にすすめる椅子も、泣いてる女性に差しだすティッシュも、お互いの顔を見るための照明も。よくできた〈冷房〉にはそれらもろもろが器用に計算式に入れられてたから、改めておもい知らされる。


 平均的な校庭ほどの広さ、一室というには広大な、空間、窓の無い地下室、生まれた日に連れてこられ、ついに出ることがかなわなかった、牢獄、一生を過ごすにしてはあまりに狭い。


 全世界。


「君が泣きやんでくれてよかったよ。こわがらせてごめんね」


「いいえ! わたしのほうが、その、ごめんなさい……」


 僕にとって世界は殺風景だ。人口は一人。中央にぽつんと椅子が在るのみで、それは自分が座ってて、あとは床と壁と天井しか存在しない。笑えるでしょ?


「ねえねえ、謝る気がちっとも無さそうな其処の医師さんが、いっちばん、重罪だからね! 助けてあげないんだもん。このとおり僕はお手あげだってのに」


「さようでございますか。お手あげ、と」


 部屋の主は、首と腕と腹と脚とほかにも全身に拘束具をつけられ、何個も、何個も、何個も何個も何個も何個も何個も、指先まで一本ずつ椅子へがっちり固定されてる。


 かれこれ十五年くらいそうしてる。


 笑える、でしょ?


「手をあげられる状態には到底見えませんよ。失礼ながら」


「ぶふぅ! 物理的挙手! あははは」


 椅子には人体の魔力を強制的に吸いあげる複雑極まりない陣が無数に絡まり、数十年から数百年に一人しか生まれない「たぐいまれな魔力を持つ奇跡の子」がうっかり死んじゃわないよう、涸れることのない魔力の永久機関として、特殊な〈生命維持〉とか、拘束具の〈変形〉とか、本人にだけはどうあっても拘束を破壊できない〈優先条件〉とかがたっぷり登録されてる。


「まったくさ、君たちは勝手だよ。こっちの都合も考えてほしいね。来客とかの予定が無い日だったから〈攻撃〉を作ったのに、どーして妨害するかなぁ」


「あう。邪魔して、しまって、その……、ごめんなさい……」


「しかしあなたの人生に来客の予定が在ったことはあるのですか?」


「わっは――! 愚問だね!?」


 多少の魔法だったら使うことができたので、ドラマを観るみたいに時間の許す限りに外を調べ、観れば観るほどこの部屋について知っていった。そういう幼少期だった。朝がこない部屋。夜もこない部屋。木漏れ日も、風に散るもみじも、波のさざめきも、雨のあとの水溜まりをひょいっと飛び越えたり、何処かの家からただよう夕餉の匂い、流行りのポップスを口ずさみながら、楽しげにからから笑う誰かと隣りあって、長くなってく影法師を踏んで駆けたりする、夕日の真下。


 冷ややかな椅子の上。


「あー笑った笑った。そろそろ次の命令ね?」


 誰かと会話をしてみたいとおもってた。


 懇願しても返事をもらえたことが無かったから。


 神様。


「ええ、ロットー様、なんなりとお申しつけください。ただしお手やわらかにお願いいたします」


「いい返事だね!」


「いのちがけで対応させていただきますよ?」


 規定値以上の魔法の使用を感知されようものなら体内から魔力が吸い尽くされて陣はあっけなく掻き消えるっていう仕組みになってるなかで、このたび僕は生まれて初めて〈自殺用攻撃〉の発動に成功した。


 笑えるね。


「んじゃ遠慮なく。――彼女を連れて十分以内に此処を出ていけ。背いたら殺す」


 笑ってくれよ、神様。

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